2話「追憶と光来」
「あっつ……はぁ、まるで夏だな」
額に滲んだ汗を拭いながら、煩わし気に呟いた。
茹だるような熱気に、肌を焼く紫外線。ようやく冬が明け、温かく過ごしやすい気候になってきたと感じていたのだが。
今年の春はどうやら記録上稀に見るような暑さであり、桜の開花時期も早まったとかニュースで報道していたのが印象的だった。
どちらかというと涼しいほうが好きな俺にとってはかなり都合が悪く、早くも家に帰りたい欲求に駆られる。
「せっかく第一志望に受かったっていうのに、ついてないな」
手で仰いで火照った顔を冷ましながら、俺はそれまで止めていた歩みを再開させた。
三年間に及ぶ高校生活を終えた俺は、この春から大学生として新しい生活を送ろうとしていた。
自分でいうのもなんだが、結構偏差値の高い大学だ。合格が決まった時、母さんが年甲斐もなく涙を流していたのを覚えている。
そんな母親の態度を大袈裟だと上辺では思っていたが、俺も心の底では居ても立ってもいられないほど舞い上がっているようだ。でなければ、入学まで日があるにもかかわらず、こうして朝っぱらからいそいそと新生活の準備をするはずもないだろう。
まあ、今となってはそんな自分の浅慮を恥じたい気持ちでいっぱいなのだが。汗が噴き出すたびに、それに呼応するように沸々と後悔が湧いてくる。
「とりあえず、必要なものは……あー、なんだろう……手帳とか?」
頭を捻って未来の新生活を想像する。が、絞りだすように自分の口から出てきたのは、世間の一般大学生が考えるものには程遠いもののように感じられて、思わず自分で自分に失笑してしまう。
なんだ、手帳って。今どきは携帯端末でスケジュールくらい管理できるし、授業だってパソコンやタブレットとかでこなすのだろう。
それにこれから大学生になる、という人間が一番に勉強のことを考えるのも何か違う気がする。
大学生になったらサークルがどうとか、恋愛をしようとか、そういうことを高校のクラスメイトが話していたような気がする。
普通なら確かにそうなのだろう。しかし俺にとっては縁のない話だ。すぐに思考を切り替え、もう一度これからのことを考える。
「ま、とりあえず百貨店とかに行ってみるか。そうすれば何か思いつくだろ」
早々と方針を定めたところで、前方が少し騒がしいことに気づいた。目の前には十字路があり、すぐに音の正体がそこを通行する自動車によるものだと知れた。
確かこの辺りでは比較的大きなものだったと記憶している。朝にもかかわらず交通量が多いようだった。
「あ、確かここを曲がった先にそこそこ大きい店があったような……」
目の前で行き交う車を眺めていると、段々と記憶が蘇ってきた。長い間出かけることがなかったため忘れていたが、ここの道を右に曲がったところには確かに大きな店があったような気がする。
その店はこの大通りを挟んだ向かい側に位置している、まずはそちら側に渡るべく赤く灯った信号機の前に立った。
が、ここにきて先ほどまであった交通がぴたりと止んだ。左右を見ても車が来る様子もない。
これは僥倖だ、今のうちに渡ってしまえば時間が節約できる。俺は駆け足で一息に行ってしまおうと足を力強く踏み込んだのだが、瞬間後ろから人が来る気配を感じ、慌ててそれを中断した。
別にそのまま渡ってもよかったのだが、人の目があるとどこかきまりが悪かったのだ。
「っと、あっぶね……」
無理に力をかけたためにその場で少しよろめいてしまったが、すぐに体勢を立て直す。
大事に至らなかったことにほっと胸を撫で下ろすと、俺は後ろから来た人物の姿を窺った。
こちらに歩いてきたのは一人の少女だった。服装や背格好から察すると小学生くらいか。
その少女は俺の行動には気づいていなかったのか、俺を気にも留めずに横に並んで行儀よく信号が変わるのを待っていた。
そんな健気な姿を目の当たりにして、罪悪感から胸が痛んだ。もし今の行動がバレていたとしたら嫌だなと、随分と自分勝手なことを思っていた自分が酷く恥ずかしい。
自分より一回りも小さい子が交通ルールを守っているのだからと、俺も彼女を見習って大人しく待つことにした。
その間に気まぐれに少女の様子に目を向けてみた。
やはり少女は随分と幼く、大人の付き添いもないまま外に出ているのが若干心配になるほどだった。空っぽの手提げかばんを手にしており、微かに「だいこん、たまねぎ、にんじん……」などと野菜の名前を呟いていることから、どうやらお使いを頼まれたようだった。
そうしてその少女を眺めていたのだが、これ以上じろじろと見ていてはあまり傍目にはよく映らないのではないかと気づいた。
それどころか不審者扱いされようものなら堪ったものじゃない。俺はすぐに少女から視線を逸らした。
ふう、危ないところだった。あと少し判断が遅れていれば、この区域の小中学校の間で俺の存在が不審者として広まってしまうところだっただろう。そして帰りのホームルームとかで俺の身体的特徴が書かれたプリントが出回ってしまうところだった。きっとそうに違いない。
と、そんな馬鹿げた想像をしているとすぐに信号機の灯りが切り替わり、俺は足早に横断した。
しかし渡り切ったのも束の間、俺は再び信号に足を止められる。対角に進むためには二度信号機を通らなくてはならないためだ。
「はぁ……これだからこのタイプの交差点は嫌なんだ」
苛立たしげに俺は足で舗装された地面を小突いた。ただでさえ暑いのに、こんなに長時間拘束されるのは敵わない。
例によって車の通行はない。今度こそ渡ってやろうかと思ったが、流石に止めておいた。暫く気を紛らわせるために視線を彷徨わせていると、直角に交わっている方の道路の信号が黄色に切り替わる。
「あれ、そういえばあの女の子は……」
信号が切り替わるというのに何故か少女が渡ってくる様子がなかった。気になって来た道の方を見やると――
少女は往来の真ん中で倒れ伏していた。どうやらつまずいて転んだようだ。
それだけならまだよかったのだが、運が悪いことに向かい側の道路から大型トラックが少女のいる道路の方へ曲がってきていたのである。
そのトラックは止まる様子が見られなかった。高い車体のせいで倒れている少女が見えないのだろうか。
「……っ」
このままでは少女が危ない。それを認識した途端、俺の身体は無意識に少女の方へ――
「――危ない!」
少女の方へと必死に伸ばした腕は、どういうわけか虚しく空を切った。それが何故なのか認識する間もなく、勢い余った俺の身体はその場から転げ落ちた。
「あだっ! っつ……」
床に勢いよく叩きつけられ、打ち付けられた痛みが全身に駆け巡る。情けない呻き声をあげながら反射的に閉じていた目を開けると、木目調の床があった。
そこには倒れ伏した少女も迫りくるトラックもなく、ようやく俺はあの出来事が夢だっと悟る。
「随分と嫌な夢だったけどな……」
未だ全身に残る痛みに顔を顰めながら、俺は覚束ない足に懸命に力を込めて立ち上がった。
それからとにかく情報を得ようと視線を横に移動させると、俺のすぐ真横に随分と柔らかそうなソファがあることに気づいた。
状況から察するに俺は直前までここで寝ていたようだった。
もちろん俺はこんなとこで眠りについた記憶はない。首を傾げながら周りを探れば、俺が今いるのは誰かの書斎だと思われるこじんまりとした部屋だということが分かった。
俺が寝ていたであろうソファのほかに、無駄に背の高い本棚や書類が乱雑に置かれた机などが見て取れる。
当然どれも見覚えのないものだった。しかし、この部屋を観察しているうちに一つ思い出したことがある。
「確か、俺は気を失って……」
あの大広間でのことだ。大勢の人間が何列にも並んでいる光景に圧倒されている所に、ある一人の女性が現れた。
最初はただの人間だと思っていたのだが、その女性は人間にはあり得ない羽と頭上の輪といった特徴――所謂天使と呼ばれる存在を想起させる特徴を持っていたのだ。
ただでさえこの世界では、俺の常識では到底測り知れないような不可解な現象が相次いでいた。
それに加えて仮天使の出現。突飛なイベントの連続に俺の脳は完全にショートしてしまったようだ。
そうして気を失った俺は、今ここで目を覚ました。そう考えれば一応筋は通っている。
まあ、それで気を失うとは何とも情けない話だが。
「情けないが……これで状況が少し飲み込めてきた。内装を見る限り同じ建物内のようだが、でもそれなら一体誰が――」
気を失った場所と目覚めた場所が異なる。ということは、誰かが俺をここまで運んだということを意味する。
そう、誰かがだ。問題はそれが何者かだが、その答えを考えることはとうとうなかった。
何故なら部屋の入り口にある戸が開き、この部屋の持ち主と思しき人物が入ってきたからだ。
入室してきたのは空色の髪の女性、いや背格好を考慮するなら少女と形容するのが相応しいくらい、小柄な女性だった。そして先ほどの仮天使と同じように白衣に身を包み、同じような羽がその背に付いていた。
俺はその羽を見るやまた声をあげそうになった。が、それよりも前に俺の姿を見た少女の方が、そのどんぐりのような眼を一層丸くして俺の方に駆け寄ってきた。
「おお! なんじゃ、もう目が覚めておったのか!」
少女はその身に似つかわしくない古風な口調で尋ねたかと思うと、こちらの返答も聞かずに俺の周りをぐるぐると歩き始めた。それからじろじろと俺の身体を物色し始めた。
「な、なんだよ……」
そのあまりの無邪気さに、また羽付きの女性に遭遇したという事実も、好奇の視線を向けられることへの文句も忘れ、俺はきまりが悪く固まってしまう。
かける言葉も見つからず、ただただ周囲を動き回る少女を目で追っていると、その頭上に何か光るものがあることに気づいた。
それはあの時の女性の頭上にあった輪によく似ており――
「やっぱり天使なのか……?」
先ほどの女性に酷似した特徴に、無意識に声が漏れる。その俺の呟きでようやく少女は自分のしていることに気づいたのか、はっとした表情をつくると勢いよく距離を取った。
「おっと、すまん……つい無遠慮な真似をしてしまったな」
それから気恥ずかしそうに頬を掻き、人好きのしそうな笑顔で自らの行いを謝罪する。その可愛らしい顔を前に、俺は不覚にも顔を赤くしてしまう。
おかしいな、俺はロリコンなんかじゃないんだが。
そんな俺の様子を知ってか知らずか、少女は指を立てて続ける。
「じゃが、一つ訂正させてもらうが……わしは天使ではないぞ」
「は……? じゃあ、人間だとでもいうのか」
頬を膨らませながら告げた少女の言葉に、俺は聞き返さずにはいられなかった。
天使ではないとしたらその羽はどう説明するというのか。広間であった行列や、同じく羽が付いていた女性は何者なのか。ここはどこなのか、そもそも死んだはずの俺がどうして存在しているのか。
少女と会話が通じると分かるや否や、俺の中に燻ぶっていた疑問が噴き出した。
そうだ。ここまで状況に流されてしまっていたが、俺は自分が置かれている現状について何も知らなければ、何も聞かされていない。
こんな理不尽なことがあるだろうか。いや、到底認められるものではないだろう。俺には自分について知る権利がある。
俺のそうした感情は余程表に出ていたらしく、目の前にいる少女が呆れたように両手をあげる。
「分かっておるわ、話は最後まで聞かんか馬鹿者。そうじゃな、わしは天使ではないが、かといって人間というわけでもない――」
少女は勿体ぶるように一つ咳ばらいをして告げる。
「わしはこの天界に住まう神々のうちの一柱、名をアウラという。そして主の異世界転生を補佐する
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