遺却隧道③
首が痛い。
いや、全身が軋んでいた。
肩が、足が、背中が、肺も心臓も、頭も痛い。
顎には涎が垂れていて、目は霞んでいた。耳鳴りもひどい。手先が震え、立ち上がれない。身体中の関節が錆びているかのようだった。
胃液が逆流する。吐き気を堪えきれず、液状のなにかが口から溢れた。何度も噦いて、呼吸を整える。
ぼんやりとした視界で、周囲を確認する。
暗い。寒い。ソファで横になっていたらしい。今は床に落ちて転がっている。
「先輩……?」
足が見える。よく知る人の足だ。隣に座っていたらしい。
だが、動かない。ただピクピクと痙攣している。顔を見上げるほどに首が回らない。眼球運動すら億劫に感じられた。あるいは、同じ状況なのだろうかと想像した。
(どういう、状況だ……?)
二十数年生きてきた。似たような状況はあっただろうか。痛む頭で思い起こす。
寝起きで風邪をひいていた。筋肉痛が翌日に来た。二日酔い。近いようで違う。それどころではない。そもそも、この状況に至った記憶がない。
全身麻酔。ふとそんな連想が頭をよぎる。彼自身に経験はないが、あるいは近いのかもしれない。寝返りの一切できない状態で数時間、どうあっても床ずれは避けられないと聞く。これが床ずれというものなのか、と彼は理解した。
(なんで、そんな……ここ、部室だよな?)
少しずつ、身体が動くようになってきた。腕を伸ばし、ローテーブルに手をかける。自分の身体でないかのように力が入らない。それでも、強引に身を起こした。
白川もまた、虚ろな目で涎を垂れ流し、痙攣していた。瞼が重い。
彼は再びソファに戻り、できるだけ楽な姿勢を探した。そして深く息を吸う。先ほどの吐物が気管に侵入し、大きく咳き込んだ。慌てて机の上にあったペットボトルを口に含み、水を飲んだ。
「ゴホッ、ゲホッ、ゲホゲホッ! くそ、なんだ、なんだっていったい」
掠れた声が喉から出てきた。果たしてどれだけの期間、話していなかったのか。
「先輩? 大丈夫ですか。先輩?」
隣の白川に声をかける。彼女はゆっくりと目線を動かし、こちらを見た。意識はある。だが、状況は芳しくない。生気を失った、まるでゾンビのようだった。
「あー……、網谷?」
話したと思うと、彼女も胃液を吐き出し、苦しそうに咳き込んだ。
「先輩、水です。水をどうぞ」
やつれていた。頬は痩せ、唇は荒れ、目の下には大きな隈。瞳は光を映さないほどに濁っている。髪もいつも以上にボサボサだ。きっと自分も同じような顔をしているのだろうと、網谷は思った。
白川はあたりをキョロキョロと見回し、網谷と同じく状況の理解に努めていた。
「こんなところで、寝るもんじゃないな……身体が……」
白川の声も、聞き取ることが困難なくらいに掠れている。
寝ていた。二人して。いつから?
腕時計を確認する。時刻は夜だ。二十二時を示している。こんな夜までなにをしていたのか。浮かれて浴びるほど酒でも飲んだのか。思い出せない。彼もいくらか酒は嗜むが、記憶を失うほど飲んだことはない。それに、テーブルの上を見ても床を見ても酒瓶や缶の類は見えない。
「まともに動けん……網谷、助けてくれ」
「俺もですよ……喉もガラガラで……」
「なあ、なにか臭くないか?」
「二人して吐いたからでしょうよ」
「いや、違う。体臭がやばい。それに、この部屋も」
「……そうみたいです。なんとか、しないと……」
首を回し、肩を上げ下げする軽い運動から始める。手を握り、開く。立ち上がろうとするが、まだ無理だとわかる。少しずつ身体をほぐすストレッチを重ねながら、ひとまず立てるようになるには小一時間が経過していた。
彼は部屋の照明をつけて、事態のさらなる把握に努めた。
「たしかに、ひどいありさまですね……」
キャビネットのガラス戸が割れている。オイルが零れた跡もあった。壁際の隅には乾いた嘔吐物らしき欠片。PCも一台壊れていた。誰かが暴れ、荒らし回ったあとのように見えたが、それでも違和感があった。そのうえで、片付けようとした痕跡があるからだ。現に、ガラスの破片はどこにも散らばっていない。
「あー……、モニターは割れてるが、動くぞ。なにがあった? ……あれ?」
のそのそと起き上がった白川はPCモニターの前にに座っていた。
「おい。網谷。どうやら今は十一月らしい。十一月十五日だ」
「は?」
思わず間抜けな声が出たが、しかし。
十一月であることになんの不満があるのか、自分でもわからなかった。
「……網谷、確認したい。記憶の欠落がある。そんな気がする。お前はどうだ?」
未だ掠れたままであったが、その声にはたしかに芯が通っているように感じられた。網谷もまた、痛む頭に無理をさせて考えた。
「はい。ですが、俺の感覚は少し違って。正確には……なにをしていたのか思い出せない、というか」
「それを記憶の欠落というんじゃないのか?」
「いえ、やはり少し違います。休日を無駄に過ごしてしまった後悔、それに近いものです」
「ふうむ」
話しながらも、白川はPCを操作し続けている。なにか手掛かりを探しているらしい。目覚めて動き出すまでは遅かったが、目覚めて動き出してからは彼女の方が精力的に見えた。
(やっぱりすごい人だな……)と網谷は感心した。
「やはり十月の映像記録がない……。しかし九月……おい、網谷。九月は活動してたよな?」
「あ、はい。そのはずです」
「いや、違うな。十月の……新月の日。この日も九曲トンネルの調査をしたはずだ。九月はお前が行って逃げ帰った。このときの映像は残ってる」
「そうですね。そうだったはずです」
白川はあいかわらず首を捻っている。
「なぜだ。おかしい。十月の映像がない。正確には、九月二十三日以降から今日までの映像がまったく……いや、十月の後半からはそもそもなにも……」
「寝ぼけて削除したんじゃないですか?」
「ない。それはない。私は映像記録を絶対に削除しない。『不要な映像』などという予断を一切信用していない」
「といっても、俺たちずっと寝ぼけてたっぽいですよ? 復元できませんか?」
HDDに「データを削除する」という機能はない。「削除した」ということにしてOSからアクセス不能にし、上書きできる状態にすることで「削除」という機能を再現している。
ゆえに、そのデータがまだ上書きされていない状態であるなら原理的に復元は可能である。
「……かなり破損しているな。データはあった。削除されていた。なにがあった……?」
「見られるんですか?」
「ノイズ塗れにはなるだろうが、無理矢理再生してみよう」
***
「■■ですか? は■。耳にかけ■■いいんです■ね」
【22:04】男が視線カメラを手渡され、装着する。以下、主観映像。
「……緊張し■■ね。やば■■配、ビンビ■■感じて■す」
【22:04】夜、九曲トンネル前。白川有栖と網谷広嗣が映っている。
「大丈■か? 無理をす■■要はない」
「……先輩、■■■には妙■優し■ですよね」
【22:06】ノイズが激しく不鮮明な映像。空を見上げたり、周囲の山林を眺め、やがてトンネルへ向かう視界に落ち着く。
「では、行■■す。ここでグダ■■■てても仕方な■■で」
「そうか。私らはここ■■ておく。危■を感じ■■■ぐ逃げていい」
「……俺も言■れ■■ったですね、そ■台詞」
【22:07】白川有栖はタブレットPCを掲げている。撮影者は頷く動作を見せ、トンネルに向かって歩き出す。
【22:08】撮影者の深呼吸。トンネルまで足を踏み入れる。
「■■。ホン■■なん■見えない■すね」
『本来なら、だいたい■■mで行き止ま■■。ふつ■■歩けば一分■■■■だ。だがこの■■だからな。慎■■歩け』
【22:09】映像は黒一色であり、どれだけ補正をかけてもなにも見えない。足音から撮影者が歩いていることがわかる。また、白川有栖からの通信音声も映像に含まれている。
「■■■、あるみた■■す。やっぱり……でも、わかり■■ん。■■なのか」
『気をつ■■よ。これだ■■いとふつうに転ぶ危■■■る』
【22:10】
『なんで■■いから、適当に思っ■ことを話しなが■■でくれ。そういうのが■■になることも■■』
「……はい。わかり■■た。ぶっちゃけ結構■■ですが、俺も向き合■■す。ずっと逃げて、目を背けてきまし■■ら。■が見えて■■のがなん■■か、ハッキリ■■ます。あ、今は■■■■見えないんですけど」
【22:11】
「大丈夫。■■わけじゃない。別に■■■がいるわけじゃ……■■■うのは、いない■■……」
【22:12】
「あ、……な■だろう。■■さん? 聞こえて■■? 有■さん? なんか妙に■■というか、肌を薄布で撫でら■■ような……■■せいかな……。いや、多分気のせい■■ないです。■■■あります。やっぱり■■は。でも、いえ、だから■■■■」
【22:14】無言のまま、足音だけが聞こえる。
【22:20】なにも映らない足音と息遣いだけの映像。
「これ、どこまで■■■……■栖さん? おかしいな。■■たのかな……まあ■録はできて■■だと思い■■■で一応。なんか、■■感じです。あいかわ■■■くてなにも■■■せん。いやこれ話す意■■いな……」
【22:22】
「あ■? ■れ? ■■? ■■?」
【22:23】映像が途切れる。
【22:30】映像が再開。
「■あ■■■! うあ■■■あ! ■■■■■■!」
【22:31】ノイズだらけの叫び声。映像も不鮮明で、誰のものであるか判別不能。
「■です! 関■■で■よ! なん■そん■■えて……■■すよ!」
「■ぃっ! ひゃ、だ、■だ! あ■っ! ■、■れぇ……? や■だ、■■ぁ」
「■■■っ! ぎ■っ! ■■はは! ■■れだ■……誰! ひぃ■■■ふ」
【22:34】車に乗っている男女が錯乱している。揉み合いになったようで、撮影者は彼らに押し出される。
「■■! ■■! そ■■■! そうい■■■か! こん■■■■ら……ちくし■■! やっ■■■た、■■■■った、やっち■■■……」
【22:35】撮影者は車に背を向け、道路を走っている。視線カメラを取り外し、地面に叩きつけて破壊。映像は終了している。
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