こんにちは。
感慨深く拝読しました。
病床にあった祖母が点滴を絶たれ、静かに枯れていく段に入ったとき、母が無礼な発言をしました。
瞬間、祖母の眼球がギョロリとこちらに動いたのです。
聞いているのですね。
命の尊厳を思いしらされました。
自分が祖母のような立場になったとき、美木さんのようなエッセンシャルワーカーが側にいてくれればと、今から切に願うばかりです。
作者からの返信
ハシビロコウ様、お読みくださりありがとうございます。
ご祖母様、聞いておられたのだと思います。
「意識が無くても聞こえている」と、捉える看護師は多く、実際にそのような場面に遭遇した経験も多々ある様です(私も、私の姉も経験しています)。
ハシビロコウ様がご祖母様のような立場になった時には、きっとハシビロコウ様にとって必要な方が側に現れるのではないでしょうか。
望むことで、そのような縁が生まれるのかもしれません……
患者様と看護師の出会いもひとつの縁のような気がします。
真堂様、こんにちは😊
真堂様、以前、ナースの仕事をされてたのですね。
命を預かる大変なお仕事ですね。
入院患者様の一番身近にいらっしゃるのが看護師さんだと思います。
そんな患者様から
「あなたのことは絶対に忘れないわ。本当にありがとう」
そんな風に言って頂けるのは、看護師冥利に尽きますね。
彼女にとって最期の晩餐となった食事の介助。
彼女はきっと嬉しかったと思います。
何が正しいかは分かりませんが心無い上司の言葉には閉口します。
医療現場、色々と考えさせられますね。
作者からの返信
この美のこ様、コメントをありがとうございます。
仰る通り、看護師冥利に尽きます。ありがたいことです。
転職の多い私ですが、何処で働いても患者様や利用者様とかかわりを持つことは心に響くものでした。もちろん、時にはしんどいなと感じることもありましたが、それでも全否定してしまうようなことはありませんでした。
いつもなら仕事を辞め暫く経つと働きたい気持ちが湧いてくるのですが、今回は燃え尽きてしまったようです。
今は、ここカクヨムで皆様の作品を読み漁り、自身の作品もアップさせていただくのが楽しみとなっております。
いつもありがとうございます。
おはようございます。
うおお……。
患者さんの状態も見ないで、「食べれないでしょう」と言い放ってむこうに行ってしまった上司に物申したくなりますが、彼女も、職務をまっとうしているのでしょう。
だから、何も言わないでおきます。
看護師は尊い仕事ですから。
そして、『「あなたのことは絶対に忘れないわ。本当にありがとう」と、彼女の体調がまだましだったころに言われた』のですね。
患者さんは、作者さまに、とても感謝したのでしょう。
もしかしたら、今まで、そのように、優しくお世話を……自分をあつかってもらった事が、ずいぶん久しぶりの人生だった。
そのような可能性も、考えてしまいました。
患者さんは、作者さまからなら、食事、食べたいわ。そう思われたのかもしれません。
きっと、大きな意味のある一口、二口であった事でしょう。
作者からの返信
コメントをありがとうございます。
その患者さんから「ありがとう」と言われたのは、状態変化に伴い大部屋から個室へ変わり酸素吸入、車いす使用となっていった頃のことでした。
まだ、食事も摂れ会話もできていたのにもかかわらず、ベッド周りだけが彼女の行動範囲となっていました。
安静度の指示によるものでも、ましてや本人の意思によるものでもなかったのですが。
そのような状態の中、かなりストレスを溜めておられるのを感じ、私は彼女を車イスで(もちろん酸素吸入をして)病棟の談話室へお連れしました。現在なら感染予防で難しいのでしょうが、当時はコロナ禍前で、インフルの時期でもありませんでしたので。窓から景色も眺められますしと。
すると、以前同室だった方もおられ「久しぶり~」と、10分ほどのことだったと思うのですが、会話に花が咲いておられました。
そのあと病室にお連れしたときに謝意を述べられました。
本来なら、Nsが計画に入れるべきなのですが…その病棟の色と言いますか。
コメントを頂いて、改めて当時のことを思い出しました。
ありがとうございます。
状況が目に浮かびます。
ふと、食べてみようと思われたのかもしれませんよね。
ムセも誤嚥の状況も確認しながらなので
良かったと思います。
びっくりしたのは、上司が患者さんの前で
発した言葉でした。
うっそーー。そんな馬鹿な、、。
作者からの返信
ありがとうございます。
ご本人の意思に沿い最後の食事の介助ができたことは良かったのかなと。
ただ、地域性なのか、記載の上司のような状況となること、見ることが多くてここ十年ほどはエネルギー不足で転職を繰り返してしまいました。
お恥ずかしいことです。
その方たちを攻撃する気もないし、転職をその方達のせいにするのも違うと思うのですが。
患者さんとのやり取りにはやり切った感はありまして。
燃え尽きてしまったようです。
カッコいいこと書けないんですけど、患者を『看る』のが看護師の仕事で、『診る』のが医師の仕事ですよね。
だから医師は診察するし、看護師は看護する。
『看る』って『手』と『目』。手で食事を口元に運んで、目でその後の様子を観察する。ちゃんと看護してるんだから患者は「希望をかなえてもらった」ことになると思うんですよね。
寧ろ患者の前であの態度をとっちゃう上司こそ、担当になって欲しくないなぁ。
作者からの返信
コメントをありがとうございます。
はい。看護とは、手・目・言葉で観察し癒し、護ることなのだと思います。
その中心には、心が存在するべきだと。
二つ、思う事がありました。
まず、患者を診ずに患者を判断するのは、前を見ずに車を運転するのと同じ事で、そのような方に「看護」は難しいのではないか、と。
そして、「ありがとう」という言葉があったのでしたら、それこそが「答え」で、「正しかったかどうか」という尺度には何の意味もないのでは、とも思います。
作者からの返信
お星様とコメントをありがとうございます。
確かに、おっしゃる通りだと思います。
看護とは、目・手・言葉を使い護るのだと学生の時に習った気がします。
その患者さんの状態を観ることなく悪態をつかれた上司に対しての辟易とした感情は、かなり時が経った今もまだ私の中にある様です。
嫁の母親が弱ってきて、いよいよ食事をとるのが難しくなってきました。
個人的には食べることは生きることなんじゃないかと思ってます。
もし自分の事であったなら、食べずに衰弱死するくらいであれば、誤嚥で死んだほうがましだとすら思ってます。経管栄養なんて絶対嫌です。
でも、介助する方はそうは行きませんよね。
どこに答えがあるのかはよく分かりません。
そもそも絶対的な正解は無いようにも思います。
貴重な文章ありがとうございました。
作者からの返信
コメントをありがとうございます。
お義母様のこと、ご心配ですね。
ひと昔前は、経管栄養をされている方が多かったのですが、現在はかなり少なくなっているようです。
今はどちらかというと、嚥下機能を評価してどのような食事形態をどのぐらいの量、どのような姿勢で摂取するかなどを検討し、できる限り経口摂取を維持するようにしているのではないでしょうか。
そうは言っても、食べれなくなる時は来るでしょうし難しい問題ですね。その方の背景も様々ですし。
私も経管栄養は、受けたくないと思います。
命を永らえることが第一の目的ではなく、どの様に生きたいか何が幸せなのかを求めたいです。
第6話の「透析の先生たち」に書いているのですが、ある先生が「透析をするために制限して生きるのではなく、生きて楽しむために透析や自己管理が必要なんですよ」と、言われたことに共通する気がします。
長文失礼しました。
お食事を食べてもらったこと、間違っていないと思います。
「そんなの無理に決まっているわ」と患者さんを看ることなく言い放つ上司の方はとても残念だと思います。
当方、内科医の末席を汚す者ですが、「終末期」の方の食事をいつまで提供するか、ということについてはいつも悩んでいます。看護師さんや栄養科の方からは、「〇〇さん、ここのところずっと食事を取れてないですが、食事を止めてもいいですか?」と聞かれることは多いのですが、「食事を取れていない」ことと、「食事を止めること」とはダイレクトに結びつくことではない、と思っているからです。
意思表示ができ、認知機能の低下もそれほどでもない方の場合は、ご本人に「食事を目にするとしんどく感じますか?」と尋ね、「食事を取らないといけない」という気持ちがしんどい、と意思表示された方については食事を止めていますが、そうでなければ食事の提供を続けています。もちろん「食べられる範囲で、無理をしなくていいです」と指示を出しています。
意思表示ができない、あるいは認知症がひどくて判断ができない方については、意識レベルが低下し、閉眼した状態で過ごすことが多くなれば食事を中止しています。
「食事を提供する」=「あなたが『生きる』ということを前提としている」という医療提供側からの意思表示だと思っているので、安易に、食事を食べられていない状態が続いているから、という理由だけで食事を止めるのはどうか、と逡巡してしまうからです。
真堂さんの想いと、患者さんの想いが重なった瞬間だから、最期の食事を取れたのだと思います。誤嚥に気を付けながら食事介助を行なわれたこと、私は「適切」だと思いますし、自分の担当の患者さんなら、看護師さんに「ありがとうございます」と伝えます。
作者からの返信
コメントをありがとうございます。
適切だったというお言葉ありがたいです。
「食事をとれていないこと」と「食事を止めること」とは、ダイレクトに結びつくことではないという御意見、そうだと思います。
ですが、勤務していた頃には少しそのことから心が離れていた時もあったように思います。反省です。
身体的にはエビデンスに基づいて捉えるとともに、ご本様のスピチュアル・お心を尊ぶという両輪が当たり前ですが不可欠なのですね。
再度考え直す良い機会となりました。
ありがとうございました。
考えさせられる話ですね。
介助する側が最期の晩餐を頭に浮かべるように、患者も自分の最期の晩餐を察しているのかもしれない。
その時、信頼する相手にお願いをするというのは分かる気がします。
最期の瞬間を自分の意思だけで決められないというのはどんな思いなんだろう。
作者からの返信
コメントをありがとうございます。
最後の瞬間、、難しい問題ですね。
ただ、心を沿わせようとすることは出来るのかな。そうする事でお互いに少し幸せな気持ちになれたら嬉しいのですが。
「答えにたどり着くことは難しい」
ひとの命を預かる身だから、
何のアドバイスも、出来ないけれど、
いつまでもその優しさを宝物にして欲しい。
人の心の痛みを感じられるのは、
ダイヤモンドのごとく
貴重な財産だと思います。
身勝手な戯言を綴ってしまいごめんなさい。
作者からの返信
⭐️と応援コメントを有難うございます。
人の気持ちに対して敏感なのかもしれないのですが、仕事をしていると気付いていても全てに添うことはなかなか難しかった気がします。
ですが、気づくことそのものに意味があるのかもしれませんね。
有難いお言葉、感謝です、
終末期の患者さんに寄り添うと言うのは、とても神経を使いますね。とある病院では酷い扱いをしておりましたが、今の病院ではとても丁寧な対応を心がけているようです。病院で最期を過ごす患者さんにとって、食事をすると言うことは、生きる事の意思表示ともとれます。
どんな生き物でも、食べる意欲がなくなると、最期と言うものはとても近く感じられます。
そんな最期の活きる希望を口に運んだ。それは患者さんにしてみれば、とても嬉しかった事だと私は思います。その上司の一言には、とても看護する者の言葉とは思えません。まして、患者の前とかどうかしています。まるで、早く死んでくれ、と言わんばかりじゃないですか。
職業的なストレスは理解出来ます。しかし、それは裏で見せても、患者や家族の前では見せてほしくはないものですね。
いつも死と言うものに寄り添って仕事をしている看護師さんとしては、色々と思う事もあるのでしょう。或いは、はやく召されたいと思っている患者も少なくないと思います。どちらにせよ、やはり大変なお仕事ですよね。なかなか出来る事ではないと思います。
作者からの返信
かごのぼっち様、続けてお読みくださりありがとうございます。
その病院、その病棟でカラーというか、そのようなものがある気がします。
勿論、スタッフ全員がそうではないのですが…割合と言いますか。
良い方向性が多数なら、患者さんに寄り添った丁寧な終末期対応、逆ならば、残念な哀しい対応が主体となってしまう。
看護師の仕事は、一人ひとり、その時々、状態によって一概に何が正しいのかは、言いきれない部分が多々あると思います。
ただ、言えるのは、「人としてどうか」が、基本にあるべきだと。
…と、言うものの不完全な私は、時折、そのことをおざなりにしてしまうこともありました。
現在は、違う病院の外来で週3日ほどの勤務なので、業務内容は異なりますが、大切なものを忘れないようにしなくては❕