三 下弦の月

 あの日から、幾年過ぎただろうか。

 次代の東宮の問題は、未だ、はっきりとした結論が出ていない。いいえ、わたくしと主上の諦めが悪いだけで、本当はとっくに結論は出ているのかもしれない。

 主上の決意は、気紛れでもその場しのぎでもなかった。万事控え目な彼らしからず、この件だけは藤原の圧力に屈すことなく、辛抱強い交渉を続けている。だが、結果は芳しくない。

 ここ数年、わたくしは本当の意味で主上に心を預けられると感じていた。

 わたくしたちは、もう夫婦とは言えないだろう。三人目の姫を最後に子は生まれていないし、主上のお渡りがあっても、言葉通りやすんでいかれるだけのことが増えた。それでもわたくしは、篤い寵愛を受けていた若かりし頃よりも、ずっと主上を近くに感じるのである。

 畏れ多い言い回しではあろうが、わたくしたちは、同士であった。留まるところを知らない藤原という大波に立ち向かわんとする友であった。その絆こそが、わたくしたちをなにより確かに結び付けていた。

 しかしこの結びつきも限界を迎えているのかもしれない。

 幼かった子どもたちもそれぞれ成長し、一の宮はつい先頃、元服を行った。少ないながらも禄も得、官職にも就いた。

 もう、わたくしに守られるだけの小さなものではなくなりつつある。

 これで良いのかもしれない。近頃は、そのように思うことも増えた。

 一の宮の立場は、異母弟の東宮とは比べるべくもない。吹けば飛ぶような存在であることも変わりない。無理に東宮の座を狙って弑されるよりは、このまま不確かな身で生き続けた方が良いのかもしれない。その選択はきっと、単に現実を受け入れただけのことであり、敗北ではない。けれども、そう考えること自体、わたくしがもう若くはない証拠なのだと思う。


 諦念を受け入れつつあるわたくしとは対照的に、主上は断念するご様子はなかった。忍耐強く交渉を重ねることで主上が心身をすり減らされていると、わたくしには手に取るようにわかっていた。

 生家の苦境も深刻であった。わたくしにできることは、なにひとつない。

 波に抗うつもりでも果たすことのできない海辺の砂山のように、わたくしは藤原の野望に晒されるまま時間に流されることしかできなかった。

 きっと、一の宮は東宮になることはない。曖昧な身分のまま、ひっそりと日陰の生を過ごすだろう。わたくしもまた、この後宮の片隅で主上をねぎらったりはげましたりしながら、いつかはゆるゆると身体の端から朽ちてゆくような、緩慢な死を迎えるのだ。

 それがわたくしの身の丈には合っているのだと、受け入れつつあったある夜のことである。


 わたくしは、まだ、憂き世の辛苦を知らずにいたのだと、思い知らされた。

 わたくしの諦念など、わたくしに都合のよすぎる妄想でしかなかったのだと、知らしめられた。


 その夜、御帳の中で、わたくしはなかなか寝付けずにいた。

 空には明るい月が昇っている。正円から三分の一ほどをこそぎ取ったような、いびつな形状の月。寝待月の夜だった。わたくしが寝付けずにいたのは思えば、虫の知らせだったのだろう。

 寝付けぬと月を見上げ、溜息をつき、それでも眠らぬわけにもいかぬと御帳に入る。それを幾度も繰り返して、ようようまどろみ始めた明け方であった。

 ばたばたと廊下を駈ける足音がする。

 早朝から何事かと体を起こせば、青褪めた伊予が飛び込んできた。

 隙間から覗く空は厚い雲に覆われ、あれほど明るかった月はすっかりその姿を隠していた。

「どうしたの、落ち着きのないこと」

 眠りが足りていないのだろう、伊予の表情が何を示しているのか、わたくしにはまったくわからなかった。出仕したての少女の頃でもあるまいに、そろそろ古参に入ろうという彼女が廊下を走ってくるなんて、と、場違いに笑いさえこぼれた。十年も前のことがまるで昨日のように感じられ、妙齢となった彼女が新鮮ですらあった。

「三条町様。お気を確かに、お聞きください」

 しかし、深刻な、これ以上ないほど強張った顔の伊予は、わたくしの反応などまるで目に入っていないかのように、うろたえるな、落ち着いてくれ、と、しつこいくらいにそればかりを繰り返している。

 ぼんやりとしたわたくしの頭も、この頃にはさすがに少しずつ目覚めを迎えていた。これはなにか、只ならぬことが起こっている。

「どうしたの」

 再度問うと、伊予は大きく息を吸って、呼気を整えた。青い顔にはまるで血の気が戻らない。

 少しずつ、不安の芽が育っていった。けれど、覚悟を決めようにも、どのような報せなのかまったく予測がつかない。だから、わたくしは、衝撃に備えることもできないまま、その言葉を聞くことになったのだ。

「主上が、御崩御なさいました」

 雲の裏側で、月が地平に沈む。平素と変わらぬ、夜の終わりで、一日の始まり。

 だがそれは、昨日までの日常であった。

 突然の、あまりに突然の、前触れのない異変。

 わたくしも、他の誰も、覚悟などしていなかったに違いない。

 誰が、誰が予測し得ると言うのだろうか。たとえ、すぐさまに服喪の儀が執り行われたとしても、何者が準備できたというのだろうか。

 最後にあの方の姿を見たのは、満月の夜だった。

 主上は、上機嫌であった。ようやく藤原を説き伏せることができそうだと、お喜びであった。病を得た様子も、お怪我をされたご様子もない。いつもとなんら変わらぬお姿であった。

 そもそも、主上は御年三十二歳。身罷られるには、あまりにも、早すぎる。このような災いが、起こりうる余地などなかったはずなのだ。それなのに。

 明月は暗雲に侵され、姿を消した。

 沈んだ月は、二度と戻らない。

 これからの夜は、暗闇のままであるに違いない。

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墨染の月 MAY @meiya_0433

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