第2話 メン獄
櫛田さんは俺よりほんの半月前にここのバイトに入ったばかりだった。そのくせ、色々偉そうに言う。まあ、ゼミの先輩でもあるし仕方ないな。
拘束時間は午後六時から客がいなくなるまで。
平日と日曜は基本バイトが一人で、俺と櫛田さんが交互に出勤した。
週末の金曜と土曜は二人で入った。
バイトを始めてから数週間がたった。その日は平日であったが割に忙しく、まだそれほどここの仕事に慣れていない俺はてんてこ舞いしながらもなんとか仕事をこなしていた。
日付変更線が超えた頃、ようやく客が減り始め、午前一時前には奥のソファーボックスの客一組だけになった。
しかし、こやつ等、粘りやがる。
9時から来てるってえのに、なかなか席を立とうとしない。平日の夜だよ?明日仕事ないのか、お前ら?
カウンターにはいつものように綾子さんが座っている。
生ビールを不味そうにすすりながら、マスター相手に愚痴っていた。俺はこの人が苦手だった。
彼女は毎日、0時前後に現れる。推定20代後半で近くのスナックに勤めているらしい。
自宅がマスターの家に近いということで、マイカー通勤のマスターの車(ずいぶんと古い赤いオンボロファミリア)に同乗して帰って行く。
化粧のおかげか、暗い照明のせいかどうかはわからないが、割合整った顔立ちだった。だがサイズがちょっとばかし大きかった。顔がでかいのだ。
なぜか俺は大きいものが苦手だった。デブとか。そして大きな顔とか。
この人は水商売のオネエさんの割りには言動があまり明るくなかった。なんか陰気臭い。そのせいか老けて見える。本当はもっと若いのかもしれない。
スナックのオネエさんがみんな明るいかどうかは、まだスナックなんぞ行ったことがない若造の俺にはよくわからんが。
まあ、スナックでエロハゲデブ中年オヤジを相手に愛想を振りまいていたんだろう、その後じゃ疲れて物憂くなるものかもしれない。
とにかく彼女は雰囲気も明るくはなかった。かと言って、どんよりと曇った梅雨空(この街に梅雨はないのであくまでも想像でしかないが)ほど暗くはなかったが、この街の冬曇りの空並みには暗かった。
まあ、俺も明るい方ではなかったし、口数も非常に少ない方なので、ほとんど彼女との会話はなかった。
「外の看板消して、厨房片付けろや」
マスターが俺に言った。
ふう〜、ようやく終わるぜ。帰れる、ラッキー!
「おい。今、『帰れる、ラッキー!』て思ったべ?」
「そ、そんなことないっすよ!」
このオヤジ鋭いぞ。
「本当か?ウチは基本、お客さんが帰るまで店は開けておくんだぞ。奥のお客さんまだ帰らんぞ」
そこがおかしいんだよな、ここ。閉店時間がないなんてよ。客が帰るまでなんて、お客様は神様かよ。ずっと居続けられたら何日でも開けておくのかよ。コンビニかよここは。「開いててよかった!」、かよ。
まあ、いつもの平日はほぼ暇で0時過ぎにはもう誰もいなくなるからいいけど、週末なんか最悪だ。
この前の金曜なんて家に帰り着いたの午前三時過ぎだったからな。しかもそんな日に限って櫛田さんは来なくて、俺一人だったし。
時給450円じゃあ割に合わないぜ、まったく。
俺は外看板の電灯を消し、カウンターの奥の厨房へ入り、
『か・え・れ!か・え・れ!カ・エ・レ!』
と心の声でソファーボックスの客へ帰れコールを送りながら、ガスコンロや汚れ物を洗った。
厨房の片付けをあらかた済ませ、カウンターへ戻ったがソファーボックスの客はまだ帰る気配すらなかった。なんだかなあ、まったく。
俺は思わず手のひらに『かえれ』とかいて、ふっとその文字をソファボックスの客めがけて吹き飛ばした。
呪、まじないだ。まるで陰陽師だぜ、俺。
「あ〜、今何かやったあ!」
やばい、綾子さんに見られた。
「ん、何?」
「いやいや、何もしてませんぜ」
「今、手のひらから何か吹き飛ばした」
クソっ、うるせえ女だ、余計なこと言うな!
「何飛ばしたんだ?汚ねえな」
「いや、全然汚くないっすよ。洗い物が終わった後、手が少し濡れてたんでちょっとだけ吹き飛ばしただけっすよ。乾燥乾燥」
おっと、なかなか機転のきいてるぜ俺。素早いナイスな言い訳だ。
「ばか、それって汚いだろうが」
あれ?言い訳失敗?
「曲がりなりにもここは飲食店なんだからな。清潔一番だぞ」。
まあそりゃそうでしょう。正論ですよ。でもよく言いますよね。厨房のあの汚さ。初日にここへ入った時はおったまげましたぜ。飲食店は清潔一番が聞いてあきれますぜ。
でも、それ言っちゃうと、「お前らがキレイにしないからだろう!」と逆切れされるのが目に見えている。俺たちが入る前から汚かったにも関わらず。
「はい。すんません」
俺は素直なふりをして謝っておいた。
もちろん、俺の頭上に浮かんだ空想の世界では、俺はマスターに北斗百裂拳をかましておいた。
あちゃちゃちゃちゃちゃ〜
「おあいそ、お願いしまあ〜すっ」
酔っ払いのだらしない声が店に響いた。
おお、帰るのか!俺の呪が効いたぜ!
マスターがレジを打っている間に、俺はいつもの二倍ほどの速さでテキパキとテーブルを片付けた。
やるぜ俺。
最後の客が出て行くと、マスターが一日の売り上げを計算し始めた。
最後の洗い物を素早く済ませ、俺はタバコに火をつけた。
ふ〜、いつでも帰れるぜ、マスター。
「よし、帰るか」
「はいは〜い」
綾子さんを含めた俺たち三人は店を出た。
ドアの鍵を閉めてシャッターを閉める。俺の最後の仕事だ。
おっと、シャッターの鍵も閉めなきゃな。
ちなみに、俺も部屋まではマスターに送ってもらっているので、歩いて五分ほどのところにあるオンボロファミリアが置かれた駐車場へ三人で向かった。
「今日は随分客が来たし、なんか食って行くか」、
「えっ、マジっすか?」
このバイトに入り、帰りにメシなんて初めてだった。夕飯代わりの菓子パンを食べたのが午後六時前、さすがに腹はペコペコリーだった。
ん〜、何がいいかなあ?
「ラーメンにしない?私食べたい」
「おっ、いいねえ、そうしよう」
ラーメンか。
悪くはないがなんで決定権が綾子さんにあるのだ?
何故、俺に何が食べたいのかを聞かぬ、マスター?
まあ、いいか。ラーメンでも。嫌いじゃないしね、ラーメン。
午前二時にも関わらず、サンロク街にはまだ開いている飲み屋がたくさんあった。でも、どの店にも目もくれずマスターと綾子さんは迷うことなく、とあるラーメン屋へ入っていった。来慣れてる。
店内はそこそこの酔客で賑わっていた。平日の深夜なのになあ。どうかしてるよ、こいつら。
カウンターへ座りお品書きを手に取った。
さて、何にしようかな。ラーメンといえばやっぱり味噌か醤油でしょ。ここは北海道だぜ。つうか、やっぱり醤油だな、ラーメンは。この街じゃ定番だし。
「塩三つね。ひとつは大盛りで」
カウンター席に座るなりマスターは言った。
ん?塩ラーメン?俺は醤油がいいのに。
何故、何食べたいのか聞かない?
「あっ、俺は醤油がいいなあ・・・」
ちょっと控えめに言った。
「お前、馬鹿だなあ。ラーメンって言ったら塩だろうよ」
「そうよ。醤油なんて」
へっ?何この二人。何言っちゃってんの?
ラーメンといえば塩?何故そう言い切る。
俺は醤油が好きだが、ラーメンは醤油だなんて言い切らないぞ!味噌でも塩でもいい。俺は否定しない。それぞれが好きなものを食べればいい。なのにこの人たちって、塩って言い切ってる・・・・。
そういえば最近、道南地方じゃ塩ラーメンで盛り上がろうなんて味噌や醤油に対抗しようとしてたっけ。
まあ、塩でもいいか、今夜は。
だんだんそんな気分になってきたような気がするようにした。
でも、大盛りかあ・・・・。
俺は若いくせに食が細く、あまり多くは食べられない。すぐに満腹になるタチだった。だから俺が高校までいた実家のエンゲル係数はかなり低めだったはずだ。ちょっとした親孝行かな。
でも、今夜はバイトが始まる前にちょっとだけ菓子パンをかじっただけなので、腹は空いている。まあ、大盛りぐらいいけるな。
でも、醤油が良かったなあ。ラーメンといえば醤油でしょう。なんで塩かな、この街で!
やばっ、俺も言い切っちゃった。
待つこと数分、目の前に湯気を立てたラーメンが置かれた。おお、うまそう!いい匂い!塩もいいかもね。
「マスター、いただきます!」
「おう、全部食えよ」
「ゼウスに誓って、これぐらい秒殺っすよ!」
とは言ったものの結構なボリュームだ、大盛り。
俺は食道の入り口が狭いのか一気に大量の食物を飲み込むことができない。そして、大量の水を飲まないと食事ができないタチだった。全くもって、面倒臭い体質だと自分でも思う。
湯気でむせ、熱気で鼻水を垂らし悪戦苦闘しながらも、ようやく半分食べ終えた時だった。
「私、もういらない」
綾子さんがそう言った。えっ、残すの?残すなど罰当たりめ!と思った時、
「おい、綾子さんのお前食べれ」
マスターが俺の前に綾子さんのどんぶりを置いた。
「はい?」
「残りをお前が食え」
ええ〜、俺、食が細いのよ。しかも大盛り頑張ってるのよ!
見て、どんぶりの中はまだ半分残ってるのよ!
俺は、マスターに哀しい目で訴えた。シカトされた。
バイトの俺には拒否権がないのか。仕方なく、綾子さんのどんぶりを引き継いだ。なんとまだ三分の二以上残っていた。
このクソ女、自分でラーメン食べたいって言ったくせにほとんど食ってねえじゃねえか。
「あと、これも食え」
マスターは自分のどんぶりも俺の方へ突き出した。
はあ?なんですかそれ?
あんたも残すのかよ!一体どんだけ食わされるんだ?
「いやいや、無理っすよ!」
俺ははっきり言ってやった。
「いいから食え、これもウチのバイトの仕事だ。聞いてなかったか?」
「そんなの初耳っすよ!」
「いいから食え。アフリカじゃなあ、食べたくても食べられない子がたくさんいるんだからな。幸せに思え」
俺は数年前に買ったレコードの曲を思い出した。
イギリスのロックミュージシャンたちが集まりアフリカの飢餓で何も食べられない子供たちのために曲を作りその収益で彼らに食事を。
『Do they know its christmas?』
🎵イッツクリスマスタ〜イム
俺の耳元でポールヤングが歌い出した。
見上げるとポールが目を閉じて歌っていた。めっちゃ感情入っている。でも、髪型変だよね。眉毛ボーンだし。
🎶ア エア〜オ〜
ボーイジョージだ。
化粧濃いぞ。眉毛の下の色、何色?オレンジ?何で?
♪バッセイヤプレヤ〜
ジョージマイケルかよ。
顔濃い!ヒゲも。声大きすぎ。
♪ イッツハ〜
サイモンルボンだ!顔でか!
♪ドゥゼイノウイッツクリスマスタイマーオ〜
おお!スティングにボノ、その他多数、豪華メンバーだぜ!
みんなで歌ってる!最高!
♪フィーザワ〜オ〜 (全員で合唱!)
※歌詞は本来英語ですが、全て耳コピで表記しております。私にはこう聞こえます。したがって正確ではありません。
そうだった。
食べ物を世界へ!
そうなんだよな。俺も賛同してあのレコードを買ったっけ。
そうだよな。全部食べなきゃな・・・・
食べたくたって食べれない人たちがいるんだよな。
これ残しちゃバチが当たるよな・・・・
って、おい、マスターあんたはいつから博愛主義者になったんだよ。それに飢えた子だってこんなに食べさせられたら残すってえの、絶対!
俺は小声でブツブツ言いながらラーメンを懸命にすすった。お前ら死んだらラーメン地獄に落ちるぞ!閻魔様に投書してやる!メン獄行きじゃ!
「早く喰えよ」
「食ってますよ、ズズズズズウ〜」
いつの間にか俺は汗だらけになっていた。もう秋なのに。これって暑くて流れる汗なのか、冷や汗なのか。
それでも孤軍奮闘し、俺はなんとか三つのどんぶりの麺を食い切った。やればできる俺、頑張ったな俺。もう一回言う、やればできる、えらいぞ俺!
俺の腹はパツパツだった。はち切れんばかりにパツパツだった。七匹の子ヤギに出てくる六匹目の子ヤギを食べた狼の腹くらいにパツパツだ。
でもあの狼、六匹の子ヤギを飲み込んでも余裕ぶっこいて苦しそうじゃなかったなあ、なんて妙に感心している俺の腹は今まで感じたことないくらいの膨張感。こんなに苦しいのは生まれて初めてだ。腹が減っていた頃が懐かしい。
俺は達成感でいっぱいだった。感無量で俺は思わず天を見上げた。そこはラーメン屋の小汚い天井だった。
ドヤ顔でマスターに「食いましたよ!ゲッぷ」と言ってやった。
でもマスターのセリフは非情だった。
「ツユ残ってるぞ。全部飲め」
「ぐっ!」
こいつは悪魔だ。
俺は残りのつゆでさらに腹を膨らませた。まるで七匹目の子ヤギを飲み込んだように。
ラーメン好きな道産子である俺ではあるが、当分の間、ラーメンは食べないことに決めた。否、食べられなかった。見たくもなかった。そして、塩ラーメンは一生食べないと誓った。
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