その名を呼んで

大塚

第1話

 タワマン住まいの成金とその愛人のあいだに生まれて、顔が良かったものだから最初はオヤジのおもちゃ、しばらく経ったらオフクロも俺で遊ぶようになり、年齢が二桁になった頃ふたりを殺した。少年院でもこの腐った小部屋よりは幾らか暮らしやすかろう。そんなふうに思って警察に連絡を入れようとしていたら、不意に寝室の扉が開いた。

「臭い」

 ジャージ姿の男が、オヤジのケイタイを手に座り込む俺を見下ろしていた。

「なんだ? ****は死んだのか?」

「……はい、いま」

 ジャージ姿の男のことは知っていた。何回か見たことがある、程度だが、****と呼ばれた俺のオヤジはこの男の訪問をいつも恐れていて、「今月はこれで勘弁してください」「来月は必ず」なんて脂汗を流しながらペコペコと頭を下げている姿を記憶している。もっとも、そのペコペコが終わるや否や俺は縛られ殴られ体が真っ二つに裂けるんじゃないかって勢いでケツにぶち込まれて、毎回半死半生の目に遭わされていたのだけど。

「おまえが殺したの?」

「……そうだと思います」

「筋がいいね」

 オフクロを始末するのは簡単だった。純粋に俺よりも力が弱かったので。でもオヤジには少しだけ手間がかかった。俺はまだほんの子どもだし、ろくに飯も食ってないから力もないし、正面から挑んだら返り討ちにされるのは目に見えてる。だからオヤジが金庫に厳重にしまっていたクスリを使って、ちょっと力を弱めて、それで。

「じゃこの部屋は掃除して売りに出すかな」

 俺の手からケイタイを取り上げながら男が言った。気付くと俺の体は高熱を出した時みたいに震えていた。そんな時にもオヤジとオフクロが俺の身を案ずることはなく、いつも通りに弄ばれていたのだけど。

「おまえは……どうするかな」

 男はしゃがみ込み、明るい茶色の目で俺の顔を覗き込む。

「また子どもかぁ。まあ、ひとりもふたりも変わらんか」

 そう呟く彼は俺から取り上げたケイタイでどこかに連絡をし、「15分ぐらいで出るから血だけ流しておいで」と言った。俺はこの家で服を着ていたことがほとんどなくて今も全裸だったのだけど、男はそういうことをあまり気にしていないようでなんだかほっとした。

 風呂場で顔や体にべっとりと付いた血液を洗い流す。男が言った「臭い」がようやくピンとくる。生臭くて甘ったるくて嫌な匂いだ。でもあの寝室に充満しているザーメンと唾液とローションの匂いよりはだいぶマシだと思う。

 もう誰も使わないオヤジ専用のふかふかの白いタオルで体を拭きながら寝室に戻ると、男はキングサイズのベッドに腰を下ろして煙草を吸っていた。

「はい」

 と、差し出されたのは透明の袋に入った黒いシャツだった。袋の中にはほかにも下着やデニムが入っている。

「それ着たら、行こうか」

 半分ほどしか吸っていない紙巻きを床に倒れているオヤジの顔に放り投げて踏み付け(そういえば男は寝室に入ってきた時からずっとスニーカーを履いていた)、男が俺に向かって手を差し出した。

「俺は田鍋たなべ。おまえ名前は?」

「ないです」

 このやり取りは初めてじゃない。オヤジのお客の相手をする時、そういう時に必ず名前を訊かれ、その度に俺はこう答えた。名前がないと言うとオヤジのお客はみんな大喜びしたのだ。本当は、名前はたぶん、あると思う。あると思いたい。分かんない。

「そうか。それはそれでまあそういうこともあらあな」

 着替えを終えた俺に紙袋から取り出したサンダルを手渡し、男は立ち上がった。どちらかというと小柄な人だとその時初めて気付いた。

「行くか」

 俺の返事を待たずに寝室を出る男の背中を慌てて追いかけた。玄関を出ると、入れ違いみたいにスーツ姿の男の人が何人か中に入って行った。全員が分厚いビニールの手袋をしているのがなんとなく気になった。


 田鍋さんはヤクザで殺し屋だった。ヤクザで殺し屋なのに自分の子どもではない子どもをふたりも育てている。ふたり目が俺。

 タワマンを出て、ファミレスで飯を食って、いかにも高級そうな商業施設の適当に目に付いた服屋で俺の服を何着か買った。俺は外で食事をするのも服を買ってもらうのも初めてで、初めてだと申告することがなぜか恥ずかしいことのような気がして黙っていたけれど、田鍋さんにはたぶんお見通しだったと思う。でも彼も何も言わなかった。どれが似合うかな、とジャージ姿の成人男性とビーサンを履いた子どもは絶対に歓迎されないタイプの服屋に鼻歌を歌いながら突入し、俺の意見は特に聞かずに田鍋さんが気に入った服を全部現金で買った。お会計のタイミングでようやく店員の人たちが田鍋さんに対してペコペコし始めて、ああやっぱりお金は強いんだなとぼんやり思った。

 田鍋さんが運転するクルマでタワマンからもファミレスからも商業施設からも離れた。助手席に乗せられた俺は気付いたら寝落ちしていて、起こされた時にはホテルのラウンジにいた。なぜここがホテルのラウンジだと分かったのかというと、オヤジの客の相手をするためにこういう場所で待ち合わせをしたことがあったからだ。

「いい肉食って、ゆっくり寝て、明日に挨拶行こうな」

 指先でくるくるとルームキーを回しながら田鍋さんが言い──俺の心臓は一瞬止まった。


 


 というのは田鍋さんが盃を交わした組長のことだと知るのはもう少し後のことで、その時の俺は食べたものを全部吐いて卒倒して本当に大変だった。俺というか田鍋さんとホテルの人がおもに大変だった。


 俺は田鍋さんが養育する子どものひとりになった。とはいえ別に養子縁組をしたわけでもなく、単に田鍋さんと一緒に暮らしているだけの人間という扱いで、それは俺にとってとても心地の良いものだった。俺は田鍋さんをオヤジと呼ばなくていい。田鍋さんは俺に新しい名前をくれた。学校にも行くようになった。先に田鍋さんと暮らしていたやつと俺とはひとつ違いで、そいつの方が全然社会性はあったんだけど、そいつはすごく気のいい奴で世の中のことを何も知らない俺のことを全然馬鹿にしないどころか「りょうくん、遼くん」と慕ってくる優しいやつで、俺は初めて他人のことを好きだと思った。

 田鍋さんはヤクザで殺し屋だったので、俺ともうひとりも自然とそっちの道に足を踏み入れた。俺に至ってはもうふたり殺しているので、今更なにも怖くはなかったし抵抗も感じなかった。あの時田鍋さんが口にした「筋がいい」という響き。それが俺の拠り所になっていた。

 実際のところ俺の腕はなかなかのものだった。別に格好良く拳銃をぶっ放したりナイフで切り付けたりするだけが殺し屋の仕事じゃない。どこまで自然死に見せかけて殺せるか。音を立てず、現場を荒らさず、でもまあ大抵の場合死んだ人間そのものは田鍋さんがあの日手配していたようにの方にお願いして丸ごと消してしまうのだけど、時には間に合わないこともあって、そういう時に「これは事故死ですね」って目撃者や警察の人に認めてもらえる殺し方をするのはそれなりに難しい。センスが要る。

 時には自分の見た目さえ利用した。あれから何年経ったろう。鏡を見る度に理解する、オヤジとオフクロがおもちゃの俺を絶対に手放さなかった理由。あのタワマンだって借金に借金を重ねて維持していたのだと後日田鍋さんから聞いた。オヤジには俺を好事家に売り払ってカネを作るという道だってあったんだ。でもそれを選ばなかった。俺という生き物は、この世の何ものにも代え難い。

 唯一オフクロに似ている、癖のない艶やかな黒髪が今は肩甲骨の辺りまで伸びている。前髪を払い、肩口で髪を纏め、未だ髭が生えてくる気配すらない青白い頬をつるりと撫でる。今日は田鍋さんの補佐で少し地方に足を伸ばすことになっていた。早く18歳になりたい。免許を取れば俺はもっと田鍋さんの役に立てる。ヤクザで殺し屋なんだから免許とか関係ないだろって言われたらそれまでだけど、ヤクザで殺し屋だからこそ取り繕わなきゃならないことがあるんだ。


「……大学」

「そう。進学。学費は組の方から出るから」

 競馬新聞を片手に田鍋さんが言った。俺ともうひとりと田鍋さんと、最近加わった十代の男ふたり、合計5人で暮らすには少しばかり狭いマンションのリビングで、田鍋さんはもくもくと紫煙を吐き出しながら続ける。

「おまえがいちばん賢いからね。勉強も真面目にしてるし」

「いや、あの、」

 それ、殺し屋でいるために必要なんですか。問いが喉に引っかかる。どうした、と田鍋さんが立ち尽くしたままの俺を見上げる。いつの間にか俺の身長は田鍋さんを追い抜かしていて、田鍋さんは相変わらずいつもジャージを着ていて、俺はその方が色々と便利だという理由だけで殺しの報酬で流行りのブランドの服を買ったり、爪を彩ったりするようになっていた。

「それでまあ、大学卒業したらさ、組長が」

 田鍋さんは俺の前では組長を親父と呼ばない。俺のことを分かってくれている。

「正式に盃交わして、まあ、おまえをね、そこそこの立場に置きたいって」

 それは。

「どう、いう……」

「一般的にはまあ最悪の進路かもしれないけど、この業界でやっていくなら出世コースだよ。遼。悪くないだろ?」

 悪くない。悪い。悪くない。いや、悪い。

 俺はそんな、立派なヤクザになんてなりたくない。いや田鍋さんが俺もヤクザになれって言うなら断ったりはしないけど、出世? そのために大学に行けって組長が?

 田鍋さんは組長に惚れ込んでる。それは知ってるし俺がどうこう言うような話じゃないって分かってる。だから組長にそうしろって言われたら、組長が俺に目をかけてるっていうのは、田鍋さんには、嬉しい、ことで。

 自分でも青褪めてると分かっていた。それでも俺は笑って見せた。俺は俺が美しいって知っている。どんな風に笑えば人の心を蕩かすことができるかを、知っている。

「嬉しいです。受験勉強、しっかりやります」

「おう。いい返事が聞けて良かったよ」

「田鍋さん、俺、18になったら免許取りたいんですけど」

「クルマか? それもいいな。組長にも伝えとくよ」

 俺の渾身の媚態も、田鍋さんには通用しない。田鍋さんは違うんだ。それは俺も分かってる。だから俺は田鍋さんが好きで、田鍋さんから離れたくなくて、だって田鍋さんは俺の──


 殺しの方は年下の先住者(水城みずきという)が続けることになった。水城が田鍋さんの後継になるという暗黙の了解。嫉妬がなかったといえば嘘になる。でも俺は大学に行って、経済学を勉強して、世の中のことをもっともっと知って、組長の側に立てるだけの人間になって、そうして、いずれ、田鍋さん。ねえ。田鍋さん。俺田鍋さんに認めてもらうためだけに、殺して、生きてきたっていうのに。


 俺が24、水城が23の時に田鍋さんは死んだ。組長も死んだ。組の幹部の大半が死んだ。組そのものの維持が困難になるほどの大量殺人、ここ数年で関係が悪化した組織によるものだ。

 組を残すのか、解体するか。決断はこの俺に委ねられた。馬鹿みたいだ。ほんの10年とちょっと前まで、名前も戸籍もない肉のおもちゃだった俺に。


 田鍋さん、俺、偉くなって、偉くなったら田鍋さんに部下になってほしいなって思ってたんですよね。そうしたら俺、田鍋さんのことって呼べるんじゃないかなって思って。お父さん。俺を殴ったり蹴ったり、根性焼きしたり、尻を犯したり、ホテルで客を取らせたりしないお父さん。そういうお父さんが俺、欲しかったんですよ。


 喪服姿の水城を伴って四谷の本部に向かう。俺たちが属している組は関東圏を牛耳る巨大組織のほんの末端に過ぎない。本部長を始めとする幹部たちの前に三つ指をつき、白い額に落ちる黒髪の影の下から俺はうっとりと微笑んで見せる。

岩角いわすみ遼と申します。戸川組の二代目を襲名させていただきたく、ご挨拶に参りました」

 俺の目に、声に、肌に、髪に、抵抗できる者なんていないんですよ、そうでしょう田鍋さん、お父さん、あなた以外は。

 あなたがいないこの世界になんて何の意味もないのにね。

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