ガンジス川の階段

かおりさん

第1話

『ガンジス川の階段』


「はい、こちらがお釈迦さまが悟りを開かれた菩提樹の木の下です」

「おぉー」「本当にあるんだね」「大きいな」

「こちらで1時間の自由時間となります。」


 インドのブッダガヤにある大菩提寺。佛陀ブッダ、バウッダ、ブツダ、釈迦牟尼佛、釈迦如来、釈尊、お釈迦さま。


 境内には大きな菩提樹の木があり、この木の下でお釈迦さまが悟りを開かれた。インドへ団体旅行で行き初めてその菩提樹を見た。


 この場所では、写真を撮る時のポーズがある。木の下に座禅を組んで座り、手のひらは重ねて膝の上に置く。


 「次の人どうぞ」ツアーガイドが希望者の一人ひとりを写真に撮ってくれる。


 「サリーを買っといて良かったね」「様になるね」

私もサリーを着て菩提樹の元に一枚写真を写してもらった。


 大菩提寺では、たくさんのチベット僧侶がいる。朱色の法衣を着て、小豆色の法衣を肩に掛けている人もいる。その僧侶に大菩提寺の境内を案内してもらった。おそらくチベット語のお経、まるで音楽のような、日本の唱導のような音声の抑揚のあるお経を大合唱に称えていた。


 屋上なのか、外の広いバルコニーのようなところに出た。空の青さがどこまでも続き、晴天の空を見上げて「雲が一つもないね」と僧侶に言うと、僧侶も空を仰いで見ていた。空に僧侶に心が洗われる想いがして、青い空だなぁ、とただ見上げていた。


 僧侶は、大菩提寺の外も案内してくれて、境内を歩いて行くと、1メートルくらい土から高い場所に、10メートル以上真っ直ぐ歩くところがあり、正面は大搭の壁だった。


 そこは、目をつぶって合掌しながら歩くところで、私もサリー姿で目をつぶり合掌して歩いた。立ち止まり一礼して目を開けると、目の前は大搭の壁だった。


 僧侶が、私の額が壁に当たらないように、手のひらを壁に構えていてくれていた。2人で目を合わせて、私は何か懐かしさが胸に流れた。僧侶は遠く故郷を離れて、私も日本から遠いこの場所で、一生に一度の一期一会の時だった。


 そのチベット僧侶は、故郷のチベットからインドのブッダガヤまで、山を越えて歩いて来たと話してくれた。どれだけの道を歩いて来たのだろう。本当にブッダの時代の僧侶みたいだと思った。


 帰り際に、僧侶がカタという白い布を私の肩に掛けてくれ、旅の安全を祈ってくれた。お礼を言って、車に乗り走り出して後ろを振り返ると、僧侶が合掌した両手を頭上に高く上げ、額に、胸にと祈っていた。肩に掛けている白いカタが、風に高く舞い上がっていた。私は胸がいっぱいになり泣いた。

 

 僧侶達がこの地で幸せでありますように。

泣きながら合掌して車の中で祈っていた。


 次の巡礼地、ガンジス川。


インドのガンジス川はそれぞれの宗教の聖地で、人々は川に入り沐浴をする。


ガンジス川へ行くにあたり、私達日本人には口伝がある。


 ガンジス川で沐浴をしてはならない。


 聖なる川のガンジス川、人々は川辺で火葬した遺骨を流し、時には遺体のまま流し、生理的現象を流し、人々の「生」と共に、その聖なる川に生きている。


 沐浴をして溺れたり、病気に感染しないように、絶対に川で沐浴してはならない。


 私達は、ガンジス川の船着き場から、手漕ぎの木の船に乗って、川を下って行った。次の観光地への飛行機のフライト時間があったので、早朝の霧の中に川岸にひそむ鳥を、川の水面みなもを、その静けさをただ見ていた。右手の甲に、川の水が一滴かかった。その水滴を見ながら、乾燥するまでこのままでいようと思った。


 船を降りて、ガンジス川を振り返り見ると、川のみなもと対岸の霧の上に、空へと続く雲の階段が架かっていた。


 (この階段はこんなに急なの?)


 雲の階段は垂直に空へと架かっていて、でも人々はこの階段を上がっていけるんだな、と思いながら目で登っていくと雲の宮殿があった。


 その宮殿はタージ・マハルのような造りで、丸みを帯びた屋根の上に細い先端もあった。少しこぢんまりしているようにも見えた。宮殿の全体が空に浮かんでいた。


 私はしばらく立ち尽くし宮殿を眺めていた。心に一念を祈り、振り返るとインド人の船頭達が私を見ていた。その一人が私に何か祈りを捧げて、と言ったので、私は何を称えればよいのかと考え、パーリの三帰依文をガンジス川に向かって称えた。


 川岸から車に乗るまでの歩く間、船頭達が優しげなまなざしで私の目の前に、一人、ひとりと現れて無言に会話をした。アイコンタクトに心が通じていることを伝えてくれているかのように思った。


 今、ここまで書いて1800文字。1時間半前に、一度この『ガンジス川の階段』を保存せずに全部消去してしまった。


 一瞬の出来事に、あぁ~あぁ~と、頭から血が下がってくる感情になった。


 あれはいつだったか、教授は誰だったかよく思い出せない。その受けた講義で、


 『岩波仏教辞典』の原稿を書いていた、中村元先生が電車の中にその原稿を忘れて、その原稿は戻らず一から書き直した、と聞いた。先生はいつも大きな風呂敷包みを抱えていたそうだ。


 今、私の横にある『岩波仏教辞典』この辞典を引くと、先人の尊さに学べるありがたき想いと、ラサからブッダガヤへの山越えに懸命に歩いたチベット僧侶達の遠く遥かな尊き魂の生き方を想う。


 今日、4月8日はお釈迦さまの誕生日、灌仏会かんぶつえ、降誕会ごうたんえ、仏生会ぶっしょうえ、浴仏会よくぶつえ、竜華会りゅうげえ、花会式はなえしき、花祭はなまつり。


 遠くインドへ想いを馳せて、次は何の言葉を辞書に引こうか。ガンジス川の雲の階段、雲の宮殿。


 もう夜が明ける頃。

 お腹が減ってきた。

 カレーを食べよう。

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ガンジス川の階段 かおりさん @kaorisan

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