3.記憶屋

 赤を基調とした店内に客の姿はなかった。4人掛けの赤いソファが1つと、5人掛けの赤いカウンターという小さな店だ。そう言えば、『宇和海』も赤を基調にした小さな店だった。カウンターの向こうから、ちょび髭を生やした中年のマスターが声をかけた。


 「いらっしゃいませ」


 竜也はマスターの前のカウンターに座ると、ハイボールを頼んだ。『宇和海』ではよくハイボールを飲んだものだった。ハイボールを作りながら、マスターが竜也の顔をのぞきこんだ。


 「栗瀬さん? たしか、栗瀬竜也さんでしたっけ?」


 「えっ」


 竜也は不意を突かれた。すぐに言葉が出なかった。


 「えっ、マスター。俺のことを知ってるの?」


 マスターがハイボールを竜也の前に置くと、あいまいに笑った。


 「ええ、うちは記憶屋なんで・・・」


 「記憶屋?」


 竜也はマスターが冗談を言っていると思った。粋な言葉で返そうと思ったが、返す言葉が見つからなかった。マスターが灰皿を出した。


 「俺、たばこは吸わないんだよ」


 「昔は吸っておられましたよね」


 「えっ」


 竜也は30代に入ってすぐに結婚した。女房は金持ちの家の一人娘だった。煙草を嫌っていた。結婚する時に女房のたっての願いで竜也は禁煙したのだ。他にも禁煙の理由があったが、もう忘れてしまった。そのまま、1本も吸わずに現在に至っている。そうだ。マスターの言う通りだ。独身時代はセブンスターを2箱というのが日課だった。


 「ひさしぶりに如何ですか?」


 マスターがセブンスターを取り出した。一本を飛び出させて、箱を竜也に向けた。


 竜也はその1本を抜き取った。マスターが古いガスライターで火をつける。そうだ。『宇和海』でもこんなガスライターでママが火をつけてくれた。


 30年ぶりの煙を吸い込んだ。頭がくらくらとしびれる感覚がよみがえった。ハイボールを口に含んだ。舌の上で気泡がはじけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る