燦々惨願③

 午前二時五十分。

 深夜の学校に四人の生徒が侵入している。

 500ルーメンのLEDライトが暗闇を切り裂き、向かう先は三階の女子トイレだ。彼らの足音と息遣いだけが校舎に響き渡る。

 浮ついている。真偽の定かでない怪談を検証するというのが彼らの目的だった。大人に相談しても馬鹿馬鹿しいと鼻で笑われるだけだろう。だからこそ、自分たちがやるのだ。そんな高揚感と、という恐怖。あるいは、彼らの中で大人になりかけている声が、やはり馬鹿馬鹿しいと囁く。

 そのうち、わずかな怯えも躊躇いもなく、確かな足取りで階段を登るものが

 彼女はいつの間にか先行し、目的地の前まで辿り着いていた。

 満月が近い。窓から月明かりが差し込み、同じ暗がりでも廊下とトイレには闇の差が生じていた。その入り口は、あたかも背景色に同化し獲物を待ち受ける捕食者が口を開いて待ち構えているかのように見えた。

 少しばかり遅れて、三人がやや駆け足で追いつく。


「……そろそろ時間だな」


 腕時計を眺めて、鮎川浩紀が言った。


「てか、この時間なら俺でもよかったんじゃね」

「あんた、そんなに女子トイレに入りたいの?」


 そわそわしている。学校には彼らのほか誰もいない。最後に遅れてきた東雲芽衣子は「本当に入っちゃった……」と独り言を呟く。

 東雲芽衣子の「願い」が本当に「叶った」ものであるかは不明だ。だが、それはそれとして「誰もいないはずのトイレの個室が閉まり、ノックが返された」という事象は存在する。昼間であればこれも偶然ないし何者かの仕込みである可能性は拭えない。

 今は深夜だ。トイレの前で見張るものがいれば、「たまたま入ってきていたのに気づかなかった」という可能性を排除できる。もし同じことが起これば、怪奇現象であることに疑いの余地はなくなる。

 ゆえに、彼らは緊張している。むろん、を除いて。


「では、行きます」


 時刻が、三時を回る。アリサは速やかに女子トイレへと入って行った。「三時」という指定しかない以上、一時間以内であれば何度でも試せる可能性を考えてのことだ。

 彼女はまずトイレが無人であることを確認した。個室は三つ、そして清掃用具入れがある。すべての扉を一度開ける。それぞれに便器があり、清掃用具がある。異常は発見できない。落書きもなければ、トイレットペーパーの不足もない。トイレへの出入り口は他に、小さな窓が一つ。ただし、人間が出入りできる大きさではない。

 確認を終えると、彼女は儀式の内容に従い一番目の個室に入った。


 人間がよく利用する施設のうちで、トイレほどアンドロイドにとって無縁なものもない。

 食事の場は公的であることが多く会話の場にもなるため、「食べるふり」を伴って参加することもある。風呂もまた同様で、洗浄という形で利用することもある。

 トイレは個人的な空間であり、いかなる「ふり」も必要ない。どうしても必要なら、個室に入って数分待機し洗浄水を流すだけで済む。


 トイレの個室に入った彼女はなにをするでもなく突っ立ったまま、三分の経過を待つ。儀式には「用を足す」必要もなければ、彼女にはその機能もない。

 天井に隙間こそ空いているが、これほど狭く隔絶された空間は人の日常生活においてない。だからこそ、怪談が生じるのだろう。「トイレの花子さん」が流行っていた時代に比べれば、今やトイレは清潔だ。忌避感も薄れている。だが、隔絶された空間という性質は変わらない。情報の遮断は、恐怖を増幅させる。アリサの反響定位ですら、扉が隔たっていては精度はかなり落ちる。


 三分。誰かがトイレに入ってきた「気配」は一切なかった。アリサの聴覚機能は外で話す鮎川浩紀らの小声も正確に聞き取っていた。

 扉を開き、個室を出る。三番目の扉を確認する。

 鍵がかかっていた。

 なんらかの機械的な仕掛けで状況の再現は可能であるが、そのような装置は発見していない。なにより、怪異検出AIは80%以上の高い数値を示していた。

 儀式に従い、ドアを三回ノックする。そして名乗る。


「私です。白川アリサです」


 静かだった。

 一切の音が聞こえない。

 ドアの向こうからは、いかなる「気配」も感じられない。静寂のまま時間が過ぎる。そして、三十三秒。


 ドンドンドン!

 強い憎しみでも込められているかの、激しい返事がドアを叩いた。

 アリサはすかさず跳び上がり、扉の上部に手をかけ90kgの重量を持ち上げた。天井の隙間から中を覗くためだ。しかし。

 無人である。いかなる異常も検知できない。当たり前に、ただ便器があるだけだった。そのことを確認すると、アリサは地に足を落とす。扉の鍵は開いていた。「誰もいないはずの個室からノックが返ってくる」という異常現象が確認された。


「あ、アリサちゃん! さっきの音!」


 トイレから出てきたアリサに鮎川浩紀が慌てて声をかける。返事のノック音は外にも聞こえるほどの明確なものだったらしい。


「トイレになにものかが入った様子はありませんでしたか?」

「あ、ああ。俺たちがいたからな」


 あえて聞くまでもないことでも、アリサは予断しない。その点を疑うなら、彼らの悪戯を疑う方が可能性が高い。ただし、いかなる忍び足とてアリサの聴覚センサーは欺けない。


「やっぱマジなのか? トリックじゃねえよな? どういうトリックならこんなことできるんだ?」

「あたしら視点だと、アリサの一人芝居で説明はつくんだけど」

「だったら東雲さんも嘘ついてることになるだろ」


 説明不能な「ノックの返事」はたしかにあった。だからといって、自動的に「願い事を叶える」話の信憑性までは保証しない。怪異検出AIは「怪異である」という判定は可能だが、「どのような怪異であるか」まで見抜く能力を持たない。


「これで、アリサちゃんの願いも叶う……ことになる? アリサちゃんの願いって?」

「そんなの、どうせ『調査』でしょ」

「あ、そっか。だとしたら……アリサちゃん?」


 どのような「願い」が叶えば、真実性は高まるのか。

 アリサは複数の仮説を形成していたが、すぐにその「答え」が示された。

 願いは三週間以内に三つ叶う。であれば、に叶うこともあり得る。


 ころころ、と足元に手毬が転がる。

 廊下の奥に、白い人影が見える。

 闇の中に立つ異質な存在感。

 他に誰もいないはずの深夜の学校に、およそ似つかわしくない姿がある。

 窓から差し込む月明かりだけでなく、自らも光を発しているかの純白。

 白装束を身に纏った女性。雪のように白い肌。艶やかに靡く黒髪。

 その女性を、アリサは知っている。

 白川有紗だ。


 アリサは駆け出す。

 白川有紗の姿は、逃げるように渡り廊下から曲がり角に隠れる。さらに追う。ただ歩いているように見えるが、追いつけない。また姿が消える。アリサの駆動系は最高出力を発揮する。熱を発しながら階段を登る。踊り場の死角でやはり見失う。その先は屋上であり、行き止まりであるはずだ。

 彼女を追わなければならない。


 怪異検出AIの学習データは、白川有栖の妹――有紗の目を通じて集められた。有紗は人に見えないものが見える「霊能者」だった。妹の見えているものを理解するための開発だった。結果、白川有栖は妹の見えていたものを知り、己の無力さに嘔吐した。

 それでも、白川有栖は調査を続けた。妹の見えているものをまだ理解しきれていないと考えた。妹の孤独に寄り添うことが自らの使命なのだと奮起した。

 だが、彼女はついに断念する。理由は、からだ。

 いつしか、彼女は妹と疎遠になっていく。妹の見えている世界があまりに理解と想像を絶するものであるがゆえ、もはや立ち向かえないと、別の手段を求めた。

 弱く臆病な人間である自身では、これ以上の調査はできない。

 では、機械アンドロイドなら?

 恐怖という感情をそもそも持たず、背後にも視覚を持ち、頑丈で力もある。完全な認知能力によって精神を惑わされることもない。

 そんなアンドロイドならば、妹の見えている世界を理解し、妹に寄り添うことができるのではないか。

 これがアリサの開発に至った経緯である。


 だが、そんな遠回りをしているうちにも、白川有紗は姉の思惑とは無関係に霊能者としての活動を続け、やがて行方をくらます。

 結果として、「白川有紗の捜索」という大きな目的がアリサに課されることになる。彼女はそのために、白川有紗と同じ姿をしている。

 すなわち、アリサに願いとは。

 白川有紗の発見に他ならない。

 それが今、目の前に。


「ちょ、アリサちゃん!」


 背後から羽交い締めにされている。中学生男子の体重、わずか55kg程度の負荷ではアリサを止めることはできない。そのまま引きずって歩くことは可能だ。彼女にとって最優先事項は目の前の白川有紗を追うこと。止まる理由がない。

 とはいえ、速度は落ちる。思考に割り込みが生じる。その結果、アリサは自らの置かれている状況に気づいた。


「待て! 待て待て!」


 あと数歩で、屋上から足を踏み外すところだった。

 アリサは足を止め、ここに至った状況を確認する。屋上の外縁は約2mのフェンスに覆われ、上部はネズミ返しのように内側に曲がっている。通常であれば、これを乗り越えないかぎり屋上から落下することはあり得ない。ただし、一部分が通り道のように取り除かれていた。

 白川有紗の姿はもうない。

 100ピコ秒の時間分解能をもってしても消滅の瞬間は確認できていない。だが、わずかに微笑んで見える横顔だけは、たしかに捉えていた。


「なにが見えてたんだよ、いったい……」


 鮎川浩紀は息を切らしながら、尻餅をついてそう言った。彼の顔は汗に塗れていた。アリサは録画を確認する。トイレの前で白川有紗の姿を目にして四分が経過している。鮎川浩紀は七十秒間に渡り屋上から降りようとするアリサの移動を妨げていた。


「――女性の姿を見ました。私と同じ顔をしていたはずです」


 鮎川浩紀はしばらくアリサの顔を見つめたあと、首を横に振った。


「なに!? どうしたの!」


 続いて、夏目きゆと東雲芽衣子が屋上に現れた。そしてアリサと鮎川浩紀が無事でいる姿を見て、ホッと胸を撫で下ろしたようだった。


「……そうか。アリサちゃんも、のか」


 自らに重ねるように、鮎川浩紀が零す。おそらく「鏡」の件を連想しているのだろう。彼もまた、「存在しない友人」を求めて鏡の前まで導かれた。アリサも同じ状態になってた――彼にはそう見えたのだ。


「やっぱ悪趣味な異常存在やろうだぜ。アリサちゃんの願い――会いたい人でもいたんだよな? 会わせてやるから、そのまま死ねって?」


 ふざけてるよな、と鮎川浩紀は笑う。


「だってよ、だろ?」

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