ネトウヨ史観

いなば

第1話 言葉だけでは平和は守れない

『言葉だけでは平和は守れない。』


これは私の若いころ耳にしたスローガンである。些か記憶に自信が持てないのでネットで検索してみたが、もう出てこなかった。

多分、死語となっているのだろう。

だから自分の記憶だけを頼りにして書かざる得ず、少しいい加減となってしまうのだが、ご了承いただきたい。


たしか、70年安保闘争でのスローガンではなかったかと思う。

当時、日米安全保障条約は10年ごとに改定・更新されることとなっていた。それで、その改定時期のタイミングに安保闘争を繰り広げていたのである。ちなみにそれ以降は自動延長となっていて、この騒ぎも無くなった。


平和を守るためには日米安全保障条約を潰さなければならない、そのためには議論だけでなく行動を起こさねばならない、だから『言葉だけでは平和は守れない』と言っているのだ。

左翼勢力が安保闘争を動員するためのスローガンとしてこの言葉は生まれた。


ところで、私はネトウヨである。なのになぜ、この左翼のスローガンをひつこく覚えているのか?

それはその後日談があるから。


70年安保闘争が終わって日米安保体制が盤石となり、無事今日に至るのであるが・・・なんと、こんどは自衛隊がこのスローガンを使ったのである。

隊員募集の宣伝に使ったのだ。

つまり、“平和、平和”とお題目を唱えているだけでは平和は守れない、実力でもって平和を守らないければならない・・・という理屈である。

このスローガンを言葉通りに素直に考えると、こちらの解釈の方が似合っていると思う。


なら、これでメデタシメデタシと終わるところであるが、そうにはならなかった。


社会党の議員が国会で、「言葉で平和を守れないというのなら、一体何でもって平和を守るつもりなのか!」と、防衛庁を問い詰めたのだ。


今ならば、「決まってるじゃん、鉄砲とミサイルで守るのよ」と言う所であるが、当時はそのような理屈は通らずに「怪しからん」と言う事になった。かくして、このスローガンは消えていってしまったわけである。


今から考えてみたら、社会党議員の方がおかしい。特にロシアのウクライナ侵略という現実を見ていると絶対におかしい。お花畑丸出しである。

しかし、お花畑の平和主義こそが当時の日本の世論の常識であった・・・だと思う。


まったくもって変な話だと思う。

なぜ当時は「お花畑の平和主義」だったのだろうか。


当時のソビエト社会主義共和国連邦、ソ連の恐ろしさは今日のロシアどころの比ではなかったのだ。ソ連国内の言論の圧迫だって、プーチンロシアどころではなかったのである。

ソ連では、電話の盗聴なんかは当たり前だった。いやもっと凄いのは、コンピューターのプリンターやコピー機さえ自由に持てなかった、つまり印刷技術は政治宣伝活動の手段としてソビエト政府が管理していた、そう言う社会体制だったのだ。

また、1968年にはプラハの春といって開放的な社会主義を目指したチェコスロバキアのドゥプチェク政権をワルシャワ条約軍の戦車の群れが踏みつぶしている。(ちなみに今回のウクライナ侵略でのロシアの論理はこの時の丸写しだ。プーチンロシア人の頭の中はソ連時代の覇権脳のままなのであろう。)


つまり、当時の国際環境からいうと安全保障上の脅威は今日どころではなかったのだ。

であるのに、世論の常識は「お花畑の平和主義」だったのである。


「お花畑の平和主義」とはどういうことか。

私は思考放棄だと思う。


つまり、『我々日本国民は安全保障について考えても意味がないのだ』、あるいは『考えてはいけないのだ』、そんな自己規制が働いて思考を歪めていたのではないか。そんな状況だから、安全保障ということについて真っ向から考えようとしなかった。

私はそう思っている。


これは日本国民一般だけではない。実はアメリカもそうある様に望んでいたに。東京裁判の判決が下りて東条英機が処刑されたのは1948年の暮れであり、ワシントン平和条約でもって日本の主権が回復したのは1952年の事である。日本帝国が『悪の戦犯』として、その土台の上に東アジアの新たな秩序形成が始まってまだ20年しかたっていない時期で、ちょうどベトナム戦争の最中さなかの時代だったのである。

反植民地主義を振りかざして戦争をおっぱじめた日本が独自の世界観でもって国際秩序に参入されるのは、米国からみるとなんとも危なっかしい・・・いや、まっぴらごめん・・・当然だろう。

だからアメリカも日本を「お花畑の平和主義」の檻の中に閉じ込めておきたかった。

それは憲法第9条と同じ論理だ、少なくともアメリカから見たら・・・。

私はそう考えている。


ちなみに憲法第9条に関しては、上記の「お花畑の平和主義」以上の意義があるとは護憲論者の見解なのだが・・・正直言って、その理屈がよく理解できない。強引な論理に情緒を混ぜ込んで、余計に訳の分からなくなってしまった話をただ声高に主張している・・・ようにしか思えない、私には。


さて、話を最初に戻したい。

『言葉だけでは平和は守れない』である。


この一言は正しい。

じゃあ、何でもって平和を守るのか・・・鉄砲やミサイルでは無理なのもよくわかっている。

『暴力』という力は、秩序・・・平和を意味している・・・を守るのに必要なものであるとは思ってはいるが、もちろん、それだけでは十分ではない。

暴力をいかにして制御するのか、この辺の『正義』が・・・つまり、最大多数が納得できる秩序の論理が重要であるのはいうまでもない。


この『正義』がないと、今のプーチンロシアと同じという事になる。ナチスドイツが『邪悪』なのも、の勝手な『正義』でもって暴力を最大限にまで使い倒したからである。

(ちなみにネトウヨである私は、かつての日帝はそこまで『邪悪』ではなかった、と思っている。)


と、なると・・・そのみんなが納得できる『正義』に基づいて『暴力』を制御・管理するより他ないわけである。


でも矛盾した話であるが、『暴力』を管理制御するには、『暴力』をもってするより他ない。ウクライナの情勢を見たらよくわかる。

だから、みんなが納得できる『正義』に基づいている側も『暴力』を保持して、それでもって自らの『正義』を担保するより他ないと考えるのだ。


『非』暴力は願望でしかなく、平和をまもる手段たり得ない。それを望むのは情緒であって、知性ではない。『邪悪』な奴につけ込まれるスキを与えるだけである。


と言う訳で、みんなの『正義』に基づく『暴力』を保持しながら、みんなで監視し合いましょう・・・これが集団安全保障の論理ということになるのだが・・・とするより他ないのだ。

そうとしか考えられないのだが、いかがであろうか。


平和を守るためには、言葉だけではできない。もちろん力づくだけでもできない。


努力;防衛費だけではなく、多国間での協議も重要なのだ、

友情;それに基づく国際間での信頼、

・・・そして勝利;平和は秩序であり、それは勝利の結果と言う事である。


まことにもって、少年ジャンプが正しい・・・と言いたい。


先に、「お花畑の平和主義」は日本の左翼だけでなくアメリカも含めて必要としていた、と書いた。

それが、当時の東アジアの平和秩序を維持するのに都合よかったからである。

しかし、現在はどうであろうか。

あの時のような2極化した世界ではなくなり・・・いい時代になると思ったときもありました、が・・・却って混沌とした世界になってしまった。

この様な状況で「お花畑の平和主義」を守り続けるのは、平和・・・つまりは国際秩序・・・を守ろうとする努力をと怒られても仕方があるまい。


ネトウヨである私は、憲法第9条の改憲論者である。


平和を守るには、『努力、友情・・・そして勝利』しかない、と主張する。

少年ジャンプ平和主義者なのである。


・・・なんとか、ネトウヨ穏健派らしい結論に落ち着いてホッとしている。




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