対怪異アンドロイド開発研究室⑫

「記憶というのは、操作できる」


 白川教授は語る。


「マウス実験の話だがな。たとえば、マウスに電気ショックで恐怖体験を与える。その恐怖体験時に活動した脳細胞群を選択的に死滅させることで、その記憶の消滅が確認できた。あるいは、逆に神経細胞を活性化させることで存在しない記憶を思い出させることもできる。無関係な記憶を結びつけて新しい記憶を生じさせる実験にも成功しているな。

 人間の場合でも、脳神経外科医のペンフィールドは患者の意識を保った状態で話を聞きながら開頭手術を行っていた。その際、側頭葉に電気刺激を与えることで患者が脈絡なく古い記憶を思い出すことがあったという」


 そこまで話すと、教授は深いため息をついた。


「だから、記憶を消したり植えつけたりなんてことも、原理的には可能だ。とはいえ、あくまでマウス実験の話だ。人間での臨床例はない。原理的に可能とはいっても、現実的に考えれば非侵襲的にそのようなことは不可能だろう。実際の体験と神経細胞の発火の関係を示すマッピングデータも個人ごとに必要になる。開頭手術か、少なくとも頭骨に穴を開けて電極を刺し込むくらいのことは必要だろう。髪は当然すべて剃り落とすし、手術痕は必ず残る」


 教授は自らの頭を指先で叩く。「もちろん、そんな痕跡はまったくなかった」と。


「全身麻酔という連想から、と私たちは考えた。そんな非人道的な手術によって一か月ほどの記憶が消されてしまったのではないか、と。誰がなんのために、という疑問はあるが、その記憶が消えているわけだからな」


 そして、自嘲的に笑いはじめる。


「そんなことを本気で疑うほどの異常事態だったんだ。人間の記憶なんてもともと当てにならないと、重々承知していたはずだったんだがな。

 交通事故、一度でも体験したことあるか? そのあと警察に事情聴取を受けてみろ。根掘り葉掘りとそのときの状況を聞かれるが、驚くほどなにも覚えていないことに気づくはずだ。何年か前の話だが、私は道を歩いていて駐車場から出てきた車との接触事故を起こした。そのとき私は、自分が転んだかどうかすら自信が持てなかった。

 あるいは、警察の誘導尋問でやってもいないことを自白してしまう被疑者なんてのもいるだろ。逃れたくて仕方なく……というより、本人ですら本当にそう信じてしまうことがある。人間の記憶や認識は曖昧でいい加減なものだ」


 彼女の横顔は虚ろにくうを見ている。


「だから、人間一人の記憶がまるごとなくなるなんてことも、あり得ない話じゃない。バッタリ出会った誰かから挨拶されて、あれ、以前にも会ったことあったかな? なんて経験、誰でもあるだろ。

 くくっ、ひひ……。そんな、そんなふうに思い込もうとして、なんでもない、ありふれたことだと考えようと、必死だった時期もあったんだよ。あるはずないのにな。二人しての記憶が完全に失われている、そんなことが」


 ――と、白川教授は九曲トンネルと十七年前の出来事を研究室で語って聞かせた。


「つまり……、新月の夜に九曲トンネルに入って、奥まで進んでしまうと、その人は、ってことすか?」


 新島は端的に要約した。そのような発想が出てくるのも、研究室の調査ですでに似たような事例に遭遇しているからである。


「そうだな。そういった仮説に至ったこともあったが、どうやってそれを調べる? 仮に網谷が最奥まで進めば、私は網谷の存在を忘れる。お前たちの記憶からも消える。アミヤ・ロボティクスという名前の由来もわからなくなるかもな。そして、『みなさんが網谷という男を知らないのは、彼が九曲トンネルを潜ったからです』――ってか? いや、私も忘れてるわけだから、そう問いかけることもできないか」

「もしその人が消えてしまったのなら、そのご家族なんかはどうしてるんすかね?」


 続けて、新島はもっともな疑問を述べる。


「もちろん、その線でも調べた。調べようとした、というべきか。そいつの記憶はなくなるが、アルバムなんかに写真は残ってる可能性がある。つまり、身に覚えのない人物の写真がなぜかアルバムにあるんだ。そんな奇妙な事件がどこかで起こっていないか。そう思った。……空振りだったがね。もしかしたらあったのかもしれんが、見つからなかったよ」

「では、映像はなぜ消えていたのでしょう?」


 指摘するのは青木だ。


「わからんが、消し方はだいぶ杜撰だった。『ゴミ箱から完全に消去』で本当にデータが消えてなくなると思っている人間の消し方だ。本当にデータを完全消去したければHDDごと初期化してしまうか、破壊してしまうのがいいわけだが……」

「逆に、その映像が捏造されたものだという可能性は?」

「……否定はできない。それも、もちろん考えた。だが……」


 そこまで話すと、教授は眉を顰めて頭を抱えた。


「……ダメだな。あのときのことを考えようとすると、妙な頭痛がある。呪いのようなものなのかもな。そのときの映像はAI補正である程度観れるものにはなってる。あとはお前たちの方で勝手に考えておいてくれ」

「は、はあ」


 となれば、話は一旦終わらざる得ない。


「やはり、専門家の知見が欲しい。霊能者の協力が欲しいな。我々の調査手法はなにか根本から誤っている可能性がある。青木、あいつの捜索状況はどうなってる?」

「あいつ、というと――桶狭間信長ですか?」


 かつて、アリサは怪異調査の過程で霊能者を名乗る男と出会っている。白川有紗についても知っているらしく、「月見村の一件」でも関わってきたが、偽名と顔しかわかっていないため身元がまったく特定できていないのが現状である。

 彼の言動は、現在でも謎が多い。


「一つ、手がかりはあります。月見村に旅館がありましたよね。桶狭間はあの旅館を『砦』と称し、経営側に関わっているようでした。なので、あの旅館の経営や出資関係を辿ればなにか掴めるのではないかと」

「ほう。まるで探偵だな」

「それで、候補はいくつかありますが……こちら、進めます? 正直アリサの監視で手一杯なんですけど」

「まあ、必要にはなるはずだ。やはり人手が足りんな……ん? そういや、あれは今なにしてる?」


 アリサもまた研究室にいた。ノートを広げ、ペンを手に持ってなにか作業をしているらしかった。


「宿題です」

「宿題ぃ?」


 アリサはいま中学生として学校に潜入している。日々授業を受けて、素行もよい優等生。であれば、当然の光景である。


「要らん手続きを何段階か踏んでる気がするな。PDFの書類を印刷してファックスで送りそれをスキャンしてデータ化するみたいな」

「その滑稽さには僕も同意します」


 日本中の学生を苦しめるそれを、アリサはなんの苦もなく数分で終わらせていた。AIで宿題を終わらせる生徒の問題は新聞で取り上げられたこともある。


「中学生か。私が怪異検出AIなんてものの開発に着手しはじめたのも、ちょうどそのころだったな」


 教授は思い出に浸る。結果、彼女はに出会ったのだという。同じく中学生が「異常存在リサーチ部」として活動していることにも、なにか思うことがありそうだ。


「え? 中学生? 中学生のころにもうAI開発してたんすか教授」

「話さなかったか? 話していた気がするが……人間の記憶は本当に曖昧だな。といっても、完成そのものは二十年前。高校生だよ」

「はえ~……」


 教授の過去は、いろいろありすぎる。


「アリサ」教授は珍しく、彼女を名前で呼びかけた。「……九曲トンネルについて、私は話さずに黙っていることもできた。だが、話した。その意味を理解してほしい」

「具体的にお願いします」


 アリサは宿題のためのノートや教科書を片付けながら応えた。


「お前を信じると決めたからだ」


 とはいえ――と、言葉を続ける。


「これまでもそうだが、調査のあと怪異は消滅する傾向にある。一方、九曲トンネルはまだ怪異を検出できる状態だ。それだけは調べた。それだけは。……もし、九曲トンネルが考えているとおりの性質を持っているとしたら、それを証明するのは極めて難しい。調査を行うにしても、闇雲に突っ込めばいいというものじゃない。慎重に行う必要がある」

「はい。おおよそ同意します」

「おおよそ?」

「私が九曲トンネルを潜ったとき、なにが起きるか。非常に興味があります」

「くはは! そうだろうな、たしかにな。私にもまるで予測がつかん。それでも、それだから、怖い。なにがあったのか、まるでわからん。トンネルに入ったわけではない私にも被害が出たんだ。きっと、潜ったものを知る人すべてに影響が及ぶ。脳外科手術でもなければ再現できないような異常が、人々に降りかかる。

 はは、ぐははは! ひひっ! ダメだな。怖い。確信が欲しい。あれがなんだったのか知りたい。ずっと蓋をしてたのに網谷に無理やり外された。怖い。下手をすれば大惨事になりかねない。わかっている。それでも。知りたい。知りたい。知りたい」


 七不思議は、あと――


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