13

 洗面所で遊んでいると玄関扉が開く音がした。どうやら母が帰ってきたようだ。亡くなった息子が出迎えたらどんなに驚くだろう。

 ふふふ、と笑みをこぼしながらいつも通り出迎えてみる。


「お帰りなさい、お母さん」


 母は目を見開いたまま固まってしまった。返事はない。


 一週間経過した母は、一言で言うならやつれていた。

 以前より明らかに痩せていて覇気が無い。目の下にクマが見える。いつも櫛を使ってきっちり結わえられる髪も、今は無造作に結んだだけで整えられているとは言えない。服装も適当な気がする。


 息子自分が亡くなったという事態はそれだけ母に多大な影響を与えたようだ。


 優真は中学生にしては達観した考え方を持つ子供だった。

 起こってしまったことはしょうがない。過ぎてしまったことにいつまでもこだわっていてもしょうがない。重要なのはこれからどうするか、である。それがこの数年で優真が身につけた処世術でもあった。


 だから優真は「自分が死んだ」という事実についてもいつも通りすぐに受け入れた。今更どうあがいても生き返ることはあり得ないのだから、泣いて喚いても仕方ない。それなら幽霊となった自分に何ができるかを考えた方が有意義であると、そういつも通り考えた。


 そして母も同じような考え方だろうと感じていた。昔から母が優真を叱るときは声を荒げたり、感情的に叱ることはなく、理性的な説教に止まっていた。普段の生活からして何事も感情に任せて行動するよりも、落ち着いて状況に合わせた適切な対処をしているイメージが強い。

 だから優真は明子も感情より理性を優先する人だろうと思っていた。


 母にとって自分が大切な存在であるという認識は確かにあった。愛されていなかったなどと微塵も思っていない。ただ、明子なら一時的に落ち込みはするだろうが事実は事実として受け入れて、徐々に日常生活に戻れるだろうと優真は予想していた。

 一般的に子を大切に思う親がそれほど早く立ち直れるとは考えにくいのだが。


 しかし母の想像以上の落ち込みようを目の当たりにしたことで、優真は自分が思い違いをしていたことを知る。 


 これほど――やつれてしまうほどとは。


 自分が亡くなったという事実が母に想像以上の影響を及ぼしていることを感じ取り、優真はなんと声をかけようか迷っていると、明子がふらりと壁にもたれた。具合が悪いのかもしれない。

 大丈夫?と声をかけつつ様子をうかがうがまたも返事がない。そういえば、と先ほどの洗面所での出来事を思い出す。


「あ、もしかして僕の声聞こえてない?というか姿が見えていない?」


 盲点だった。むしろ当然のように他の人に姿が見えると考えていたほうが浅はかだった。幽霊になった自分は当然明子とコミュニケーションが取れるものだと思い込んでいたのだ。

(現実はそう都合良くいかないか)


 なんとか自分の存在を知らせたいところだが、それよりも明子の顔色が悪いことが心配だった。身なりからすると仕事帰りではなさそうだが、外出して体調を崩したのかもしれない。早く横になってもらいたいが、意思疎通ができない状態ではどうすることもできない。


 とりあえず重たい買い物袋を運ぶのは負担だろうと、明子が手放したために床に落ちていた買い物袋を持ち上げて室内に運び込む。

(今お母さんには買い物袋が勝手に移動してるように見えるんだろうな)

 これを追いかけて部屋の中まで付いてきてくれないかなあと思いつつ歩みを進めていると、


「――優真?」


 母から声をかけられて心底驚いた。振り向くと明子は買い物袋ではなく優真の顔を見ており、ばっちり目が合った。


「えっ?見えてるの?聞こえてる?」

「うん」

「もー!それならそうと返事してよ!意思疎通できないのかと思ったじゃん!」


 聞こえないものだと思ってぶつぶつ一人言を呟いていたのが全部聞かれていたなんて。なんて恥ずかしい。耳に熱が集まるのを感じる。


 何はともあれ意思疎通できることがわかったのは大きな進歩だ。

 まあいいか、と思い直して明子に近づく。額に手を当ててみたが熱はないようだ。立ちくらみか?それならやはり横になった方が良い。

 ふと明子の顔を見ると目の縁にじわじわと涙が溜まっていくのが見え、優真は戸惑って額から手を離した。すると次の瞬間、優真は強く抱きしめられていた。


 声を上げて泣く母を、このとき優真は生まれて初めて見た。




 明子が落ち着いたのを見計らってリビングのソファに座らせた。亡くなった息子が現れたのはショックが大きすぎたようだ。

 冷蔵庫に買い物袋の中身を移している間、祭壇と幽霊の自分を行き来する母の視線を感じる。

(なんて説明しようかなあ。僕もなんで幽霊になったのかよくわかんないんだもんなあ)


 買い物の内訳は主に根菜、卵、ペットボトルのお茶、漬物、インスタントの白米……葉物野菜と肉類魚介類が一切無い。冷蔵庫を開けるとこちらもほとんどすっからかんだった。母はこの一週間どんな食生活をしていたのだ。買ってきたものからすると今後もまともに自炊するか怪しい。


 主夫だった自分がいないから料理をしなかったのか?と一瞬考えたが、自炊する気力も無いのかもしれないと思い直した。

 優真は事態の深刻さを改めて感じたのだった。


 飲み物はほうじ茶を用意した。あまり食事を摂っていないのであればカフェインが多いコーヒーや緑茶は胃に優しくない。

 

 母と話してみると最初自分の存在を「幻覚」と仮定していたことを知り少し笑ってしまった。そういう考え方もあるのかと。母の職業柄そう考える方が自然なのかと思い至る。そういえば母は幽霊や怪奇現象の類いを信じない人だった。


 明子にテレビ画面に映るポルターガイストを見せてみると大層驚いてくれた。これこそ幽霊の醍醐味だ、と優真は一人満足した。

 触れることの証明に頭を撫でてもらった。頭を撫でられるなんていつぶりだろうと懐かしみつつ、母が警戒心を解いたのを見計らってあの日のことを釈明した。


「――まあ、結果、こんなことになってしまったわけなんですけれども……」 


 話しているうちにそうは言っても死んじゃったしな……という気持ちが大きくなり、だんだんうつむいて尻切れトンボに終わってしまった。両手で包むように持つ湯飲みに自分の情けない表情が映る。

 あの日ちょっとした使命感といたずら心で出かけただけなのにこんなことになるとは。


(あれ、そういえば結局黙って出て行ったことを謝ってないんじゃ?)


 自分の発言を思い返してみたが、外出の意図を説明しただけで終わってしまっている。えーとえーとと慌てて言葉を探していると「わかってるよ」と母の優しい声色が聞こえた。

 ソファに座る母は真剣な表情で優真を見つめていた。続けて母が話し出した内容に優真は衝撃を受けた。


「あの後気づいたの。優真がコーヒー買いに行ってくれたんだって。出かける前に声かけてくれてたよね。でも、お母さん振り返りもしないでそのまま行かせてしまってごめんなさい。コーヒーもお母さんが買っておくべきだった。優真が無理に買い物行かなくて良いようにするべきだった」

「別に無理して行ったわけじゃ……!」


 なんだなんだ。いったい母はどうしてしまったんだ。

 自分が外出した意図が伝わっているようで伝わっていない。今説明したばっかりなのに!


 あの日は優真自身が買いに行きたかったのであって、「母が買っておくべきだった」などと思ってもいない。無理に行ったどころか夜間外出を少し楽しんでいた節もある。

 外出時の声かけについても「母は集中していて気づかないだろう」ということを期待していたので、優真は振り向かなくて良かったとすら思っていたのだ。謝られてしまっては居心地が悪い。

 

 優真がどこから訂正を入れるべきか頭を悩ませている間に、明子の懺悔は続く。


「ううん。あの日だけじゃなくて、お母さんお家のこと全部優真に任せっきりになってたのが良くなかったの。何もかも頼りっきりになってた。だから優真が責任感を感じて……それにお母さん全然母親として優真に何もしてあげられてなかったことにも気づいたの。中学校に入学してからずっとそう。その前からもそうだったよね。寂しい思いをさせてたのはわかってたのに、優真に甘えてた。いまさら気づいたってなんだって思うかもしれないけど、今まで本当にごめんなさい。」




 優真は先ほどまでポルターガイスト現象を起こして喜んでいた自分を張り倒したい気持ちになった。


 今この瞬間、自分がこの世を去ったことを心の底から後悔していた。

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スターチス 相良 陸 @sagaramu2

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