墨染の月

MAY

一 十六夜

 宮の内と外とを隔てる御簾が、勢いよくめくりあげられる。よく言えば元気のある、悪く言えば落ち着きのない行動は、常に気品ある立ち居振る舞いを求められる後宮において、許されないものである。

三条町さんじょうまち様、大変ですっ」

「どうしたのです、伊予いよ

 わたくしは几帳の影に座し、静かに扇を開いた。

 何が大変なのか、気にならないのではない。話の内容と関係なく、勢いにつられて慌てふためくことが、東宮の妃として相応しい行いではないのだ。

 落ち着きのない振る舞いの主が誰かは、声を聞かずとも分かっていた。後宮に慣れた女房であれば決して取らない動きをするのは、新参のみである。

「そのように大きな声を出す必要はないでしょう。近くにおいでなさい」

 案の定、そこにいたのは先頃女房として出仕したばかりの伊予だ。たしなめられた少女は、しまったとばかりに眉を下げ、今度は努めて淑やかに几帳をくぐってきた。

 花なら蕾、まだ稚さの残る少女だ。歳は十五と聞いているが、年齢よりもやや幼さがあるようだ。まあ、それも仕方のないことか。出仕する前は、父の任国で気儘に過ごしていたのだろうから、宮中はさぞ窮屈であろう。慣れないゆえの不調法さは、そのまま裏表のない正直さの表れでもあり、わたくしには少しばかり羨ましくも映った。

「さっき、尚侍が話していたのを聞いてしまったんです」

 畳の隅に腰を下ろすや否や、伊予は鼻息も荒く語り始めた。興奮の下に見えるのは悪戯心や野次馬根性ではなく、逼迫した懸念だ。

 少しばかりの心構えをしつつ、わたくしは次の言葉を待つ。

「東宮様に、藤原ふじわらの右大臣の娘が入内してくるそうなのです」

 この上もなく当然な、最悪の事態であった。

 扇を掲げて、目を伏せる。喜怒哀楽を率直に出すことは、淑女として相応しくない。宮中で過ごす時間が長くなればなるほど、人は内心を隠す手段に長けてゆく。

「そう」

「三条町様……」

 人の機微には聡いらしい善良な少女は、自身が傷つけられたように悲痛な表情をした。

 嘆くことさえできないわたくしの代わりに、率直な不満を表してくれていると思えるほどであった。

「どんな人だったとしても、三条町様の方がお美しいに決まっています。ちょっとしか聞けなかったんですが、右大臣はどうも、螺鈿と珊瑚でこしらえた仰々しい車を用意しているらしいですよ。でも、東宮様は華美をお好みではないんでしょう?」

 言葉を尽くした懸命の労りは、幾分か衝撃を和らげてくれる。確かにわたくしの心を癒すには、有効であるかもしれない。

 けれども、そうではないのだ。

「ごめんなさい。少しだけ、一人にしてくれる?」

 少女は、さらに眉を下げた。親身に、心から力になりたいと思ってくれていることだけは、わかる。

 好意だけは、有難く受け取ろう。

 たとえ、無意味なものだとしてもだ。

「そうね、一の宮と大姫の様子を見てきてちょうだい。貴女が来てから、あの子たちはずいぶん機嫌がいいのよ」

「かしこまりました」

 努めて微笑みを浮かべて命じると、伊予は大人しく頭を垂れた。教えられた形式通りの礼だ。こうやって、この子も少しずつ染まっていくのだろう。逃れられない、女という生き物の業に。

 静々と下がる少女に、こんな時だというのに、なぜか憐れみの情が浮かんだ。


 わたくしが、東宮様の下に入内してから、早いものでもう五年になる。

 中流貴族の下で、たまたま美しく生まれついたわたくしを、父は必死の思いで後宮へと送り出した。もともと裕福とは言い難いわたくしの生家は、すっかり財を使い果たしてしまった。きっと、わたくしの家は伊予の家よりも貧しいだろう。

 それでもあの子が、他の女房達が、わたくしに頭を下げるのは、わたくしが東宮に愛されているからだ。数多いる妃の中でも、東宮がわたくしにかける情けは、殊に深い。

 東宮自身が年若いとはいえ、今のところ男児を生したのはわたくしだけだ。お渡りの数も他よりもずっと多い。

 わたくしは、愛されている。

 けれども、翻ってわたくしはどうなのだろうか。

 わたくしは、東宮を愛しているのだろうか。

 十五で入内したわたくしは、死にもの狂いだった。

 わたくしには妹もいるけれども、あの子を入内させる財はない。今上帝に嫁した姉も、生んだのが第七皇子では影響力は望めない。

 我が家の先行きは、わたくしの双肩にかかっていた。

 東宮に愛され、第一皇子を生んで、その子が次の東宮となり、帝となる。叶えば、ひたひたと忍び寄る没落の足音も、遥か彼方へ遠ざかる。

 それは、半ばまで実現していたのだ。

 わたくしの生んだ皇子は、東宮の初めての男児であった。わたくしへの寵愛そのまま、東宮は皇子を可愛がってくださった。戯れを装って問うた時も、この子が次の東宮だと、約束してくださった。それなのに。

 反故にされたとは、思わない。藤原の女の入内は、東宮の意思ではあるまい。

 皇家は、神代から続く神聖な一族だ。天の原と大地を繋ぐ存在であり、日の本の国そのもの。すべての礎となる、高く貴き山である。何よりも誰よりも深い神々の恩寵を受け、あまねく世を照らすべく在らせられる。

 対する藤原は、地を侵す海であった。深く浅く、絡め取るように侵入を果たし、山を食らい尽くさんとする。貪欲で、獰猛な波であった。年を経るごとにその力は増大し、今では皇家でさえしのぐ権勢を誇る。許されない増長であった。

 東宮は、藤原を警戒している。東宮の母が藤原であるにも関わらず、これまで藤原から妃を得ようとはされなかった。わたくしのように頼りない身の上の女が格別の寵愛を受けたのは、高位の貴族を退けようという意図あってのことだろう。

 しかし、東宮の思惑は、右大臣によって阻まれた。今を時めく藤原には、貴き東宮ですら敵わない実態の証左であった。今更、決定を覆すことは誰にもできまい。

 それが可能ならば、そもそも入内の話自体が流れていたはずである。

 変わらぬ現実を前にして、それでもわたくしは諾々と諦めるわけにはいかなかった。

 もしその女が皇子を生んだなら、わたくしの皇子は退けられるだろう。家のために、我が子のために、懸命に重ねたわたくしの努力は、水泡に帰してしまう。

 あがくことさえせずに受け入れることは、わたくしの矜持が許さなかった。

「誰か、」

 ああ、けれど、入内に否やも唱えられない東宮を頼んで、どうなるというのだろう。どれほど考えても、答えなど出るはずもなかった。巨大な海に立ち向かうには、この身はあまりにも脆弱だ。

 わたくしが頼れるのは、唯一、東宮の愛情だけ。嘆いたところで他に術もない。無力を噛み締めながら、近くに控えるはずの女房へ告げる。

「筆と、紙を、これへ」

 わたくしは所詮、波に浚われる水際の砂でしかないのだろうか。


「そなたからの招きとは、珍しいな」

 東宮は、日が沈んでほどなくわたくしの宮へ現れた。

 上げられた帳から、繊月が沈んでいくのが見て取れる。黄昏が過ぎきらない時間。恋を語らうにはまだ早すぎる。

 東宮もまた、なぜわたくしが今宵の渡りを求めたのか察しておられるのだ。

「ええ。どうしても東宮様のお姿を拝見したくなりましたの。ご多忙でしょうに、申し訳ございません。急な申し出を叶えて頂いて嬉しゅうございます」

 性急に事の次第を問うようなことはしない。泣いて縋って、願いが叶うのならばそれでもいい。けれども、それで東宮の心が離れてしまうようなことになれば元も子もないのだ。

 あくまでも、淑女としての余裕を保ち、品位のある振る舞いを。それはもはや、骨身に染みついた行動であった。

 燈台に火を灯し、酒肴を用意させる。

 生家からの援助のないわたくしに、豪華な酒肴を用意することはできない。代わりに、懐紙の一つにも心を配り、季節や天気に合ったものを誂えるよう配慮する。見かけの豪華さより、そういった風情こそを東宮が好んでおられると、わたくしはよく知っている。

 盃を片手に腰を下ろされた東宮は、静かに溜息をつかれた。薄暗い灯りの中でもわかる、憂いを帯びた面。

「知ってしまったのだろう」

 苦渋の滲む声音から、今回のことは東宮の本意でないと確信できた。何よりも貴き山は、この御世においては、狡猾な海に押されて疲弊しつつある。

 それは、皇家の持つ神の恩寵が薄れたということなのだろうか。藤原がそれ以上に強い何らかの加護を得ているということなのだろうか。

 浅学な女の身では、判ずることなどできはしない。

「内の女房が、噂話を小耳に挟んで参りました。よもや、と思いましたが、やはり……」

 袖を上げて顔を覆うと、やわらかく肩を抱かれる。

 お優しい、東宮様。けれど、藤原の意向を跳ね除ける強靭さはない。

「余の意思ではないのだ」

「承知しております」

「藤の右大臣の意向を退けることはできなかったのだ。済まぬ」

 言い訳の言葉が、宥める色に取って代わる。交渉はできないのだと、失望する。かみかたで決まった話に異を唱えるなど無謀と、理解していた。後は、わたくしがはいと言えば、この話はお仕舞いだ。

「余が心から愛しているのはおまえだけだよ。信じておくれ」

「ええ……信じて、おります」

 信じております、貴方の愛だけは。

 けれど、わたくしの欲しいものはそれではない。

 政をほしいままにしようなどとは、ゆめ思わない。外戚として栄華を誇ろうなどと、父も兄も考えはしないだろう。

 父兄の尽力に報いるだけの、対価を。皇子みこ皇女ひめの生涯の安寧を。

 その程度を希うことさえ、この身には過ぎたことだというのだろうか。

 見せかけではない涙が頬を伝う。抱かれる身は温かくとも、心は空虚に占められていた。

 深まる夜と濃くなる闇が、これからのわが身を暗示しているかのようであった。

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