第5話 アーノルドの喫茶店


街はすっかり冬にむかっていた。

積もりはしないが、雪が降る日も増えてきた。

11月も下旬だしな。

店にはまだ藤木さんは来ない。


12月になると忘年会シーズン突入ということで、金曜日の今夜は櫛田さんとの二人態勢だった。

忘年会とはいっても、一次会はほとんどが居酒屋でやるのだろうから、この手の飲み屋は二次会、三次会に使われる。

だから、忙しくなるのは一次会終了後の8時過ぎだろうな、多分。


6時過ぎに店に入った俺たちは、開店準備をすませても看板の電灯はしばらくつけないでおいた。

まだ、店空いてませ〜ん、てこと。

どうせ、今夜も遅くなるのだろうし、少しでも楽したいもんね。


櫛田さんはカウンターの中でカラオケを熱唱している。

最近、流行っているB’zというグループの『Bad communication』ってのを歌っている。


ん〜、下手だ。

残念ながら、櫛田さんは歌が下手だった。

俺はシラーっとした気分でカウンターの端でタバコを吸っていた。

長い曲が終わった。

横目で櫛田さんを見ると満足顔。

すかさず、櫛田さんは次の曲を入れた。

おいおい、まだ唄うのかよ。


数秒後、店内に次の曲のイントロが大音響で始まった。

ワオ!『Bad communication』

同じ曲かいな!

よほどのお気に入りかよ。

あっ!わかった。なるほどね。

 

先週の土曜のことだった。

10時過ぎに女性客二人がやってきた。

店内は混んでいたがカウンターに二席空いていたので、そこに落ち着いてもらった。

二人はすでに飲んできたようですっかりご機嫌で、酒の注文が終わるや否や店内でのカラオケ大合唱に誘われたのか、カラオケ本を懸命に眺めていた。

櫛田さんが注文された生ビールを持って行った時、片方の割と可愛らしい女が言った。

「すみません、『M』お願いします」

最近流行ってんなあその曲、俺は好きじゃねえけど。

すると隣の引き立て役の少々小太りな女が言った。

「ああ、ずるい私も歌いたいのにい〜。じゃあ私は『ダイヤモンド』でいいや」でいいやって、お前が言う?

プリンセスプリンセスに彼女らに失礼じゃない?

まあ、いいか。


櫛田さんはすかさず、リクエストを割り込み入力した。

三曲後に始まるように割り込んだみたい。

この混みようで、普通にリクエスト入力したら歌えるのは30分後だ。

割り込みしたということは、櫛田さん、この客気に入ったみたい。

ということはしばらくこの二人の前を離れないぞ、櫛田さん。

ということは彼女ら二人以外のその他大勢の客の相手を俺がしなきゃならないじゃん。

まったくよう・・・・・・・・

まあ、仕方ない。

一応、先輩だしな。

せいぜいがんばれ、櫛田よ。



俺はその他大勢のために、カラオケリクエストを取りに行き、水の入ったピッチャーやアイスボックスのお代わりを運んだり、生ビールを注いだり、カクテルを作ったりと、おかげさまで忙しくも充実した時間を過ごさせていただいた。

その時、カウンターから聞こえてきた。

「B’zって知ってます?」

「えっ、知らない、なに?」

「今、流行ってるんですよ。男性二人グループで『Bad communication』って」

可愛い方の女が可愛い笑顔で櫛田さんに言っていた。

「ごめん、知らない。全然」

「なあんだ、知ってたら歌ってもらおうと思ったのになあ」

「じゃあ、次来てくれたら歌えるようにしておく!」

うわ、言っちゃったよ。

大丈夫か?

でもいいか、櫛田さん嬉しそうだし。


「歌ってる方の踊りがセクシーなのよねえ」

引き立て役が言った。

櫛田さんはそれをスルーして可愛い方の女にくだらないジョークをかましていた。


「プ、プ、プ、プ、プ〜」

俺は思わず吹き出してしまった。

なるほどねえ、あの可愛い方のために練習ね。

今度来たら披露する気だ。

健気ねえ。まあ、多分来ないな、きっと。


二回目の『Bad communication』のサビが終わり間奏。

二番が始まる。

「♫去年の女のバッドニュース、テレビで…」

その時、店のドアが勢いよく開いた。


「あっ、やってるじゃん。看板消えてたから休みかと思ったよ。いい?」

突然の闖入者。

櫛田さん固まった。

常連さんだった。

「なに、カラオケ大会?」

櫛田さん固まったまま。

「いやいや、どうぞ、いらっしゃいませ!」

俺はそう言ってすかさずカラオケの強制終了ボタンを押した。

櫛田さん、まだ固まっている。

今、すんげえ恥ずかしんだろうなあ、櫛田さん。

俺なら店から飛び出して、穴ほって地球の裏側、ブラジルまで行くな。

そして叫ぶな。

「なまら恥ずかしいべや〜」



櫛田さんが一生懸命練習していたにも関わらず、その日、彼女は来なかった。

まあ、来ないだろうね。

しかし、次の日の7時過ぎ、驚くことに彼女と引き立て役が来たのだ。

今日は俺一人の日だった。

櫛田さん残念。


「いらっしゃいませ」

「こんばんは。また来ちゃった」

可愛い方が言った。

「ありがとうございます」

「今日も歌っちゃおうかな、他にお客さんいないし」

引き立て役が言った。

「どうぞ」

一応、言った。

俺は櫛田さんと違って客は選ばない。


二人はガンガン歌った。

可愛い方が1曲歌ううちに引き立て役は三曲歌った。

他にお客さんいないし、別にいいけど。

今日は楽勝。

適当に拍手して、ビール注いでいればいいんだもん。

それにしても飲むね、この二人。


「そうだ、『bad communication』歌えるようになりました?」

「えっ?bad communication?あ〜あ、あれね。それは別の人ですよ。今日は出勤してません」

「そうなんだ」

くくくっ、櫛田さん、覚えてもらえてねえの。

あんなに練習してたのに。

「じゃあ、あなたが歌ってくれる?」

「え〜」

「歌って」

彼女はじーっと俺を見つめた。

げっ、可愛い・・・・。

歌ったことはないが、散々、櫛田さんの練習聴いていたから覚えてはいる。

門前の小僧ってこのことね。

仕方ねえな。

「わかりました。でも、途中わからないところがあるかも」

「大丈夫。一緒に歌ってあげる」


「ありがとう。上手だったよ」。

ふ〜、なんだか。

ほとんど彼女が歌ってたじゃん。

でもまあ、可愛いから許す。

その後、他の客が来るまで随分と彼女たちは歌っていた。

楽だなあ、今夜。

毎日こうならいいのになあ。



そんなこんながあった日の週末。この日も予想通り忙しかった。

俺たちはもうてんてこ舞い寸前まで働いた。

そしていつまでも来ないマスターへの悪口を糧に頑張った。

信じられないことに、奴は11時過ぎに来やがった。

「マスター、おそっ!」

思わず言ってしまった。

「いやあ、すまんすまん、こんなに混んでたんだ。連絡してくれよ」

ばか!ふざけんな。

連絡したってすぐには来ねえべ。

まあ、いい。バイト代あげてもらうだけよ。


最後の客が引けたのは2時をとうに過ぎた頃だった。

俺たちはとっとと片付けにはいった。早く帰りたいもん。

櫛田さんも珍しくテキパキしていた。

片付けが終わり店を出ると一気に疲れを感じた。

今夜も櫛田さんに送ってもらう。


ようやく帰れるなあと思った刹那、マスターが言った。

「今日はお疲れ。飯でも食っていこう」

早く帰ってベットに潜り込みたかったが、俺たちは腹ペコだった。

まあどのみち拒否権はないのでありがたく、ゴチになろうか。

しかし、ふとイヤな予感が。

俺は思わず櫛田さんの顔を見た。

不安げな表情。櫛田さんも同じことを思ったようだ。

今までの真夜中の大食いが、脳裏によぎったのだ。

とはいっても拒否権がないので行くしかないかあ。

早く何かを胃袋に詰めたいというハングリーな気持ちと、もしかすると今夜もメチャクチャ食わされるかもという恐怖を感じながらマスターと綾子さんの後を歩いた。

また、今日も綾子さんがいる。

相変わらず愛想のない顔で。

間違いなく、ロクでもねえこと起こるな、今夜も。



マスターは店のあるビルの隣の隣のビルの1階にある、深夜営業の喫茶店へ入った。

おお?今夜はコーヒー飲んで軽く食って終わりかあ?

喫茶店といえば軽食だもんなあ。

軽い食事。

「今夜は大丈夫かもな」

「ですね」

俺も櫛田さんもちょっと安心した。


店内はこんな時間なのに満員だった。

酔いきれない酔客で店内は賑やかだった。

それにしても随分と広い喫茶店だった。どれだけ人が入るのか。

低いテーブルを囲むように安っぽい一人用のソファの出来損ないが4つ。

それが1セットとして、一体このセットがいくつあるのだろうか。

そのセットが広い店舗に多数、配置され、そのほとんどが埋まっていた。


ブスッとした表情の見るからに超機嫌の悪そうな店員に空いているテーブルへ案内された。

周りを見ると、酔客がもうわんさかと賑やかだった。

うるさい。

酔客特有の騒がしさ。

100人とは言わないまでもそれに近い数の酔っ払い。

酒飲んでいないのは俺らくらいじゃないだろうか。

そんな酔客で溢れる店内を、これでもかというほど不機嫌な顔の何人もの店員が忙しそうに立ち回っていた。

確かにこの時間に大混雑して酔っ払い相手じゃ不機嫌になるよ。その気持ちは良くわかります。

絶対、心の中で「早くこいつら帰れ!つうか消えろ!つうか死んでもいいぞ」って思ってるはず。


店員たちは本当に、店のマニアルにそうしなさいと書いてあるのだろうかいうくらい不機嫌な顔だった。

それで良いのか接客業と思えるくらい不機嫌な顔だった。

俺みたいな健気な20歳前後の学生が注文を取りに来てもらうことを躊躇してしまうくらい不機嫌な顔だった。


しばらくしてようやく来た店員はやたらとガタイが良く、とても逞しそうなオバさんだった。


そしてその顔も非常にイカつく、眉間にシワが寄っていた。

茶髪のウエーブしたロングヘアが見事に似合っていなかった。

そして、その店のユニフォームである茶色いワンピースの半袖の腕のところがぱつぱつで、こちらも見事に似合っていなかった。

この人の笑顔なんて想像もつかない。

怖いぞ。

そのオバさんがトレイに水の入ったグラスとおしぼりを持ってこちらへ向かってくるのが見えた時、俺は背筋が冷えてくるのを感じた。

俺は彼女が直視できなかったが、怖いもの見たさというのだろうか、チラチラと見てしまう。

櫛田さんが俺の耳元でつぶやいた。

「シュワルツネッガーみたいだな」

「アーノルド?」

「そう」


アーノルドは不機嫌度満載でテーブルにグラスとおしぼりを置いた。

俺と櫛田さんは圧倒され無言でメニューを見た。・・・・な、何食おうかな?

「こんばんは。今日はねえ・・・・」

マスター、普通に挨拶してる!

大人だ。もしかしてここの常連?

来慣れてる。

「ミートソースとオムライスとハンバーグ、そんでねえ、カレーかなあ」

あれ?もう注文?

それってもしかして俺たちの分も入ってる?

今日も選択権なしかよ!

ですよね〜。

まあいい。

どれも嫌いじゃない。


すぐに料理が運ばれた。

「取り皿ちょうだい」マスターが言った。

不機嫌なアーノルドの眉間のシワがさらに深まった。

アーノルドは軽くため息をついて皿を取りに行った。

「マスター、俺、カレー食べていいっすか?」

櫛田さんが言った。

「はあ?お前バカか?今取り皿頼んだろう。みんなで食べんだよ」

「そうなんすか、それもいろいろ食べれていいっすね」

なるほど、そういうシステムね。

合点。

どうでもいいや。そもそも選べないんだし。


取り皿がきた。

アーノルドは意外に丁寧に皿をおいた。

まずマスターと綾子さんが皿を取り、マスターはミートソース、綾子さんはオムライスとハンバーグをそれぞれほんの少しずつ皿にのせた。

櫛田さんと俺は取り皿に手を伸ばした。

「何する気だ?取り皿なんていらないぞ。あとはお前ら直接食っていいぞ」

俺と櫛田さんは顔を見合わせた。

だって、俺ら直接口つけたら、マスターも綾子さんもお代わりできないよ。

「俺らはこれだけでいいの、あとはお前らが食え。残すなよ」。


ぬ!このパターン。

もしかしてこの人たち、夜中に俺たちにたくさん食わせて苦しんでいるのを見るのが楽しいのか?

テーブルに乗った皿を改めて見た。

オムライス、ミートソース、カレーライス、それにハンバーグにはご丁寧にライスとスープとサダがついていた。

マスターと綾子さんが取り皿にのせたものの、どの皿もほとんど減っていない。どうすんのよ、これ?

櫛田さんと協力して食うしかない。

俺たちは大きなため息をつき、スプーンとフォークを持った。

「俺はカレーが食べたかったから、あとは任せる。よろしく!」

えっ、何それ?

「二人で頑張るんじゃないんすか?」、

はあ?お前、何年目よ?」

「えっ!そうきます?マスター〜」

「知らねえ、仲良く食え」


「お前哲学ゼミの一年目だろ?だらしねえな、そのくらい。じゃあ、それも食ってやるよ」

と言って、ハンバーグを一口分、ミートソースを三本、取り皿に乗せた。

「ちょお、それだけ?」

「何か?」

「ぐっ」


櫛田さん、まさかの裏切り。

まあ、わかってたけどさ。

俺は覚悟を決めた。


俺はもう必死になって食った。

多分、コメものを最後にすると辛いと思うからコメもの先に食うぞ作戦で、オムライスから平らげた。


「ん〜、満腹、ご馳走様、おいしかったあ、幸せ!」

と言って席を立ちたかった。

しかしまだ、ミートソースアンドハンバーグが・・・・・・・・・、あっ、ハンバーグにはライスがついていた!それにスープが2カップ!

どうする、俺?

目の前にはマスターと綾子さんがくだらない話で盛り上がっているようだ。

隣の櫛田さんはゆっくりとカレーを味わっている。

あ〜腹立つ!

くっそ、こいつら絶対に地獄行きだ。

しかも、何も食えない餓鬼地獄へ行け。

腹すかせて地獄で彷徨え!

俺はこれを食って極楽浄土だ!

気合いを入れ直し、ハンバーグに取り掛かった。


気負ったものの、そんなに食えないよなあ。

ミートソースに変えてみた。

これならスルスルといけるだろう・・・・って無理だ。

そんなに食えないよ。


「ゲッッッッッッぷ」

俺は大音量のゲップをしてしまった。

「あ〜、きたなあ〜い」

今までマスターとくだらない話で盛り上がっていた綾子さんが俺に向かって言った。

「おい、汚えよ、早く食え」


このクソアマ〜

俺の腹はパツンパツンだ。

横のカレーを余裕で食べ終わった櫛田さんが、「まだ終わらんの?」と言いながらタバコを一服した。

クソタレ!負けるかあ、俺は極楽へ行くのだ!

でも入らない。

見かねたマスターに言われ渋々と櫛田さんが俺に加勢をした。

いや、こんなの加勢でも何でもない。

ミートソース三本くらい食べてお腹いっぱいだって。

こいつも、餓鬼地獄行き決定!

閻魔様に嘆願書を送るぞ。


アーノルドがグラスに水を入れにきた。

「気が効くねえ、おばさん、ありがとう」

って入らねえよ!液体も。

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