春風吹く

たぴ岡

通学路

 中学二年生の一学期が始まってから、一週間が経った。思った通り、一年のときと比べてもほとんど変わったことはなくて、あるとしたら教室の場所が違うとか、クラスメイトの顔ぶれが違うとか、それくらいで。

 ――でも一番の変化はやっぱり、通学路で桜太おうたに会うようになったことだろう。

 この一週間、入学式の日に見た瞳だけ笑っていない桜太のことを思い出してしまって、話しかけられなかった。バレないようにこっそりと追い抜かすか、ぴったり後ろを歩くかしかできなかった。けど、今日は違う。今日こそはちゃんと話しかけるんだ。おれは心の中で「桜太」と呼ぶ練習をしていた。


 家を出て、横断歩道を渡って、ひとつ目の角を曲がったところで、いつも桜太を見つける。今日はばったり会うことを目標に、角の少し前で立ち止まって桜太が見えるのを待つ。

 きっと後ろを振り向いて見つけた桜太に話しかけるよりも、前を歩く桜太に駆け寄って声をかけるよりも、ちょうど出会ったところで桜太に挨拶するのがおれにとって一番簡単な方法だから。

 と、桜太を見つけた。

 小柄な身体にぶかぶかな学ランと春コート、それに大きすぎるくらいのリュック。入学式のときにはかけていなかった四角い黒縁眼鏡。左手には難しそうなタイトルの分厚い本。


 やっぱり小学生の頃と全然違っているように思えてならない。全てが変わってしまったんだと思う。

 だって桜太は――確かに勉強が好きだと言っていたし、いつも本を持ち歩いていた。でもそれよりおれと遊ぶのが楽しいと笑ってくれたし、持ち歩いていたのは小さな絵本や児童書だったし、それに、おれよりずっと視力も良かったし……。

 考え出したらキリがない。

 きっと人間は一年あればどうとだって変わる。変わろうと思って自分を変えることもあれば、環境の変化で自然と変わるなんてこともある。桜太はおれの知らない一年を歩んできたんだ。だから、おれの知らない桜太がいても仕方ない。

 勇気を振り絞って、片手をあげながら桜太に近づく。


「おーい、桜太! おはよ!」


 駆け寄ってから、あ、と思った。この一週間何も言わずに桜太のことをスルーし続けていたのに、急に話しかけるなんて不自然すぎないか? とは言えこれ以外の方法は思い浮かばなかったし、それにもうそんなことは今更だ。

 すっと上げられた桜太の顔に浮かんでいたのは、笑み、だった。心底安心したような、心からの喜びを表すような、桜が花開いたような笑顔だった。幼いあの頃から変わらない桜太の笑顔だった。


「ん、千秋先輩おはようございます」


 その瞬間、おれの心に春の風が吹いた。少し冷たくて柔らかさはあまりなかったけど、それでも、世界に置いていかれることなく、おれにも春が来たんだと思った。

 それならきっと、桜太にも、春が来ているのだろう。桜太がまだ吹雪の中に置いてけぼりにされているのなら、おれが連れて帰ってこようと思っていたけど、必要ないみたいだ。


「元気そうで何より、だな」

「それはこっちのセリフですよ」

「……なんで?」

「だって、入学式以来話しかけてくれなかったから……何か悪いことしたかな、家や学校で何かあったかな、って心配したんですよ?」


 あまりにもびっくりして立ち止まってしまった。それに合わせて、少し前で桜太も止まる。こてん、と首を倒して、整ったその顔でおれを見つめる。それが数年前の桜太と重なる。どうしたの? と、今にも舌っ足らずに聞いてきそうで。


「あー、いや、別に。そんなことない、桜太のせいじゃないよ」


 言いながら、桜太を避け続けていたことに罪悪感を覚える。おれは少し俯きながら、また歩き始めた。

「ふふ、良かった」


 変わってしまったのは話し方だけなんじゃないだろうか。中身は何ひとつ変わらない、おれのことが大好きでずっと後ろをついてきていたあの桜太そのまんまなんじゃないか。その声も言葉も、笑顔も、性格だって距離感だって、ほとんどあの頃のまま変わっちゃいないんだ。

「千秋先輩は、本当に変わらないですねぇ」

 そう思いたいのに、こっちを向いた桜太の目を見て、心が縮む。やっぱり、瞳が笑っていない――。


 気付いた瞬間、足をひねってバランスを崩す。ふわっと浮いたような気がした。頭から車道に飛び出して転びそうになる。

「危ないっ!」

 目を閉じた一瞬、何が起きたのかはわからなかった。けど、次に飛び込んできた景色は今まで歩いてきた道で、おれを包んでいるのは春の空気じゃなくて誰かの体温で……って、誰かの体温?

 桜太がおれから離れて、ふわりと桜の香りが漂う。そこで初めておれは桜太にハグされていたことに気付いた。たぶん、転びそうになって、車にひかれそうになって、だから桜太が助けてくれたんだと、思う。


「ご、ごめ――」

「危なっかしいのも変わらないんだなぁ」


 はらりと舞い落ちる桜の花びら一枚。温かな笑みを浮かべる桜太。クラッときた。何かはわからないけど、何かが桜太以外をぼんやりさせて、何かが心を直接殴ってきて。

 まだ掴まれたままの左手を自分の方に引いて、桜太を引き寄せる。リュックごと抱きしめて、桜太が本当に帰ってきたんだと実感した。


 だって、さっきの表情は――本物だったから。


「ど、どうしたんですか?」

 耳もとで聞こえた言葉が敬語だったとしても、それがどうした。大好きな幼馴染が昔と少し違っていたって、そんなことどうだっていい。おれが受け入れればいいんだ。同じだけおれも変わればいいんだ。

 もし、もしも桜太が何か失ってしまっているなら、また、取り戻せばいい。それができないなら他のものでその穴を埋めてしまえばいい。

 おれと桜太の春は、まだ、始まったばかりなんだから。

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