二 居待月

 それは、この世のものとは思われぬ美しさであった。

 入内からそろそろ一年。藤原の女――染殿そめどのは、宮から出てこないことで有名な女となっていた。

 お高く留まっているのだ、藤原以外の人間と交わるつもりはないのだ、と不評は止むことを知らない。後宮の多くから反感を買っている状況にあっても、悪評など歯牙にもかけない彼女は徹底して宮に籠っていた。

 勿論、東宮の妃たるもの、おいそれと出歩くものでないのは確かである。

 わたくしとて、庇の外を歩くことなどたまにしかないし、庭を散策したことなど数えるほど、物忌以外で後宮を出ることもない。高貴であることを求められる女が深窓に籠るのは当たり前のことだ。

 それでも、彼女の振る舞いは度を超えている。彼女を見知る者は、後宮の女官でさえほとんどいないのだから。わたくしも彼女を目にしたことはなかった。美しいという評判は耳にすれど、誰も見知らぬ姿をさて、何者が評価したのだろう。

 本当は、少しだけ疑っていた。

 美しいという評判は、飽くまでも実を伴わない噂に過ぎない。風評は、果たして真実なのであろうか、と。徹底して宮に籠るのは、見難い容姿を隠すためではないのか、と。

 そして、遂に染殿の姿を確認する機を得た。

 それは、美しい女だった。海の底で舞う海神わだつみの姫が戯れに地上に顔を出してきたのだと、荒唐無稽な考えさえ浮かんでしまうほど、浮き世離れした美貌の持ち主だった。

 涼やかな目元も、柔らかい輪郭も、どんな絵師でも描き写すことなどできないだろう。人の内でしかないわたくしでは、及びもつかない。

 醜ければ、許してあげられたのに。

 脳裏を掠めた言葉を打ち消しながら、女の方へと足を進める。

 初対面でも、当然、わたくしが誰かは分かっているはずだ。その上で、女はわたくしに一瞥もくれなかった。視界に入れる価値もないとでも言うように、その視線は空に留められたまま、漂っている。

 わたくしは、染殿のすぐ隣、ひとつ下座へ用意された席へ腰を下ろした。

 今、わたくしは、腹に東宮のお子を抱えた大切な身だ。常であれば決して出歩かない状態のわたくしや、宮を出ることのない女が並んで座しているのには、理由がある。

 病を得た今上帝の快癒祈願の修法が行われるのだ。

 無論、出ろと強要されたわけではない。

 しかしこの場に姿を見せないと、不穏な企みをしていると勘ぐられる可能性もある。一点の瑕疵も許されない後宮で、そのような愚かな真似ができるはずもない。

 それでも彼女なら、どのような不調法も看過されるだろう。藤原の姫を罰することのできる者など、この世に存在しないのだから。この席に並ぶ程度の常識はあったようだが、万一欠席したところで不問とされるだろう。


 法師の読経が響く間、わたくしはこっそりと女を観察していた。わたくしだけではない。皆、目立たぬように心がけながらも、好奇の視線は絶えず彼女に向けられていた。

 しかし当の本人は、そのような視線など気にかけていなかった。面を伏せることさえせず、視線はぼんやりと空を彷徨っている。玉のように煌めく双眸は、玉と同じく圧倒的に無機質であった。

 鮮やかな紅のきぬを用いた紅梅の襲は、そもそもこのような場に相応しいとは言い難い。けれど、春の穏やかな日差しに相応しいやわらかな衣は、どれだけ高級な品なのかを如実に示している。焚きしめられた薫物たきものも、一通りのものではない。おそらく特別に調合された固有の香だ。席も、東宮妃の中では最も高位に用意されており、わたくしは身重だからと特別に配慮されたはずの脇息も、彼女の元にもなぜか当然の如くある。

 あからさまな別格扱いでありながらそんなものに価値はないと切り捨てる無感動な面は、それを欲してやまない者への驕慢に同じだった。

 この女は、何もかもを持っている。

 美貌も財も地位も、生涯の安泰も、子々孫々の繁栄も、何もかもを。

 それでも何もかもが等しく塵芥に過ぎないのだと、感情のない目が語っている。

 この女に、東宮の寵愛は必要ない。

 誰も彼女の身を脅かしはしないのだから、全くの無用である。東宮以外に寄る辺の無いこの身とは、あまりにも対照的であった。

 許されない。

 神妙に目を伏せて表情を装う。

 許される、ものではない。

 わたくしの立場では、不況を買うことは、破滅と同義だ。だから、一点の曇りもなく完璧に、表の姿を取り繕う。

 惨めであった。

 生まれが、父が違うだけで、なぜこのような差が生じるのだろうか。藤原に生まれた僥倖を知ろうともしないこの女が、それを妬むことしかできない己が身の上が、あまりにも惨めであった。


 快癒の修法も甲斐なく、ほどなくして帝は身罷られた。次代の帝はもちろん、わたくしの夫君である東宮だ。服喪に即位の儀にと、数多の典礼が一時に殺到し、しばらくの間、内裏は慌ただしい空気に包まれていた。

 東宮――否、主上もご多忙なのだろう。このところはお渡りの間隔も空いている。そのせいか、気忙しい宮中にあっても、わたくし個人の身はいっそ普段よりも暇なくらいだった。

 わたくしは、無事、身二つとなり、生まれた二の宮も元気に健やかに育っている。男児が一人から二人に増えたといっても、わたくしの暮らしに目立った変化はない。主上が即位したことで正式に更衣の位をいただいたが、待遇そのものはいままでと変わらない。

 後宮の実権を藤原が握っていることも変わりはない。否、変わっていないどころではない。わたくしにとっては天災にも等しい災禍が、遂に襲いかかったのだ。

 染殿の、懐妊である。

 いずれは起こり得ると、承知していた。主上とて藤原の手前、閨を共にしないわけにはいかないだろう。染殿が石女うまずめであれば良いのだが、そんな都合のいい話はあるまい。いずれは、彼女が子を孕むことは、定められた運命ではあったのだ。

 それでも、無念を感じずにはいられない。主上にも、繰り言のひとつでも述べたいくらいだ。

 なぜ今しばらく、せめてあと数年待ってもらえなかったのだろうか。

 幼長の序も、才覚も、関係ない。藤原の血を引く男児ならば、それだけでわたくしの一の宮を飛び越えていく。一の宮が正式に東宮として立った後ならばともかく、未だ果たせぬこの時期、染殿の子が男なら、わたくしの子が日の目を見ることはもうあるまい。

 わたくしの立場は変わらないどころか、さらに危うくなったのである。

 わたくしは祈った。

 神に仏に、必死に祈った。

 藤原の女の腹の子が、流れるよう。せめて、女児であるよう。

 懸命に、祈った。けれども、神仏は、わたくしの祈りを聞き届けてはくださらなかった。主上の即位からしばらくして、染殿が生んだのは、紛うことなき男児であった。


 最悪の事態に、わたくしは打ちひしがれた。それでも身も世もなく嘆くことさえできない。悲嘆が余人の知るところとなれば、三条町の更衣は染殿を妬んだ挙句呪法を行ったとして、わたくしはすぐさま亡き者とされるだろう。

 わたくしは、死ぬわけにはいかない。わたくしが死ねば、誰がわたくしの家族を、子供たちを守ってくれると言うのだろう。神仏ですら、藤原におもねって、わたくしたちを見捨てたのだ。

 たとえ、無力でも。なにも為すことができなくても。それでもせめて、わたくしは生きなくてはならない。


 わたくしの嘆きを慮ってくださったのだろうか、その夜、久しぶりに主上のお渡りがあった。

 彼はひどく疲れた顔をしていた。用意した酒肴を前に、難しい表情で黙り込んでいる。その疲労は多忙によるものだけには見えなかった。

 もう、何年もそうだ。新たにもたらされる変化は、悪いものしかない。あの女が、染殿が入内してきてから、ずっとだ。あれは美女を装った物の怪なのではないのだろうか。海の向こうの国では、美姫に化けた狐が国を滅ぼしたと聞く。あの宮に籠っているモノが、わたくしたちの不幸と苦悩の元凶だった。

「二の宮は、健勝か」

「もちろんでございます。今は、乳母と共に寝入っております」

「そうか。なかなか顔を見に来ることもできず、すまないな」

「ご多忙な時期ですもの、仕方ありません。それよりも、主上こそご自愛くださいませ。ずいぶんと、お疲れのように見受けられます」

 主上のご様子から、言い難い話があるのは間違いなかった。聞かなければ実現しないと言うのならば、永遠に聞きたくなどない。けれども現実は、わたくしが話を聞こうが聞くまいが、変わりはしないのだ。それならばせめて、心の準備だけはしておきたい。

 いかがなさいましたか、と。言外に問いを投げかける。

 主上は、一度わたくしの目をじっと見つめ、諦観したように目を伏せた。

「次の東宮が、決まった」

「……はい」

「東宮は、染殿の生んだ皇子となる。準備が整い次第、すぐにでも立太子の儀を執り行う手筈だ」

「まあ……」

 さすがに驚いた。生後間もない赤子など、なんの弾みで儚くなっても不思議ではないというのに、ここまで立太子を急ぐとは。

 藤原の驕りと焦りが見えるかのようだった。

「本当は、一の宮を東宮に立てたかったのだ。しかし、叶わなかった」

 煮え湯を飲まされて、主上の表情が歪む。

 きっと、主上は強硬に反対なさったのだろう。そうでなければ、この世の春を謳歌しているとうの一族が、ここまで慌てる道理もあるまい。それは、主上のわたくしと一の宮に対する愛の深さと、主上に対してさえ我欲を優先させる藤原の専横の深刻さとを示していた。

 主上が顔を上げる。先程までの諦観は、払拭されていた。顕れていたのは、強い意志であった。

 主上は、わたくしの両の手をしっかりと握り、はっきりした視線を向ける。

「余はまだ全て諦めたわけではない。順番は前後することになってしまうが、その次の東宮に一の宮を据えることができるよう、今、右大臣と話をしている」

「まことで、ございますか?」

「無論だ。叶うならば、すぐに譲位しても構わない。唯一の我儘だ。聞き入れてもらう」

 いつもは柔弱な主上が、この時ばかりは強い口調で断言した。それほどの覚悟だと、確認せずともわかった。

 これが成れば、わたくしの一族は安泰だ。一の宮も東宮として、何不自由のない暮らしができるし、弟妹たちが粗末に扱われる懸念はなくなる。わたくしの、宿願が叶う。

 これ以上ないほど、嬉しい言葉だった。久々に悪報以外の変化であった。しかし、それなのに、そのはずなのに、わたくしの胸に去来したのは、言い表しようもない焦燥感だった。

「果たして、叶いましょうか」

「叶えてみせる。余は頼りない夫であろうが、なにがあっても叶えてみせる」

 力強い断定を得てなお、名状しがたい胸騒ぎは、収まるどころか激しくなる一方だった。

 さりとて、主上を止めることもできはしない。これが最後で唯一の、わたくしの願いを叶える機会なのだから。

 不安を押し殺し、わたくしは主上に喜びの意を表した。堅く険しい主上の表情が、このときばかりは柔らかな微笑に彩られた。

 この時の判断が、正しかったのか誤っていたのか。どれだけ考えてもわたくしは答えを出すことができなかった。

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