遺却隧道

 現代生活において、「本当の闇」を知る機会は少ない。


(いや、そうでもないか?)


 などと、即座に彼の中で反論が頭をもたげた。しかし、彼自身がそうであったと気づいたのは確かだ。真夜中に外出したとしてもどこかしこで街灯は灯っているし、自室で照明を消してカーテンを閉めても外から明かりが入ってくる。真っ暗だと思っても、目が慣れれば意外と見えるものだ。

 だが、その気配がまるでない。

 暗順応が完了するには三十分から一時間ほどかかるといわれる。さすがにそこまでの長時間この闇にいるわけではないが、十分も経てばそれなりに見えるようになるのが普通だ。なんだったら、一分でもある程度は見える。

 デジタル腕時計を発光させて確かめる。この冷たい闇に入って五分。思ったより時間は経っていなかったが、それでも。


 なにも見えない。

 正面にライトを翳す。なにも照らせない。光を反射する壁がないのである。

 ただ、彼自身の発する音だけが際限なく反響し続ける。コンクリートを踏む音。頼りない呼吸音。彼はずっと、小さくとも一歩ずつ前へ進んでいたが、やがて足は震えるばかりとなった。

 季節外れの異様な寒気。空気が冷たく澱んでいる。という理性の訴えは無力にも躪られる。なぜなら、本来ははずだからだ。昼間のうちにそれは何度も確認している。

 手を伸ばす。なにも触れない。

 行き止まりがあるはずだ。ここまで歩けば、体感ではもう確実にぶつかっている。だが、その体感というのが信用ならない。

 それこそ、鼻を摘まれても気づかないほどの闇だ。距離感がない。竦んだ足の歩幅など当てにならない。背後を振り向く。あるはずの出入り口すら見えない。しかしそれでも、、目の前には壁があるはずである。


 息を整える。なにかを踏みつけた。足元をライトで照らして、ようやく見える。ただの石ころだ。念のため、もう少しだけ周囲を照らす。わずかに湿る、路面の荒れたコンクリートだ。

 しかし、ほんの少しだけ遠くを照らそうとすると、光は闇に呑まれるように消える。そんなに高くなかったはずの天井も見えない。

 この先になにがあるというのか。さまざまな想像が頭をよぎる。

 おばけがいるのか? 怪物がいるのか?

 武器の一つでも持参してくればよかった、と思う。そんなものが役に立つのか?

 まさか熊が出てくることはないだろう。

 またしても、足が止まっていることに気づいた。


 なにも見えない。

 彼は額に上げていたゴーグルを下ろす。カメラで撮影した映像をHMDに映す装置だ。頼るべきは文明の利器。そのはずだった。可視光増幅の微光暗視でも、赤外線暗視でもなにも見えない。これほどの完全な闇が、本当にありうるのか。機材の故障を疑うほどの「異常」のただなかにいる。


 だが、それでも捉えられているものがあった。

 が、なにかの輪郭を捉える。

 目の前に掲げた手すら見えない闇の中、なにかを捉えている。

 朧げな形が、たしかにそこにあると示している。

 数値は、80%――いや、上昇している。81%、82%、みるみる上昇する。

 ゴーグルを上げる。なにも見えない。肉眼ではどのような姿も捉えられない。

 ゴーグルを下げる。86%。数値は上昇している。


 ライトで照らす。なにも見えない。足元を照らす。なにも見えない。

 闇に纏われているような得体の知れない違和感。

 ライトは確かに点灯している。その光はどこにも届かない。手をすぐ前に翳したときだけ、かろうじて明かりの存在を確認できる。

 足元が覚束ない。本当に今、立っているのか。信じられる寄る辺が失われていく。右手で左手首を掴む。身体はここにある。息をしている。心臓が鳴っている。まだ生きている。


 怪異検出AIによる数値は、すでに90%。闇の中、あちこちで反応している。

 他にも増えている数字がある。心拍数だ。彼はさまざまな計測機器を身につけてこの場に挑んでいる。HUDにはそれらを反映した数値がごちゃごちゃと表示されていた。

 彼はそこで、左上の端に示されている数値に気づいた。加速度センサーによる計測値である。その数字を信じるなら、ここに足を踏み入れて100mは歩いている。昼間に調べたときは、96mで行き止まりの壁があったはずだ。

 


 彼は思わず、踵を返して駆け出していた。


 ***


「無理! 無理です! やっぱ無理!」


 トンネルから飛び出してきた彼は、藪を掻きわけガードレールを飛び越え、路肩に駐車し待機していたセダンへと駆け込んだ。


「え? あれ、先輩……モニターしてくれてたんじゃなかったんですか?」


 そこにいたのは、後部座席でタブレットPCを伏せてスティックパンを頬張っている白川の姿だった。ペットボトルでお茶も飲んでいる。


「……もぐもぐ。ん。誰だ?」

「冗談言ってないで! 俺ですよ! てかなんで車に戻ってるんです!」

「……もぐもぐ。ああ、網谷か。ずいぶん遅かったな。どうした?」

「どうしたって。そこで映像見れますよね」

「……ごくん。まあ待て。もちろん録画してある」


 彼女は思い出したようにタブレットを手に取り、シークバーを操作した。


「真っ暗でなにも見えないが……」

「最後の方見てください。最後の方」


 シークバーをずずいっと指先で七分ほどスワイプさせるが、画面はほとんど真っ暗なまま、ときおり足元に視点が移るくらいだった。


「そこです、そこ」


 怪異検出AIが高い数値で、闇の中で物体オブジェクトの存在を示す。人間の目にはなにも見えないが、なにかがそこにあるらしい。


「4mですよ!? 4mも、うっかり向こう側に足を踏み入れちゃいましたよ俺!?」

「よく無事だった。嬉しいよ」

「あーはい、ありがとうございます!」

「しかし、あれだけ啖呵を切って逃げ帰ってくるとは情けない……」

「労うのか貶すのかどっちかにしてくれません?」

「情けない……」

「そっちに振れないでください」


 新月の夜。周囲には道路灯も疎らだ。深夜には車通りもほぼない山道の脇に、ガードレールで塞がれている旧道がある。アスファルトで舗装されてもおらず、雑草が伸びっぱなしになっている。九曲トンネルはその先にあった。

 奇妙なトンネルだった。「九曲トンネル」という銘板だけがあった。

 網谷と共にドライブをしながら助手席から怪異検出AI越しに外を眺める、という無計画な行為を繰り返した結果、見つかったものだ。行き当たりばったりそのものであったが、これは存外にも上手くいった。というより、「怪異」はどこにでもあった。


「ドローンに行かせましょ! やっぱこういうのはドローンですよ!」

「ドローンじゃダメだったろ。なぜかはわからんが……」


 彼らはこの九曲トンネルを継続的に観察していた。

 発見した当初はやや高めの数値を示すだけの、ただ行き止まりのトンネルだった。奇妙ではあったが、どれだけ調べてもおばけが出てくる様子もない。それから、役所に問い合わせるなり文献を調べるなり衛星写真を眺めるなど二人それぞれで情報を集めたが、なにも明らかにはならなかった。「トンネル」という名称から昭和三十年代以降のものではないかと推測できるだけである。

 再びトンネルを訪れると、数値が変動していることに気づいた。

 日によって、あるいは時間によって数値が異なる。

 それから、彼らはたびたび九曲トンネルを訪れた。固定カメラを設置し、数値の変化を記録した。

 そしてついに、新月の夜にその数値が最大になることを突き止めた。


「じゃ、次は先輩行ってください。俺モニターしてるんで」

「え、やだよ。怖いだろ」

「俺はどうなってもよかったんですか……?」

「お前、自分なら行けるって意気込んでただろ……。おばけなんているわけないって」


 足元はおろか、自らの手先ですら見えなくなるほどの完全な闇。自分が溶けていくような感覚があった、と網谷は語った。あの異様な感覚は、とても耐えられるものではなかった、と。


「ふうむ。やはり人間は計測装置として優秀だな」

「わーい先輩に褒められたー、って喜べばいいですか?」


 新月の夜には行き止まりのはずのトンネルが、どこかに繋がっている。どこへ繋がっているのか、彼らはまだ知らない。


「……すみません。大口叩いてましたが、やっぱ無理です。無理ですが……先輩の言ってたことがマジだっていう実感は得ました。怪異――そう呼べばいいんですかね。人間には計り知れないなにかというのは、確かにある。怪異検出AIも、本物だと認めます。正直、ゴーストボックスやらEVPレコーダーと似たようなものかと疑ってましたが」

「そうか……」


 白川は肩を落として、ボソリと言った。


「実は、考えていることがある」


 網谷の反応を待つように、彼女はゆっくりと話す。


「……なんです?」

「お前も無理なら、私も無理だ。つまり、そもそも人間には無理なのかも知れない。人間には恐怖があるからだ。だが、恐怖をはじめから持たないものならどうだ?」

「恐怖をはじめから持たないもの?」


 なにを言っているのかわからず、網谷は間抜けな鸚鵡返しをしていた。


「アンドロイドだよ。人間と見分けがつかないほど精巧で、人間のように自律して思考し、人間以上の感覚と認知能力を持つ、怪異調査のためのアンドロイドだ」

「……へっ」


 網谷は思わず、吹き出すように笑った。


「それ、本気で言ってます?」

「……考えてるだけだ。だが、考えてもみろ。お前はおばけの存在なぞ信じちゃいなかった。科学でまともに取り扱うようなテーマだとは考えていなかったはずだ。だが、現に。なにもつい最近現れたわけじゃないはずだ。伝承や伝説はいくらもあるわけだからな。ずっとそばにあったはずなのに、客観的には存在を認められていない。つまりどういうことだ?」

「どうって……」

「何千年も人類が踏み込むことのできなかった領域だ。まともな手段では研究できない。まったく新しい研究手法が必要なんだよ」

「それで、アンドロイドですか?」

「お前もアンドロイド開発には興味あるだろ?」

「まあ、人型二足歩行ロボの工作くらいは昔からしてましたけど」

「私も、AIといっても深層学習やらLLMやらそこ止まりだ。今はまだな。その先に自律汎用AIの手掛かりは正直見えん」

「……やっぱり、本気で言ってます?」

「考えてるだけだ。今はまだ、な」

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