歪曲神事⑦

 俺はあの日、人生を失った。

 これまでの人生と、これからの人生。繋がっていると思ってた一本の線が、完全に途絶えてしまった。

 子供のころから人には見えないものが見えていて、だけどいつしか自分でもそのことを信じないようにしてきた。だけど、あの人は信じてくれた。あの人は本気で立ち向かっていた。だから、あの人のためになりたいと、俺は勇気を出した。

 なにかが変わると思ったんだ。結果、決定的に変わってしまった。


 厭な空気のトンネルだった。そこまでわかっていたなら引き返すべきだった。だが、俺は進んだ。途中で行き止まりの壁になっているはずのトンネルを、ずっと進み続けた。不気味だった。その先にあるのは地獄か魔界か、なんて身構えていた。

 すると、いつの間にか同じ出入り口から出ていた。見上げると、見覚えのある「九曲トンネル」の銘板。本当に目の前が見えないほどの暗闇だったから、気づかないうちに引き返してしまっていたのかと思った。リングワンダリングだっけか? 砂漠や雪原で起こるらしい、アレだと思った。

 失望されると思ったよ。意気揚々と挑んで、情けなく戻ってきた形だからな。

 しかし妙なことに、入り口の前で待ってくれてるはずの二人がいなかった。通信はつながっていたが、どうにも様子がおかしい。ずいぶん長いことトンネルを彷徨ってたから、車にでも戻ったのかと思った。俺はトボトボと茂みを抜けて、路肩に停まっている車へと向かった。


 そのときの二人の表情は、今でも忘れられない。

 目を丸くして驚き、冷たい目で俺を見た。今まで見たこともないような敵意を感じた。あの人も、怯えていた。今思えば、まったく見ず知らずの人間が急に山から現れて、まるで旧知のように話しかけてきたら、ああいう態度になるだろう。

 俺は二人がふざけてるのかと思って、改めて名乗った。ヘラヘラ笑いながら話しかけた。すると、二人の様子が急変した。大きな叫び声を上げ、錯乱し、暴れた。しきりに俺に対し「誰だ」「誰なんだ」「誰誰誰」と、まるでおそろしい怪物でも目にしたように、金切り声で俺を拒絶した。

 そんな変わり果てた二人の姿を見て、俺は逃げるように夜の山道を駆けた。そして、理解した。理解してしまった。


 俺はこの世界から消えてしまったのだと。

 消えてしまったはずの俺が姿を見せるということは、耐えがたい恐怖なのだと。

 まあ、そうはいっても、そんな物分かりよく納得できるはずもない。一晩ずっと考え続けて、やはりなにかの間違いだったんじゃないかと思った。

 次の日に、また二人に会うために大学の部室を訪ねたよ。二人は当たり前に過ごしているように見えた。しばらくは遠巻きに様子を見ていた。窓からチラチラ覗いてた。二人はなにか映像記録を確認しているようだった。

 そのとき、多分、俺の姿が映ったんだと思う。

 同じことが起こった。見てはならないものを見てしまったかのように、二人は壊れてしまった。俺は慌てて部室に入って、追い打ちをかけるよう彼らに話しかけた。二人は泡を噴いて痙攣した。

 こうなれば、俺も現実を受け入れざるを得なかった。

 いや、まだだったな。俺はまだ、自分の立場を理解したくなかった。

 次に俺は実家に電話を入れた。間違い電話ではないかと返された。電話口に、母親の悲鳴が聞こえた。またしても取り返しのつかないことをしてしまったと思った。


 どうすればいいのか、わからなかった。

 二度も俺の存在を見てしまった二人の状態は、かなりひどいものだった。部室もさんざんなありさまになった。俺の姿を目にするたびに暴れ出すので、できるだけ顔を隠して部室を片付けた。

 病院に連れていくべきだったんだろうが、俺を見ただけで、俺が電話しただけでなにかが起こった。怖くてなにもできなかった。「俺のことをもともと知っている」ことが条件だと気づくのはもう少し後だ。

 しばらく放置してれば治るのか、それもわからない。だとしても、部室には俺の映像が残っている。彼らは俺の存在を思い出すたびに壊れていく。

 しばらく観察を続けた。二人の精神状態は不安定のまま、かつてのような知性の煌めきは見えない。ただ茫然と天井を眺めているだけの時間が多かった。もうダメなんだろうと思った。


 もう一度トンネルを潜れば元に戻るんじゃないか? 元の世界に帰れるんじゃないか?

 そんな望みを抱いてトンネルを何度も訪ねた。新月の夜でなければ、トンネルは行き止まりだった。そのうちに、こう考えるようになった。

 もう一度トンネルを潜ることができたとして、また同じことが起こるだけなんじゃないか?

 だが、それなら。

 あのトンネルは、潜ったものを世界から消してしまう。そういうものであるなら。

「突如現れ、気安く話しかけてきた見ず知らずの男」を消してしまおう。

 そこにあるだけで恐慌をもたらす異物を。

 トンネルを潜ってたものは、知人と再会してはならなかったんだ。

 やり直さなければならない。

 新月の夜にだけチャンスがある。気づいたころには、あと二週間。やるなら徹底的にやらなきゃならない。俺が実際に姿を見せなくても、俺のことを思い出すなんらかのきっかけがあるだけで同じことが起こってしまうかもしれない。

 そう考えた俺は、この世に残る俺の痕跡を可能なかぎりすべて消すことにした。

 研究会からは俺が映っている映像記録をすべて消去し、実家に戻っては俺の私物やアルバムの写真もすべて処分した。住んでる家も引き払った。バイト先はどうするか悩んだが、一か月もサボって知らない名前があったら勝手にクビになるんじゃないかと思った。戸籍なんかはどうにもならなかったが……。


 新月の夜まで、針の筵のように苦しかった。

 だけど、ぜんぶ俺のやったことだ。

 俺は俺の責任をとるため、九曲トンネルをもう一度潜った。


 ***


「結果として、上手くいった。はずだ。一人は教授として、一人は社長として、社会的にも成功している。そうだろ?」


 ベッドの上で胡座をかきながら、桶狭間は影を落としてそう語った。


「映像は不完全ながら残っていたようです。そして、教授は以前に『顔も名前もわからないもう一人の仲間がいた』とも話しています」

「……そうか。どちらにせよ、完全に消えたわけじゃなかったのか。でもまあ、無事だよな? あれから十七年も経ってる。顔も結構弄ってる。名前も捨てた。もしバッタリ出会っても、俺が俺だとバレないようにしてきたつもりだ」

「そうですね。私は気づきましたが」

「……不安だ。お前みたいなのが気づいてしまってるわけだろ……」

「どういう意味でしょう?」


 桶狭間は答えず、横目でアリサをただ睨みつけた。


「はあ……。ぜんぶ話した。ぜんぶ話しちまったよ。これで満足か? ……なわけねえよな」

「はい。その話によれば、九曲トンネルには再現性があるのですね?」


 重要な点はそこだ。「怪異は再現性を避ける傾向がある」――だが、。その解明をアリサは求めている。物事には法則性があるはずだという理念を、アリサは持っている。


「そうだな。再現性はあった。だからといって、なんだというんだ? この結果を誰に伝えることができる?」

「なるほど。九曲トンネルの効用は、そのために客観的な観測ができない」

「白日のもとに引き摺り出すこと。それがきっと、おばけ退治の方法だ。それができない。九曲トンネルはまだ生きてる。もっとも、そうでなけりゃ困るがな」

「このたびの各種異変を終息させるために、九曲トンネルをもう一度利用するつもりなのですね」


 桶狭間は項垂れたまま答えない。その沈黙は肯定のニュアンスに近い。


「興味深い話です。九曲トンネルをが潜ったなら、いったいなにが起きるのか」

「お前のオリジナルが残ってるってことは、お前の痕跡がそのままドデカく残ってるってことじゃねえのか。危うすぎる」

「双子のうち一人がトンネルを潜った場合、残されたもう一人はその『痕跡』となるのですか?」

「……双子でなかったことになる。そう考えるのが自然かもな。俺だって兄弟はいたが……多分、無事のはずだ。元気にやってる、はずだ」

「確認しましょうか? 桶狭間さんの身元や本名を教えていただければ可能ですが」

「やめろ。それだけは教えられん」


 と、力尽きたように桶狭間は枕に向けて倒れ込んだ。


「ま、白川有栖は終わりか。ここまで話しちまった。本名さえ思い出さなければ無事に済む……かもしれんが、どうだかな。さっきの話を白川に聞かせてみろ。きっと俺の体験ができるぞ」

「しません」

「あ?」

「怪異の再現性は不確かなものです。桶狭間さんはもう一度九曲トンネルを潜るから元通りになる、と考えているかもしれませんが、確証はありません」

「ふーん。いくらあんたでも開発者おやがぶっ壊れるのは見たくねえってか?」

「私にも人の心がありますので」

「……マジで言ってる?」

「アンドロイドジョークです」


 白川教授はアリサに対する命令権を自ら解除した。しかしもとより、アリサは「白川有栖を守れ」と命令されたことはない。ゆえには、アリサ自らによる「意思」だった。


「桶狭間さんもすべての痕跡を消せているわけではないはずです。戸籍、バイト先での履歴書、あるいは卒業アルバムなどもあったでしょう」

「そうだな。人知れず誰か犠牲になっていたのかもな」

「いいえ。桶狭間さんの恐れる事態は、本人が接触し、顔と名前が一致するまで正確に思い出さないかぎり発生しないのではないでしょうか。あなたの話や白川教授と網谷広嗣の現状からそのように推測できます」

「……俺としても、そう思いたいとこだがよ」

「私――は製造されて三か月も経っていません。影響はかなり少ないはずです」

「なんだ、お前が代わりに行くつもりか」

「桶狭間さんは十七年前に一度人生を失った。そうはいっても、この十七年で新たな人生を得たのではないですか?」

「それ、俺を気遣ってくれてるのか?」

「はい。私は善良なアンドロイドですので、いつも人間の幸せを願っています」

「本心は?」

「桶狭間さんが九曲トンネルの影響を受けるのか、という点が気になっています」

「……俺がお前を忘れてたら、絶対に自己紹介すんなよ」


 アリサは答えない。「こいつマジでやるつもりじゃないだろうな」と桶狭間は睨みつけた。


「……なあ。この際だから聞いておくんだが。怪異検出AIとやらで俺を見たとき、数値はどう出てる?」

「27%です。以前は22%でした」

「……やっぱり、その数値は高いのか?」

「人間にしては高い数値です。また、白川教授は怪異と接触する機会の多い人間ほど数値が高まる傾向があるのではないかと仮説を立てています」

「なるほどな。そんなことだろうと思った」

「なにか心当たりがあるのですか?」


 桶狭間はごろりと寝返りを打ち、アリサに背を向けた。


「俺だけ話すのもなんだ。お前もなにか話せ。中学校に潜入してるとか言ってたな?」

「はい。知見を共有しましょう」

「……いや、やっぱいい。今日はもう疲れた。どうせまだ時間はある。次の新月まであと十一日か? 今日はもう寝る。おやすみ」

「おやすみなさいませ」

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