出船の靴

秋月 八雲

第1話

 宮坂恵はあまり来ないホテルのエントランスに少し戸惑っていた。ピカピカに磨かれた大理石の床に豪華なシャンデリア、シックな絨毯の上には座り心地のよさそうな大きなソファが鎮座している。

 世話しなく視線を泳がせることはみっともないと思いながらも、恵の視線はあちらこちらに落ち着きなく移動してしまっていた。

 案内された部屋は小上がりになっており、恵はそこで靴を脱いで出船にする。靴をそろえた瞬間、不意に亡くなった祖母の事が思い出された。靴を出船にすることは祖母が躾として教えてくれた事だった。とても優しい祖母で怒る事などめったになかったが靴の躾だけは何度も釘を刺された。

 部屋で暫く待つように言われた恵は椅子に座って少し外を眺めた。都心にあるとは思えない緑が設えの良い窓の向こうに広がっていた。


「お祖母ちゃんが倒れたの。かなり悪いみたい」

 母からの電話がかかってきたのは高校の昼休みの時間だ。

 以前から祖母の心臓が悪いとは聞いていたが、倒れたのは初めての事だった。 母は今病院で検査を受けていること、体力が無いため手術は出来ず投薬での処置になると医者に言われた事を短く告げると、また連絡するからとの言葉を残して電話を切ってしまった。恵は分かった、と返すのが精一杯だった。

 お祖母ちゃんが死ぬ?灰になってしまうのだろうか。 

 午後の世界史の授業はあまり頭に入ってこなかった。恵はこれまで人の死というものに触れたことが無い。人が死んだらお葬式をするのだろうか。知識としては当然知ってはいたが、それがどういうもので自分は何をすればよいのか、皆目見当がつかなかった。


 部活を早退し家に帰るとまだ両親は帰ってきていなかった。多分まだ病院にいるのだろう。

 お祖母ちゃんの部屋はいつも通りだった。家で倒れたのならここに救急車が来たという事なのだろうか。今日の朝確かに一緒にご飯を食べたのに今は病院に入院しているというのが何だか信じられない。


 お祖母ちゃんが息を引き取ったのは次の日早朝だった。いったん深夜に帰ってきた両親は危篤の連絡を受けて病院へとんぼ返りしたが、ぎりぎりで間に合わなかったと後から聞いた。

 自宅に帰ってきたお祖母ちゃんは何だか小さくなったような感じがした。造形は確かにお祖母ちゃんなのだが白い肌は蝋のように無機質で、触ると崩れてしまうのではないかと思えるほどだ。

 初めて触れる死。まったく向こうが見えない真っ黒な影が自分のすぐ近くに来ているような感覚だ。自分もいつかその影に踏み込んでしまうことを想像すると何だか怖かった。


 人が死ぬのと、二度と会えなくなること、それはどう違うのだろう。

 お祖母ちゃんの棺に花を添えながらそう思った。これからお祖母ちゃんの身体は灰になる。

 死ぬことと会えなくなる事。自分の目の前から消えてしまうという意味では一緒なのに、なんだか違う気がした。上手く言葉にはできなかったが。


 ドアのノックの音で恵の意識は部屋に戻ってきた。

「はい」

 入ってきたのは婚約者の進一郎だった。数時間後には夫と呼ぶべき人になる。

「もう着替えちゃったの?」

 新婦の準備がこれからだというのに、新郎はすでに準備万端といった雰囲気だ。

「うん、これからあいさつの文面考えないといけないから」

「そうね。じっくり考えて」

 目の前の男は面倒臭そうに首筋をさすった。手持無沙汰になったときには首筋に手を当てることが彼の癖だった。

「ねえ」

「何?」

「こんな事、今日しか聞けないから聞くんだけど」

「うん」

「どうして、私と付き合おうと思ったの?切っ掛けは何なの?」

「む、中々難しい質問だね」

「答えられないの?」

「そんな事……無いよ」

 男は少し間を置く。

「最初に会った時の事、覚えてる?」

「うん、勿論。みんなでコテージに行ったとき?」

「そ。

 その時みんなテンション上がっちゃってコテージに走りこんでたでしょ」

「そうだったかな」

「うん、他の女の子は皆ドタドタ入っていくのに、一人だけきちんと靴をそろえてたから、なんか良いな、って思って。それが切欠かな」

「そっか」

 恵は自分の靴を見つめた。今日まで少し面倒臭いと思いながらも惰性で行ってきたことが初めて報われたような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

出船の靴 秋月 八雲 @akizuki000

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ