第5話

 夜、桜は学校であったことをぼくに話した。

 家庭科でサバの味噌煮を作った話だった。

 すこし形がくずれてしまったけど、おいしかったらしい。


「えへへ……今度、作ってあげるね」


 バンと勢いよく玄関扉が閉められる音が、ぼくたちの部屋にまでひびいた。

 桜の体が、音に合わせてビクンと跳ねた。カタカタとふるえ、泣きそうになった。

 父さんが桜を呼んでいる。声のかんじからして、酔っぱらっているらしい。


「ごめんね、にーにー。ちょっといってくる」


 桜が部屋からでていくと、ぼくはお風呂に入ることにした。


 お風呂からあがり、ぼくは算数のプリントとりかかった。

 途中から数字が兵士になった。

 ぼくは先のちびたエンピツをつかって、数字の兵士たちに銃をもたせた。

 銃から発射した弾は、兵士をつらぬいた。

 赤色のクレパスをつかって、兵士たちの血を描いた。


 算数のプリントが真っ赤になってしまったので、ぼくは布団に入ることにした。といっても眠ることはできないので、暗い天井をながめるだけだ。


 今日の帰り道をおもいだした。


 ミヅキはぼくに、病院にいけといった。


 しかし、父さんは病院にいくお金をくれないだろうし、そんなことをいえば、殴ってくるだろう。


 部屋のふすまが開いて、桜の嗚咽がきこえた。

 じつに一週間ぶりに、桜がぼくの寝床にきた。パジャマがとても、乱れていて、花びらが散っているようだ。


 桜は嗚咽を噛みつぶしながら、ぼくの布団にもぐりこんだ。


「桜、どうして泣いているの」


 桜はなにもいわずに、泣いていた。そして、あの腐った魚のような臭いがただよっていた。


 桜の右手を口にふくもうとした時だった。

 イヤっとちいさくうめいて、桜は手をひっこめようとした。だけど、ぼくはその手をのがさなかった。むりやりにひっぱって、ぼくはそのちいさくか細い、人差し指と中指、そして薬指も口にふくんだ。


 へんな味がした。


 それは、桜の体からただよっている、腐った魚の臭いと、にたような味だった。

 苦い。


「ダメ……ダメだよぉ」


「おいしいよ?」


 だけどそんな臭いはどうでもよかった。

 うまれつき桜の右手に備わっていた花の香りは、苦みより、強かった。


 眠くなってくる。


 やがて、ぺたんと右手を布団のうえにおとすと、桜は腕の力を抜き、されるがままになった。


 ぼくはストローでジュースを飲むように、桜の指を吸いまくった。


「あたし……早く、大人になりたい」


 ぼくは桜のパジャマの袖をめくりあげた。

 暗闇に目が慣れてきたのか、子どもの時に、ぼくが桜の肘につけた歯形が、じんわりとうかびあがった。


「にーにーは、お母さんにあいたくない?」


 きっと、この細い腕のなかには、果物の果実のように、いっぱい、いっぱい、果肉と、おいしいエキスがつまっているにちがいない。

 ぼくはお腹が空いていた。

 それはきっと、桜もだった。

 ぼくたちは、給食以外にまともにご飯をたべていないのだから。

 だけど、この歯形を食い破ることができれば、ぼくたちはきっと、お腹いっぱいになるはずだ。

 

 ぼくは黒い歯形へと歯をあて、やさしく噛んだ。


「ツゥ……」


 でも、ぼくは昔のぼくとはちがう。

 もうあの時とはちがい、十二歳だった。善悪について、ある程度判断がつく。

 だから。妹の腕を噛みちぎってはいけないことくらい、わかっている。


「あたし……あたし、また、お母さんといっしょに、にーにーと、すごしたい……」


「母さんは、もう死んだ。子供みたいなこというな」


「しってるよ」


 桜のヒッグヒッグと泣きながら、なんかいっている。


 もうだめだ。眠い。限界だ。


 ぼくは、ぼくのヨダレでびしょびしょになった、桜の指を口から放り出すと、目をつむった。


「あたしが……お母さんだったら、いいのに」





 翌朝、学校で月乃さんとすれちがった。


 ふりむいて確認したけど、それは、月乃さんではなかった。


 ならば、ぼくはなぜ、その子を月乃さんと勘違いしたのだろう。


 その答えはすぐにわかった。

 

 教室でも、月乃さんによく似た子をみた。


 だけど、その子も月乃さんではなかった。


 でも、月乃さんと同じ、マネキンの目をしていた。

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