第2話 プライスレス
待ち合わせ場所の銀の鈴の広場に向かうと、そこにはもう篝さんの姿があった。彼は、スマホを真剣に見ながら操作している。
彼は、白いシャツに黒いパンツ姿というシンプルな装いで、いつもと少し雰囲気が違って見える。そんな姿に、私はなぜかドキッとしてしまう。
(……最近、ちょっとしたことでドキドキするようになってる……葵くんのせいだ……)
そう、なぜかあれから身近な男性を妙に意識してしまうようになった。
(ま、身近な男性なんて、葵くんと篝さんしかいないんですけどね……)
そもそも、異性の知り合いどころか、友達さえ少ない事を思い出して、ちょっとため息が出てしまう。
……と、そんな事を考えてる場合じゃない。私は慌てて篝さんに駆け寄った。
「篝さん」
私が声をかけると、スマホから顔を上げ、それから優しく笑顔を見せる篝さん。
「おはようございます、ちとせ」
「おはようございます!……今日はよろしくお願いします」
頭を下げる私に、篝さんはふふっと笑って、こちらこそと頭を下げた。
なんだかそれがおかしくて、私もふふっと笑ってしまった。
「あ、そうだ、これ、切符代……受け取って下さい」
私は鞄から封筒を取り出し、篝さんに差し出す。
「そんな、ちとせは気にしなくていいんですよ。むしろ、僕のわがままに付き合ってもらうんですから。だから、これはしまって下さい」
私の手からスッと封筒を抜き取ると、私と体が触れそうなくらいに距離を詰めてくる篝さん。距離の近さに思わず固まる私の鞄に、篝さんは封筒を戻してしまう。
そのまま、篝さんはなぜか私の耳元に顔を寄せてくる。
「そのかわり、僕のお願いをひとつ叶えてくれませんか?」
「お、お願い?」
耳元で囁かれて、私はドキドキしてしまう。近い、近すぎる!
「僕のことを、名字じゃなく、名前で呼んでくれませんか?」
「な、なまえで?」
「ええ、名字のままだと、どうしても距離を感じてしまうので……ダメですか?」
そこまでで、私は距離の近さに耐えられなくなってしまう。すかさず後ずさると、息を整える。
「そ、そんなの、切符代に全然見合わないですよ……?」
「僕にとっては、切符代なんて安いくらいです。……ね?萌黄って、呼んでくれませんか?」
少し悲しげに私を覗き込んでくる篝さん、それはまるでお預けをくらって悲しそうなワンちゃんのようで、私は良心が痛む。
「わ……わかりました。萌黄…………さん」
呼び捨てがどうしてもできず、間を開けてさん付けをしてしまった私に、少し残念そうな篝さん……いや、萌黄さん。
「うーん……もう一声と言いたいところですが、名前で呼んでもらえただけでもよしとしますか」
「……すみません、もう少し、時間を下さい……恥ずかしくて」
「恥ずかしがるちとせも、可愛いですね」
「か、からかわないでください!」
もう!葵くんといい、萌黄さんといい、私をおちょくって何が楽しいの……!?
恥ずかしさと絶望感で、私の感情は収集がつかなくなりそうだった。
「ふふ、すみません。……さ、まだ時間も少しありますし、お弁当でも見に行きましょうか?」
「そ、そうですねっ!行きましょう!」
気を取り直そうとした私は、つい声が大きくなってしまった。
「ふふ、元気でよろしい!」
萌黄さんは楽しそうに言うと、私に向かって右手をそっと差し出してきた。
「さん付けの分、少しお願いが余ってしまったので……ね?」
そう言うと萌黄さんは、返事を待つことなく、私の左手を握ってしまう。
「さ、行きましょう」
「え、え、ええっ……」
振り解くわけにもいかず、私はそのまま、萌黄さんに引かれて歩き出した。
君のためなら じぇいそんむらた @rikatyuntyun
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