第5話 僕に優しくしてくれた人
「いやだいやだいやだいやだああああああっ!! 死にたくないっ!! 死にたくないよおおおおおおおおおおおおっ!!!!!!」
「大丈夫か花蜜!!?」
僕が絶望に咽び泣いたその時、突然トイレのドアが開いて新鮮な空気が入り込んできた。風に煽られて火の粉が舞う。
その向こうに立っていたのは、冴月会長だった。きっと火の中を突き進んできたのだろう。完璧に着こなしていた制服ブレザーははだけ、白シャツが焦げてあちこち黒い穴が開いている。スカートにも大胆なスリットが入ってしまっていた。
「かっ、会長……っ!?」
「よかったキミが無事で!! アピスからここに居ると聞いたんだ! キミの名前も! さあ、脱出するぞ!」
「……だっ、脱出って……!?」
どうして僕を助けてくれるんだろう?
その理由と、脱出という言葉の意味が解らなかった僕はただただ狼狽するだけだった。そんな僕に会長は告げる。
「説明は後だ! 立てるか!?」
「あっあっ、ああのっ、のっ……こっ、こひっ! こひが、ぬけてえええっ!!」
僕は腰が抜けて立てなかった。こういう緊急事態的なものは、ゲームとかでよく目にしていたんだけれど、実際体験するのは初めてだった。幾ら力を入れようとしても立てない。足がぷるぷるするだけ。僕の体はまるで全身の骨が抜き取られたみたいになっていた。
「わかった!」
すると、会長は僕の背中と両膝の後ろに腕を回して抱きかかえてくれた。所謂お姫様抱っこという奴。
「ひぇっ……ひぇええ!?」
まさか抱きかかえられるとは思わず、僕はつい気持ち悪い声を出してしまった。とはいえ、自分の負け犬っぷりに関しては自覚しているので、こういう目に遭ってもそれ程恥ずかしさは感じない。僕のような弱い男はお姫様抱っこされるぐらいがちょうどいいのだろう。
それよりも、会長の顔が近くなった事が問題だった。若い女子特有のいい匂いがして、僕はすっかり緊張してしまっていた。一番緊張したのは下腹部だ。僕はこんな緊急時でもしっかりヘンタイである。こんな自分やめたい。
「いくぞ!」
そんな、いかにも惨めったらしくて負け犬な僕を抱えたまま、会長はトイレの引き戸を蹴っ飛ばして廊下へ飛び出した。
廊下は煙が凄い。薬品が焦げたような刺激臭もしている。ぐらりと船体が揺れて、床が10度近くも傾いた。会長はバランスを取るために通路側の窓に寄る。そこから僕は外を見た。
外の景色は異様だった。傾きのために視点がかなり高くなってる。海面は真っ暗で、大火炎によって照らし出された右舷甲板はすっかり焼け焦げ、化け物の影みたいに見える。絶え間なく吹き込んでくる潮風により、火と煙が竜巻のように立ち上っていた。通路の後方からガラスの割れるようなパリンパリンという音が何度も聞こえてくる。
どっ、どうしてこんな事に……!?
「キミと私が最後だ。この船はじきに沈む」
僕が無言で悲鳴を上げていると、会長が慎重に歩きながら僕に説明してくれた。
「しっしっ、沈むって……!?」
「今言った通りだ。この船にはもう誰も居ない」
その言葉に僕は疑問を抱く。何故なら通路の先に生徒が一人倒れているからだ。しかもその人を僕は知っていた。
あ、あの人は……!
それは、さっきデッキに行くと言っていたバスケ部の男子の一人だった。俯せになったまま、ピクリとも動かない。きっと彼がなぜそうしているのか解ってるんだろう。会長は何も言わず、僕を抱えたままバスケ部の横を通り過ぎた。
ま……ままままさか、死……っ!? ううううそでしょおおおお!?!?
僕は一瞬でパニック状態に陥ってしまった。会長に抱えられていなければ、きっとまた腰を抜かしていたに違いない。
だって、死なんてものはもっと遠くにあると思っていたから。しかも死んだのは赤の他人じゃなくて、さっき話したばかりのクラスメート。身近な人間の命があっさり失われてしまった事実に動揺を隠せない。僕の命も簡単に失われてしまう気がする。何か巨大な怪獣にでも踏みつけられるような、そんな圧倒的な恐怖が僕の心や体を圧し潰しす。
「……あの部屋に集まったままで居てくれればよかったのだが。どうして皆バラバラに行動してしまったのか……!」
燃え盛る廊下の火炎を慎重に回避しながら、会長が悔しそうに呟いた。その言葉が胸の奥深くに突き刺さり、僕の心臓がドクンドクンと打ち始める。
僕のせいだ。
でも、僕は悪くない。だって仕方が無かったんだ。あの場には時坂くんが居たから。彼さえ居なければ、僕だってきっと言えたんだ……!
そんな言い訳がすぐ頭に浮かんでくる。
だけど僕が悪いのは明確だった。僕さえきちんと皆に伝える事ができれば、きっとバスケ部の人も生きていたんだ。
「あ……あの、じ、実は僕……その……けっきょく……言えなくって……!」
だから僕は呟いた。精一杯の謝罪の念を込めて。
会長から見捨てられたら、負け犬の僕はもう生きていけない。先生からも、皆からもバカにされて。そんな僕に優しくしてくれたのは、会長しかいなかったもの。会長にだけは嫌われたくない。僕の味方でいてください……!
僕がそんな風に考えて目に涙を溜めていると、やがて会長が首を捻り、
「特に気にしていない」
目に掛かる前髪をさらりと払って僕に言った。
それきり話は済んだようで、会長はもう何も言わない。
え……? なんで僕許されてるの……?
疑問だった。僕のしでかした事は重罪だ。また先生の時みたいに叱られて、それこそ海に放り投げられても仕方ないぐらいの大罪なのだ。それがどうしてあっさり許される? 解らない……! 解らないけれど、会長は許してくれてる。
ああ、そうか……!?
そして僕は気が付いた。さっき一言で済ませてくれた会長だけど、きっと内心はこう思っているに違いない。
『キミは、自分ができない事であるにも関わらず、それでも私に言われた通りに行動しようとしてくれた訳だ。そんなキミの好意が私は嬉しい』と。
それなら一言で済ませたのも解るし、わざわざ僕なんかを命がけで助けてくれてる理由にもなる。つまり会長は、僕が僕なりに精一杯頑張った事を評価してくれてるんだ。
そう思うと、途端に僕は嬉しくなってきた。なぜって、今まで幾ら頑張ってきても、誰一人僕をこんな風に評価してくれなかったから。
僕は生まれつきデキの悪い人間だった。先ず運動ができない。コミュニケーションも苦手。忘れ物もよくするし、勉強だって真面目にやってようやく平均いけるくらい。大抵は赤点だし、唯一才能のあるマンガでさえ新人賞すら取れない。それでも毎日机にへばりついて、汗水垂らして必死に頑張ってる僕はまるでナメクジみたいな人間だった。普通の人なら努力すれば称賛されるけれど、僕は必死な分だけ気持ち悪いという具合だ。そんな僕だったから、他人が求めるような事は当然何一つとしてやれない。結果無責任と罵られ、先生や親からは見捨てられて、クラスメートからも嫌われてきた。
だけどそんな僕の辛さを、会長は解ってくれてる。会長は無能な僕の心情を汲み取ってくれているんだ。だからこそ、大事な仕事を障害者の女の子に押し付けて逃げ出した僕の行為を、精一杯努力した結果だと考えて許してくれている。今までの人生、そんな風に僕の惨状を理解してくれた人は誰一人としていなかった。
ドォオオオオオオオンッ!!
僕が内心感激していると、船内後尾の方でまた爆発が起こった。今度の爆発は今までで一番大きい。尻をバットで打たれたような縦揺れが起こって、僕の体が一瞬宙に浮かぶ。
「くっ!?」
会長はバランスを取るために立ち止った。そうしている間にも衝撃で船体がギシギシ揺れて、廊下がぐっと傾く。窓の外を見れば、旅客船の船体は二つに折れて後部が海中へと沈んでいた。廊下の傾斜は60度にも近い。殆ど崖登りだ。しかもこの通路はポリウレタンか何かの板張りで、かなり滑りやすい。これが僕一人だったら、成す術もなく廊下の奥へ転がり落ちていただろう。奥は火の手がかなり上がっていて、まるで火山の噴火口みたいになっている。
ひっひいいいっ!???! むむむりむりむりむりむりぃぃぃぃぃっ!!!! ぼぼぼ僕っ、死んじゃうううううっ!!!!
その悪夢のような光景を目の前にして、僕の思考が爆発した。恐怖で肺の空気が押し出され、悲鳴すら上げられない。
「まずい。恐らく燃料に引火したんだろう。今のはまだ小規模だったが、次は大爆発するかもしれない」
そんな僕のすぐ傍で、会長が猶も冷静に言った。
い、今ので小規模って……!!
これ以上の爆発なんて起きたら、僕なんか絶対に死んじゃうじゃないか……!!?
直前に迫った死の恐怖から、返事することさえままならない。まるで母に縋る赤子のように会長の腕にしがみ付いてしまう。
「花蜜。走れるか?」
すると、会長が僕を見て言った。
会長は問う。当たり前のように、こんな情けない僕にも走る事を期待してくる。その目には、僕が生涯ずっと浴び続けてきたあのできそこないの人間に対して向けられる同情染みた配慮など一切無い。その切れ長の目から伝わってくるのは、共に危機を乗り越える仲間に対する期待、ただそれだけだ。
だけどどうしてだろう。会長のその目が先日先生から向けられたあの無慈悲な視線と同じに感じられて、僕は若干戸惑ってしまう。
「……」
僕は失敗した。責任をか弱い女の子に押し付けて逃げた結果、少なくとも人が一人死んだんだ。もしかしたら他の人も死んだかもしれない。それは須らく僕の罪。だけど会長は許してくれている。許した上で、再度僕に『できるか』と尋ねてくれているんだ。それは会長が僕の頑張りを評価してくれてるからだし、僕を一人前の男だと認めてくれているからだ。僕ならやれるって会長は思ってくれている。そんな会長のために。僕にできる事ならなんでもしたい。だって会長の期待は嫌じゃないもの。会長は僕の初めての理解者だから!
「はいっ! 会長っ!!」
そんな強い気持ちが今、僕の全身の血液を熱く沸騰させていた。もう火事なんかどうでもいい。今なら僕はなんだってやれる! 会長のためなら、なんだってやってやるんだ!
会長っ! 僕っ! どこまでも着いていきますっ!!
僕はそう叫びたかった。もし煙で喉が燻されていなければ、きっと高らかに叫んだ事だろう。その後で、こんな人に率いられる剣道部はさぞかし強いだろうという事も一瞬考える。
「その意気だ。いくぞ!」
会長が言って駆け出す。その背を追いかけて、僕も走り出した。あれだけ怖かった炎がちっとも怖くない。今足元で燃え盛っている火炎も、相変わらず目や鼻や喉を燻して止まない煙も不気味な振動も、全てがなんでもないもののように感じられる。
ああ。この頭がピリピリしてきてるのは、たぶん脳内麻薬のせいだろう。ゲームで無敵な音楽が鳴り響いてる感じ。僕は今、会長と一緒に立ち向かっているこの危機を心の底から楽しんでる!
ズウウウウウウウウウウンンンンンンッッッ!!!
そんな事を考えていると、不意に後ろの方で地鳴りのような音が聞こえ、数瞬遅れで衝撃波が床や窓を伝って襲ってきた。床はゴムで出来てるみたいに撓むし、窓ガラスもパリンパリン割れる。
また何かが爆発したんだ!?
一瞬で僕の無敵時間は終わる。今までだって崖のように思えた傾斜だったのに、それが更に10度近くも傾いたのだ。僕はその場に立っている事ができず転んでしまった。なんとか通路の手すりにしがみ付いたんだけど、それも余りの熱さのために手放してしまう。
僕は成す術もなく廊下を滑っていった。足元に見えるのは灼熱地獄。マグマのようなあの大火炎に包まれれば、僕なんか骨の髄まで溶けて無くなってしまうだろう。もうどうしようもない!?
「花蜜!」
その時だった。突然僕の肩がねじ切れんばかりに引っ張り上げられる。見上げると、会長が片方の手で僕の手首を掴んでくれていた。そのままもう片方の手でも僕の手を掴み、運動会の綱引きの要領でズイ、ズイッと僕の体を引き上げてくれる。
「絶対に私の手を離すなァ!!」
叫んで会長は歯を食いしばり、一本釣りの要領で僕を自身の後方にある甲板へと投げ飛ばした。同い年の少女とは思えない、物凄い力だった。衝撃で僕は斜めになったデッキの床に背中を打ち付ける。そのまま二転三転し、船の船首部分に乗り上げた。打ち付けた背中が痛い。
た、助かった……っ!?
僕がそう思っている内にも、再度危険が迫る。爆風に押される形でスピードを上げた火の手が、物凄い勢いで傾いた廊下を登ってくるのだ。その様はまるで、炎の悪魔が両腕を掲げて僕たちを逃さんとしているようだ。
「飛び込むっ!!」
その悪魔の手から逃れるように、たった今僕を吊り上げた会長が振り返り、僕の方に向かって走ってきた。そのまままるでプロレス技のラリアートの要領で右腕を僕の顎の下に引っかけ海に向かってダイブする。一瞬の浮遊感の後に僕は見た。僕らの足が離れたその瞬間、吹き抜けてきた爆炎が背中を通り過ぎ、そのまま漆黒の空へと吹き抜けていくその様を。
そう思ったのも束の間、夜の水面がまるで黒い鉄壁のように迫ってきた。直後に鉄板で叩かれるような衝撃が顔や肩を中心に全身を襲い、僕の意識はあっけなく霧散してしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます