5話「過ぎ去りし時と曝け出された心」

 目の前にいる両親と赤ん坊の俺の姿――アウラの言葉から察するに、彼らは俺の記憶から生み出された幻影であるらしいが、どうしてこんなものを俺に見せるのだろうか。

 アウラは審判のためと言っていたが、それでも要領を得ないのが事実だった。困惑と幾ばくの怒りを込めて、俺は彼女を睨みつけた。


「……主が急に取り乱すものじゃから、ほんの少し強引な手を使わせてもらったまでじゃ。あの資料があっても主があんな調子では、審判に足る情報が得られないからの」


 呆れたように返すアウラから俺は視線を切った。大した新情報は手に入らなかったのだからそんな態度にもなる。

 何が「ほんの少し」だ。俺は転生なんて望んでいないと言っているのに。


 しかし、いくら悪態をついたとて、やはり俺には為す術がない。アウラが俺の過去を審判するまで、彼女に倣ってこの幻影を眺めるしかなかった。



『うーん……あっ、そうだ! なあ、綾乃。こんなのはどうだい?』


『ん、何かしら?』


『柊夜。植物のヒイラギに、昼夜の夜と書いて柊夜だ』


『へぇ……素敵な響きだけれど、字の意味を聞いてもいい?』


『それは、ほら。この子が生まれた時期だよ。冬の到来を感じさせる寒い、寒い夜の事だったよね。出産予定日を過ぎた晩、急に君が陣痛に苦しみ始めてとても焦ったのを覚えているよ』


『あなたったら立ち合いの時になってもそうだったから、何だか可愛くって力を入れるのにも苦労したわ。まあ、それでも最後まで付き添ってくれてとても安心できたのだけれど』


 幻影の母さんはそう言って赤ん坊の俺を抱いていた腕を直した。急な展開での出産だったろうに、当時を語るその顔は柔らかい微笑みを湛えていた。


『夜は分かったけど……柊にはどんな意味があるの?』


『……ああ……ヒイラギは丁度今頃、花を咲かせる植物でね。その穢れを知らないような白さがとても好きなんだ。それに花言葉がとても素敵なのさ』


『それってどういう意味?』


『用心深い、先見の明、それに保護というのもあるね。この子には人の気持ちを汲むことができる聡い子になってほしいんだ。誰かを守れることができる、優しい子にね』


『……とってもいい名前ね。うん、とってもいい。きっとあなたの願うような素敵な子に育つわ。世界で一番優しいあなたの子だもの』


『世界で一番思慮深い君の子だからな。なあ、お前はそんな僕たちの子だ……柊夜』


 母さんに代わって俺を抱き上げる父さん。その腕に抱かれる赤子はとても嬉しそうに見えた。



「……随分と愛されていたようじゃな、シュウヤ? にしても、良い名前じゃのう……花言葉とは、この世界の人間は面妖なことを考えると驚いたがの」


 目の前に映る幻影に心を奪われていた俺は、横から発せられたその声によって意識を戻された。

 急に現実に引き戻されたような感覚に、思わず眉間に皺が寄る。


「はいはい、お褒めに預かり光栄だな」


「何じゃ! そのいい加減な相槌は! 少しはわしの気持ちも汲んだらどうじゃ?」


 父さんの言葉を用いた当てつけに腹が立ったが、今更怒る気にもならない。 俺はただ、微笑ましいやり取りを繰り広げる家族の影をその目に焼き付ける。


「……柊夜って名前、父さんがつけてくれたんだな」


「今まで知らなかったのか? これもシュウヤの記憶から生み出されたものだというのに」


「阿呆か。見てみろ、この頃の俺はまだ赤ん坊だ。確かに俺が経験した事なんだろうが、憶えているわけもないだろ」


「それは確かにその通りじゃが……後になって話を聞く時間もあるじゃろう?」


「……それは」



 俺が言葉を紡ごうとした瞬間、突如目の前の幻影が霧のように消失した。何事かと思い、つられてそちらの方へ目を向ける。

 次いで、先ほどまで母さんたちがいた空間に、まるで映像が切り替わるときのようなノイズが走る。

 反射的に閉じた目を開ければ、今度はそこに二つの影が鎮座しているのが見て取れた。



『ねーねー、お母さん。きょう、お父さんおそいね』


『…………』


『お仕事なのかな? きょうはお父さんのおたんじょうびだから、みんなでお祝いしようって……』


『…………そうね』


『ようちえんでね、お父さんの似顔絵かいたんだよ! だからね――』


『ごめんなさい、柊夜』


 それまで顔を伏せていた顔を上げ、幼き頃の俺と顔を合わせるように膝をつく母さん。


『……え? どうしたのお母さん? な、なんで泣いているの……?』


『お父さんね、今夜は帰ってこれそうにないの……お仕事でね、とっても遠いところに行かなくちゃなんだって』


『え……や、やだよ! だってお父さん言ってたもん! しゅっちょうから帰ってきたらいっしょだって! きょう帰ってくるからいい子で待っててって!』


『……っ、ごめんね……でも急に決まっちゃったことなの。それに凄く時間がかかることで、しばらく会えなくなるって』


『やだ! やだやだ! 会いたい! 会いにいくの! ねえ、お母さん……お父さんまたしゅっちょうなの? だ、だったら会いにいこうよ! ぼく、ひこうき苦手だけどがまんするから……!』


『それはダメよ! 絶対ダメ……! っ、ごめんなさい……急に。でも、会いには行けないの……とても、とっても遠いから……小さい柊夜はきっとくたびれちゃうわ。だからいっぱい大きくなってから、ね?』


 そういって母さんは子供の俺を抱きしめた。固く、固く。絶対に放してやるものかと、誓いを立てるように、固く。



「……むう、主の父は仕事が忙しいようじゃったな。せっかくの自身の誕生日だというのに、悲しいのう」


「ああ、そうだな」


 今度はすぐにアウラの声に応じることができた。


「主があまり父と話せなかったのも仕方のないことじゃが……でも最後には帰ってきたのじゃろ?」


「…………父さんが帰ってくることは、二度となかった」


「は……? な、何故じゃ!?」


 あれからしばらくして、俺と母さんは親族一同と共にある式場に集まることになった。涙する人々、独特の調子で何かを読み上げる坊主、木が焼ける芳しい香り。それが父さんの葬儀だと理解するのには、そこからまた時間を要することになった。


 後に聞いた話によると、父さんが搭乗していた飛行機がハイジャックされ、そこで人質に取られた結果殺害されたとのことだった。


 国際的なテロ組織による犯行だとか、大勢が人質に取られた大事件だとか、そういうドラマとかであるような劇的なものでは断じてない。

 犯行は一人の若者による手で行われ、近くにいた乗客である父さんを人質に機長に対して自身の希望するルートを通るように要求したという。


 事件後の調べでは当時の犯人は精神疾患を患っており、犯行に及んだ動機も曖昧であったそうだ。

 死者は人質にされた父さんのみで、犯人には無期懲役が言い渡された。


「……それは、何というか……」


「不運だろ? 別に父さんに非があったわけでも、犯人に確固たる動機があったわけでもない。ただ偶然起こった事故に過ぎないんだよ」


 こちらを慮って口を噤むアウラに、俺は吐き捨てるように言い放った。


 そう、偶然。事件が起った裏に社会的な背景などなく、父さんが人質に選ばれた理由もたまたま犯人の近くにいただけ。


 それ以外に原因を求めることはできなかった。


 俺とアウラの間に再び沈黙が流れる。するとそれを待っていたかのように二つの幻影が霧消し、今度は俺たちの近くにあったダイニングテーブルでノイズが走った。


 目を向ければ、そこには例によって幻影が浮き出ていた。



『柊夜、お昼ご飯はしっかり食べたかしら』


『ああ、メモの通りに冷蔵庫にあったオムライスをチンして食ったよ。ていうかさ、母さん今日は休みじゃなかったっけ? またパート増やしたのか』


『ふふ、まあね。それより柊夜、今はテスト期間なんでしょ? どうなのよ出来栄えは』


 ダイニングに座る俺と、キッチンの方にいる母さん。話の内容から、今からおよそ五年ほど前か。

 この頃になると流石に記憶にも残っており、自分の脳内にある過去をこうして今見ている事実に違和感が込み上げてくる。


『それはもう、ほぼ満点だろうな。大して裕福でもないのに塾に通わせてくれる誰かさんのおかげでね』


『……そう』


『……あのさ。もう俺も義務教育を終えるしさ……進学するよりもどこかに就職した方がいいんじゃないかなって』


『まあ、どうして?』


『どうしてって……! 母さんどれだけパート掛け持ちしてるか分かってるのか!? そんなしてまで、塾に行って、高校に進学するなんて……父さんがいなくてお金も厳しいってのに――』


『だから、柊夜も働くって?』


 中学時代の俺が捲し立ててる間に、ダイニングの方に来ていた母さんは、優しい声でその言葉を制した。


『ああ、そうだよ。その方がいいだろ』


『……お金の話でいえば、そうかもしれないわね。でも、いいの。気持ちだけで十分よ』


『なんでだよ……! 俺はもうこれ以上母さんに――』


『お父さんがね』


 テーブルを叩き身を乗り出した俺だったが、母さんが口にしたその名にぴしゃりと動きが止まる。


『お父さんが言ってたのよ。柊夜には人の気持ちを理解できる、誰かを守ることのできる、そんな聡く優しい子になってほしいって』


『……そう、だったのか。でも、俺は今母さんのことを思って……!』


『違うのよ、柊夜。私のことを思ってくれるのは嬉しいけど、それだけじゃないの。もっとたくさんの人をあなたのその優しさで包んであげてほしいのよ。そのために今より多くの人と行動し、多くのことを学ぶ必要があるでしょう?』


『あ……』


『それに、そんなあなたにとって必要な機会を、お父さんがいないという理由で失ってしまったとしたら……お父さんもきっと悲しむわ。それを理由にあなたの成長の機会を奪うわけにはいかないの。あなたは、私たちの子だから……』


 五年前と同じ母さんのその言葉は、五年後の俺にも同じだけ心に響いた。



「……シュウヤ、大丈夫か?」


「え……」


 温かなアウラの言葉と彼女が俺の背を擦る動きで、俺は自分の瞳から何かが伝っているのを自覚した。


「ああ、問題ない」


 もはや手遅れだとは思うが、俺は顔をアウラから逸らして両眼を拭った。アウラの前では気丈に振る舞ったものの、俺の感情は懐かしさやら申し訳なさで酷く波立っていた。


 だがこの追憶の旅は俺を待つつもりなどないらしく、たちまち幻影は姿を消して、辺りにノイズが走る。


「って、ちょ……なんだ、これ……!」


 いつも通りのパターンだと見做していたが、今回のノイズは以前までの様子とはどこか異なる様子だった。

 それまでは幻影の跡地にノイズが生じていたのだが、今回はその範囲が比べ物にならないほど広い。

 最初は一点のみだったそれがやがて部屋中にまで広がり、ついには俺の視界すら覆い尽くしてしまった。


「……っ」



 奪われた視界を取り戻すのにそう時間はかからず、数秒の後に俺は目を開く。

 するとどういうわけか、俺たちがいた家は跡形もなくなっており、代わりに周りにはある光景が広がっていた。


 肌を刺すような日差しに、所狭しと林立する建物群、そして視界を占めるは閑散とした十字路。


 とても見覚えのある十字路だった。


「ここは……!」


「む、そういうことか……」


 俺たちが立っている側の反対側に立っている二つの影。十代後半と思しき男と、その傍らに立つ少女。道路に備え付けられた信号機は赤く灯っており、二人は信号待ちをしているのだと見える。


「同じだ、夢でも見たのと……」


 天使の環を目の当たりにして情けなくも気絶した俺が見ていたあの夢。今俺の目の前に広がる光景は、嫌になるほどそれと酷似していた。


 信号が青に変わり、男はこちらに歩き出す。少女の方といえば、何か口を動かしながら中空を見つめており、道路を横断する素振りを一向に見せない。

 男が道路を渡りきる。十字路のもう一方へ渡る信号機に捕まり、苛立たし気に地面を蹴っている。


 男が来たほうの信号の青い光が、点滅を開始する。その折になって少女はようやく時間が迫っていることに気づいたらしく、急いで横断を開始した。


 少女は道半ばで転倒する。歩行用信号機が赤に変わる。既に渡り切っていた男は、幸か不幸かその決定的な瞬間を捉えてしまっていた。


 男は悲鳴上げて少女の方へ走り出す。間の悪い冴えないトラックが少女が倒れ伏している方の道へと突っ込んでくる。


 男はトラックが通過する寸前に少女を路上から突き飛ばし、それから――



「やめてくれ!!」


 目の前で繰り返される悲劇に堪らず声をあげたその刹那、まるで乾ききっていない絵具に水を垂らしたかのように視界が滲んだ。

 視界が元に戻った時、あの悪夢のような光景は跡形もなく消え去っており、いつの間にか見慣れた書斎へと帰ってきていた。


 古めかしい木目調の床。書類塗れの汚らしい長机。


 目に映る全てが見慣れたものであり、戻ってきたという安心感が去来する


「……安心せい、戻ってきたぞ」


 記憶の世界に入る前と同じく椅子に座っていた俺の顔を覗き込んで、アウラは俺の気を静めるように穏やかに笑いかけた。

 その柔和な笑顔に絆されかけたが、すぐに状況を理解し近づくアウラを両手で払いのける。


「おい、乱暴するでない!」


「うるさいな……あんたが勝手にしたことだろうが」


「……それもそうじゃな。気を悪くさせたらすまぬ」


 思いのほかしおらしいアウラの様子に調子を狂わされ、俺は苛立たしげに舌打ちした。俺の内面に平気で入り込んできたくせに、その態度はずるいだろう。


 すっかり毒気を抜かれた俺はこれ以上気を張るのも馬鹿馬鹿しくなり、膝に腕を置いて項垂れた。


「……もういい、仕方のないことだ。それよりも、これで分かっただろ? 俺の望みが」


「そうじゃな。主が思い出したという己が過去、それをこの目でしかと見届けたことで、ようやく全てに合点がいった」


「そうか、なら改めて言わせてもらうが……俺は異世界転生なんて望まない。俺が、俺が望んでいるのは――」


「じゃが、それは」


 こちらを遮ろうとするアウラを目で圧して、放つ。



「俺が望むのは、ただ一つ。あの世界への帰還だ。あの続きを生きたい、ただ、それだけなんだ……!」



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