剣闘士

よしお冬子

剣闘士

 青いマントを翻し、その剣闘士は、今日も闘技場の扉を開ける。

 もう何度も繰り返された光景。もはや緊張など微塵も感じないが、だから言って決して油断はしない。いつものように、深く息をつき、体の芯に力を入れ、敵を待つ。

――今日の相手は…

 闘技場に勢いよく飛び込んできた赤いマントの対戦相手。大きな身体には過去の戦いで負ったのであろう数多の傷がある。マントも裾の方がボロボロである。

 対戦相手は剣闘士を見下ろし、

『なんだ小僧、随分おきれいな風体だが新人か?』と、馬鹿にするように鼻で笑い、大剣をぶんぶんと振り回し威嚇する。

――やれやれ。今日の相手も大したことないな…

 肩をすくめ溜息をついた剣闘士に、対戦相手は目を剥いた。

『なんだその態度は!』

 早速大剣が襲い掛かる。が、剣闘士は難なくかわした。

『…そんなに大振りするから隙ができるんだ。お前の体中の傷が、今までどれだけ無様な戦いをしてきたが物語っているな。』

 何度も繰り出される大剣をひらりひらりとかわしながら、心底憐れんでそう呟く。

――まったく。これじゃ試合にならない。こんな奴、簡単に倒せるけど…

 剣闘士はちらりと観客席を見やる。

――いた。

 彼の王が頬を紅潮させ、何か叫んでいるのが見えた。

――もっともっと、王が喜ぶような戦いを見せなきゃ…

 わざとギリギリでかわしてみたり、上手く大剣をはじき返しているのによろけてみたり。その都度くるくると表情を変える王が何とも愛おしくて、つい、くすりと笑みが零れてしまう。

『おい!馬鹿にするのもいい加減にしろ!』

怒りで増々大振りになり、雑になっていく対戦相手の攻撃。ぜえぜえと肩で息を切らせ、足元もおぼつかなくなってきている。

――潮時だな…

 剣闘士は一歩踏み込んだ。かと思うと、対戦相手を一閃。足下にどさりと倒れる。

『今までただ運が良かっただけなのに、実力だと過信したな』

 吐き捨てるように呟いた剣闘士の言葉は、もう届いてはいないようだった。

 王が満面の笑みで剣闘士を迎え入れ、お前は強い、美しいと、称賛の雨を降らせる。いつものことだが、これだけはいつまで経っても嬉しいな…と、剣闘士は歓びを噛み締める。

 剣闘士は王に直接言葉をかけることができない。だが二人は互いに通じ合っていた。王にとっての一番であるという誇り。そして王が自分にとっての一番であると言う誇り。陳腐な表現をすれば、それは愛なのだろう。

 喜びに満たされた勝者の一方で、対戦相手の一団は悔しそうに引き上げて行った。


 国に戻り、殺風景で小ぶりな自室でくつろいでいると、世話係の女が食事を運んで来た。王自らが食事を運んでくることもあるが、最近はもっぱらこの不愛想な女が、乱暴に食事を置いていくのである。

 彼女は明確な悪意を発していたが、剣闘士は鼻であしらう。

――能無しの醜い女め。お前に、私ほど王を喜ばせることができるのか?

 彼女を一瞥すると、自慢の青いマントをみせつけるように大げさに翻し、食事を手に取った。


 何日も戦いがないことは珍しくはないが、それにしても今回は間が開きすぎている。

 それに、剣闘士の仲間たちが次々とその姿を消しているのである。彼等にとって負けは即ち死を意味するから、単純に負けて処分されたとも考えられるが、それにしてもこんなに立て続けというのはおかしい。以前は頻繁に剣闘士を見舞いにやってきていた王も、全く顔を見せなくなっていた。

――どうしたんだろう。飽きられたんだろうか。…まさか!だって、あんなに喜んでいたじゃないか。

 剣闘士の中で暗い不安が日々大きくなって行く。

 不安で不安で、耐えられなくなりつつあったある日。久しぶりに闘技場へと連れて来られた。

――良かった、やっぱり気のせいだったんだ。頑張っていい試合をしなきゃ。もっともっと王を喜ばせないと…

 剣闘士は観客席を見た。…が、どこにも王の姿はない。

 混乱する彼の目の前に現れたのは、見たこともないような、巨大で、醜悪な化物。大きな口からは何本もの鋭い牙が覗いている。

 剣闘士は察した。

――…そうか。私は捨てられたのだ。殺されるためにここに連れて来られたのだ。他の仲間たちと同じように…

 流れ落ちる涙。視界が歪む。だがそれでも、ただ殺されてやるなど、剣闘士の矜持が許さない。唇を噛み、剣を構える。

――私は勝つ。生き延びてやる。そして、もう一度…

 しかしそこまでだった。剣闘士の剣は、いや剣闘士の体ごと一瞬で弾き飛ばされた。凄まじい衝撃。体勢を整えるいとまもなく、何本もの牙が体中を貫いた。肉が裂け、骨が折れる音。激痛、焼かれるような熱さ、次に寒さ…あらゆる苦痛がどっと押し寄せる。

――もう一度、王に…

 そして、最後に永遠の闇が剣闘士を飲みこんで行った。


「そうか、うん、わかった。じゃあ」

「ねえー、誰からの電話?」

「例の件。ピラニアに食わせてやったって。他の誰かにくれてやるなんて悔しいから、いっそ、って思ったけど…あーあ、自慢の奴だったのにな」

「もう!何度も話し合ったじゃない!子供も生まれるし残酷な趣味なんてやめようって」

「そうだな、パパは赤ちゃんがこの世で一番大事ですからね、ハハハ」


ベタ。闘魚ともいう。赤や青の大きなヒレが美しい魚である。原産地では今でも賭博の種となっている。

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剣闘士 よしお冬子 @fuyukofyk

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