044. また来てよろずや

 ここだよ、と指を差されて、初めてそれを視界にとらえた。

 一見するとただの民家である。しかも相当古い民家。大きな地震が起きたら倒壊してしまいそうな、木造二階建ての家である。重要文化財と言われたら納得してしまいそう。

 玄関先には何かの蔓や背の高い草花が生え伸びた、鉢植えが沢山並んでいる。なんとなく、祖母の家の庭先を連想させて、思わずまじまじ眺めてしまった。

 その、鉢植えと鉢植えの間あたりに。無造作に置かれた木製の看板があった。植物を分けるための仕切り板だと言われたらそうとしか見えないが、よく見れば太い墨の字が見えて、それが看板なのだと理解できた。

「もう廃業して何年になるかねぇ、人が来たのだって半世紀ぶりくらいよ。あ、それは言い過ぎか。あはは」

 皺だらけの手でその看板を抜き取ると、土ぼこりを払うようにぱん、と叩いて老婆が笑った。私はそれで、「はあ、すみません」と思わず謝罪する。

 よろずや、と書かれた看板に、感慨深いような、信じられないような。複雑な感情を抱いて浮かべる笑みは曖昧になる。老婆は大雑把に土ぼこりを落とした看板を、引き戸の玄関の端っこにちょこんと置いた。家屋のたたずまいに、墨で書かれた「よろずや」の看板は中々マッチしている。これが、建築当時はもっと目立つところに掲げられ、この一帯だけでなく町を越えて県を越えて、全国に轟く屋号になるとは、実物を見ても信じられない。この老婆が、その看板娘をしていたことについてもだ。

「店主さんは……」

「十年前かねぇ、あん人、ヘビースモーカーだったから。肺やってそのまま」

「それは、ご愁傷さまでした」

 古めかしい、すぐに開けられそうな鍵を回して、建付けの悪い引き戸をがたがたと開く。覗いた屋内は薄暗く、埃っぽい匂いがした。

 最低限の手入れもされていなかったらしい。あちらこちらに蜘蛛の巣が見え、思わず顔を顰める。老婆は「あらあら、汚いわねえ」と何でもない事のように言った。中に入ろうとは思わぬらしい。

 それは、私も同様だったので。外から玄関の中を覗くだけで、「これ、本当にいいんですかね」と恐る恐る尋ねる。

 間取りなんかは、資料で見た通りのようだった。特別歴史的価値のある建物でもないが、“あの”よろずやの建物である。保存のための団体とか、そういうものがあってもおかしくないはずだったが。


(20220711/23:45-00:00/お題:栄光の何でも屋)


「あん人が、そういうのは面倒だからって断っとったのよ。普段から、どうせ俺の代で終わりだって。だからまさかそんな遺言遺してるなんて、思わんでねえ」

 掃除も何もしてないけど、と老婆は皺だらけの顔をなお一層しわくちゃにして、申し訳なさそうに笑った。私は「いえいえ」と手を振ると、もう見終わったから、と、老婆の代わりに扉を閉めた。建付けが悪すぎて、開けたはいいが中々閉まらない。

 どうにかこうにかもう一度鍵をかけた時には、大分疲れてしまって。ふう、と息を吐いた私に老婆は「それで、どうすんの?」と問いかけた。

 老婆の視線は、よろずや、の看板に注がれている。当時、この老婆はこの店で、客との窓口として働いていたと聞いた。電話や手紙、はたまた直接やってきた客からの依頼を、こなせるものと、こなせないものと、緊急のものと、いつでもいいものなどに仕分けて、一つ一つ返事をしていく。「よろずや」最盛期のころには、老婆の一存で依頼を受けるかどうかを決めていたらしい。「よろずや」として働いていた男と、彼の助手からは相当信頼されていたらしい。

(でも、彼女は“よろずや”と雇用以外の関係を持たなかった)

 「よろずや」の遺言書をうっかり見つけてしまったのは、疎遠になっていた母方の祖母が亡くなったためだった。母と祖父母は折り合いが悪く、私が物心つくころには殆ど絶縁状態になっていたが。

 母以外に子がおらず、他の親戚もいなかったので、祖母の死後、家の整理を手伝うことになったのだ。長らく祖母を世話してくれた男はいたが、彼もまた高齢で、血縁でもない人間が遺品整理をするのは憚れるから、と。体よく丸投げされたものだと思っていた。

 それで、見つけたのが、箪笥の奥底にしまわれていた祖父の遺言状である。

 遺言状といえぬような代物だ。実際法的な拘束力はないだろう。チラシの裏に書いたと言われても信じたかもしれない。実際は、無地の白い便せんに記されていたが。


 まだ見ぬまごへ お前によろずやをやるから、つぐように


 高齢になって、急に思い立って書いたものなのか。

 ひらがなの多く読みづらい一文に、怪訝な顔をした私に母が祖父の正体を教えてくれたのだった。

「それで、この家、どうなんのかね」

 老婆はもう一度私に聞いた。

 老婆の元を訪れたのは、祖父母を敬遠していた母がはっきりよろずやの場所を覚えていなかったからで、祖父母の家に唯一残された住所が、この老婆の家だったからだった。

 つぐように、と。

 継ぐように、と祖父は言ったが。

「……さあ、どうしましょうかねえ」

 私は困って曖昧に笑う。さっきからこの笑みを浮かべてばかりだ。第一、今の時代、「よろずや」なんて何をするのかもわからない。いっそ博物館にでもして、一般公開した方が儲けが出るだろう。

 ただ。

 老婆の眼差しに少しだけ良心が痛んだ。少なくとも母からみたら、どうしようもない祖父だったようだけど。

「継ぐならきっと、改装します。でもあんまり継ぐ気はないので。このまま、皆に見てもらった方がいいのかな」

 ぼんやり言えば、老婆は感情の見えない瞳で「そうかい」と頷いた。

「まあ、今はもう、あんたの家さ。この鍵も、もう持ってらんないね」

 そうして差し出された鍵を、私は黙って受け取るほかなかったのだった。

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即興小説 佐古間 @sakomakoma

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