第2話 殴られた帰り道、俺は担任の名前をまだ知らなかった。


 周囲を見渡す。自分はベッドの上にいるようだ。白を基調とした部屋の中は、本格的ではないが医療器具がまばらにおいてあり、少しアルコールの匂いがする。ここは保健室のようだ。入学してから初めてきた。


 時計は6時を指している、窓から見える外の景色が薄暗い。夕方の6時だろう。自分は謎の少女に殴られて気を失い、保健室に運ばれたというわけなのだろう。それにしてもあの少女は一体何だったんだ。キスをするような素振りを見せたとおもったら、大きく振りかぶって俺の顔を殴って来るなんて。いや冷静に考えたら俺の方がおかしい。見ず知らずの美少女にキスをされると思っているのだから。深夜アニメを見すぎたかもしれない。もっと道徳の教科書を読み込んでおけば回避できた惨劇だった。それでも何もしてないのに殴ってくるのはおかしい、あいつも心のノートを読み込んでおくべきだった。


そんな他愛もないことを頭の中で考えていると

「あ、やっと起きたのね。」 ガラガラとドアを開けて二人の女性が入ってきた。一人は屋上で俺をノックアウトし、保健室送りにした暴力女。名前は、ツバサ。もう一人は自分のクラスの担任だった。名前は、確か。覚えていない。



「もう少し起きるのが遅かったら救急車を呼んでいたよ。二宮、どこか痛むところはないか?」

 まだ名前を覚えてない俺とは違い、担任はすでに俺の名前を覚えているみたいだ。しかもいきなり呼び捨て。まだ話したことのない人を呼び捨てるとは、自分にとってはなかなか勇気がいることを教師はなんてことのない顔でする。先生だけあって、コミュニケーション戦闘力が高いのだろうか。


「大丈夫です。少し右の頬が痛いですが。」

「そうか。倒れたのはおそらく地面に倒れこんだ時に頭をぶつけて軽い脳震盪を起こしたのだろう。念のため明日は病院に行くといい。親御さんには私が電話しておいたから。とりあえず今日のところは帰ろう。二人とも私の車に乗って。その前にツバサは二宮に謝れ。」



 神宮寺ツバサは少し不服そうな顔をしながらも、ベッドで横たわっている俺に体を向け、少しだけ、頭を下げた。角度にして25度くらいの浅いお辞儀。


「ごめんなさい。まさかこんなことになるとは思わなくて。すこし軽く叩いたつつもりだったのだけど。失神するなんて思わなかったわ。」

 誤っているのか煽っているのかよくわからない謝罪をされて、どんな対応を取ればいいのか分からず「は?」と言ってしまった。


 流石に許容できない謝罪の仕方だったのか先生は「ちゃんと謝れ。」と注意した。

 神宮寺は不服そうに「チッ、ごめんなさい。」と言った。

「いや、こちらこそ変なこと(キス待ち顔)をして悪かった。ごめん。」

 舌打ちをしながら謝られてもと思ったが、逆上されて殴られてもいやなので許すふりをしてこちらの非も謝っておく、所作から自分より年上であることは無いと確信できたからタメ口で話すことにした。特に何も言われなかったので同級生か後輩らしい。


 形式的な浅い謝罪の仕合が終わると先生は俺らを送るために白い軽自動車がある駐車場まで連れていってくれた。車はあまり街中では見ないモデルで、どことなく古臭さを感じさせる雰囲気を放っていた。


「あんまり広くはないが、まあ乗ってくれ。」

 先生はドアを開けて運転席に乗る。別に好きとかではないが、絵になるなと思った。いきなり殴ってきたツバサも美しい人の部類にはなるが、先生の美しさの方がより熟練された美しさである。そして美しさの中に大人特有の寂しさを感じさせる。これは暴力女には無いものだ。


 失礼しますと言って車に乗る。ツバサが何も言わず後部座席に乗るので、しぶしぶ俺は助手席に乗った。会って間も無い人の車の助手席に乗るのはそれなりに緊張する。


「それじゃ、出発。」

 慣れた動作で先生は車を発進させる。今だに名前がわからない。

 車にはナビが無く、テレビもついていなかった。エンジンが付くと同時に少しノイズ混じりのラジオがつき、知らないパーソナリティが知らない曲の紹介をしている。よく聞いたら今朝のニュース番組でインタビューに答えていたアーティストの曲だった。ラジオ越しで聞くと音質の悪さのおかげか案外自分好みのいい曲に聞こえる。


「先にツバサの家から行くぞ。」

 俺の家の方がおそらく近いだろうけど、言い出せなかった。名前を知らないから。ツバサはスマホの画面からバックミラー越しに先生の方に視線を向け、小さな声でお願いしますと言った。


 ツバサの家は思ったより遠かった。車で送ってくれるくらいだから自分と同じ徒歩通学なのかと思っていたが、車で30分ほどかかった。普段はバスと徒歩で通っているのだろう。


 郵便局の角を曲がりコンビニの近くに来たところでツバサはスマホをバッグにしまい、運転席の先生に話し出した。

「ここら辺で大丈夫です。あと少し歩けば家なので。」

「そうか、気をつけて帰れよ。あと、人の顔をいきなり殴らないように。」

「はい、わかりました。送ってくれてありがとうございました。」

 大人しい口調で感謝を伝えたあと、ツバサは車から出て走って帰って行った、俺には一瞥もくれずに。


「それじゃ、二宮の家に行くか。ごめんな、遠回りする形になって。」

「大丈夫です。」

 遠回りになることを知っていたのか。知っていたのにツバサの方を先に送ったのか。まあどっちでもいいが。


 しばらく静寂が車内を満たした。先生がラジオを消したからだ。もう五分ほどで家に着くと言うところで先生は口を開いた。

「今日は災難だったな。いきなり会ったばかりの人に殴られて。でも特に異常はなさそうでよかった。明日病院に行ってみないとわからないけど。」

「そうですね。びっくりしました。初めて人に殴られたかもしれません。」

「そうか。初めて人に殴られるのが会ったばかりの人とはな。」

 先生は軽く笑った。口から笑い声を出してはいたが、目はほとんどわらっておらず、俺が何を言っても笑うことが決定されているような、愛想笑いの境地のような機械的な笑いだ。あまり好きになれない人かもしれない。


 なんとなく会話が終わる事に耐えられなくて、俺はツバサに直接聞けばいいことを先生に質問した。

「あの、ツバサって人はうちの学年なんですか。今まで見たことない気がするんですけど。」

「いや、あの子はお前の隣のクラスに来た転校生だ。だからお前は完全に初対面の人に殴られたと言うわけだ。」


俺は続けてこれもまた本人に聞けば良いことを質問した。

「なんで、転校生なのに俺の名前を知っていて、屋上に呼び出したんでしょうか。」

「さあな、それは明日本人の口から聞いた方がいいだろう。私もツバサに聞いたが、きちんとした答えは聞けなかった。あいつは面白いな。」

「そうですかね。」


 会話をしているうちに車は俺の家の前に着いた。軽くお礼を言って、ドアを開け、外に出る。もうあたりは暗くなっているから、家の前の

もう一度お礼を言おうと車の外から運転席にお辞儀をする。



「今日は安静にな、念のため、明日は病院に診てもらえよ。それから、私の名前は氷川マキだ。明日までの覚えておくように。じゃあ、また学校で。」


「なんで、先生の名前を未だ覚えてないってわかったんですか?」俺は少しドキッとして、反射的に質問した。


「君が私の名前を知らないのは当たり前だ。なぜなら、今日私はクラスの誰にも自分の名前を言っていないから。じゃあ、また明日。これからよろしく、明日は念のため病院で見てもらうように、もし何かあったらツバサに請求しておくから。」

「あと、これは人生の先輩である私からのアドバイスだが、二宮は高校生活にもっと色をつけた方が良い。高校生というのは自分に可能性を見出せる最後の期間だと私は思う。汚くてもいい、つまらなくてもいい、なんでもいいから高校生活を謳歌しろ。じゃあな、これから一年間よろしく。」


 先生は、氷川先生はそう言い残すと去っていった。まだ冬の寒さを引きずっている四月の薄ら寒い空の下で静かな住宅街に、車が去っていく音のみが響いた。


  家に入ると母親が駆け寄って来て自分の容体を少し心配してきたが、大丈夫そうだと分かる夕食を机の上に並べ始めた。机の上に並んでいるそれらを上の空で食べる。そして同じような上の空で風呂に入り、自室に戻ってベッドに入り、今日という1日を振り返った。占いのせいなのか、知らない転校生には殴られた。

結局あいつはなんだったんだろう。今日俺はたくさんの疑問を抱えることになってしまった。


そして無事に目が覚めて担任の先生に家まで送ってもらったのは良かったけど、いきなり生き様を軽くディスられた。あの先生は今まで会ってきた先生とは性質が異なっている気がする。これから一年間、あの人と過ごさなくてはいけないのか。少し気が重くなる。


 今までの人生における静かで色のない地味な日常の積み重ねは、嵐の前の静けさだったかのように慌ただしい1日だった気がする。これから自分はどうなるんだろう。面倒な高校生活が始まる予感がする。


 俺は考えるのが面倒になって、毛布を顔まで上げ覆い隠して目を瞑った。











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未来の花嫁を名乗る暴力美少女は、うだつのあがらない俺の顔を殴った。 東雲綺狂 @sakotaya

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