四角四面
少年は腹を抱え、身を屈めながらふらふらと廊下を歩く。
足取りは重く、窓の縁を手すり代わりに体重を支える。顔は苦痛に歪んでいる。呼吸を整え、彼は後ろの扉を静かに開け、ひっそりと教室に入った。
「お、おい。どうしたよ」
誰にも気に留められずにいたはずなのに、お節介なやつに声をかけられる。少年は返事を拒絶した。あいつらは顔を避けてはいたが、服には汚れが残っていた。お節介はそのことに気づいたらしい。
「まさか、またあいつらか……!?」
彼は教室から顔を出し、廊下の右左を確認する。そして目にしたのだろう、ニヤニヤと薄汚い笑みを浮かべながら去っていく三人の姿を。無駄に髪を染めて、ピアスまでつけて、体格だけはいい。頭の悪い女の肩を抱いて、唾を撒き散らしながらくだらない話をしているんだ。
「おい!」
「いい、いいから……いいから鮎川くん」
思わず後ろから彼の肩を掴み、制止する。彼がなにか言ったところで、なにか変わることはない。むしろ状況は悪化する。だからお節介だというのだ。彼はどうせ、そこまで責任を持つつもりはない。カッコつけているだけなのだ。惚れた女の前で。
「いいって、お前……」
「別になんでもない。構わないでくれ」
席に座り、突っ伏す。目を閉じ、耳を塞ぐ。
「……レッドヒーローがいてくれたら……」
情けなくも、そんなことを呟いた。
***
「あー、くそ。むかつくぜ……」
放課後。異常存在リサーチ部にて。
鮎川浩紀は頭を掻きむしりながら怨嗟の言葉を吐いていた。
「ぜってぇあいつらなんだよな……それはわかってんだけどよ……」
月代中学校にも「不良」が存在する。
特に問題となっているのは、三年生の「楠田」という男を中心とした三人組だ。
表立ってはいないが、彼らはイジメや恐喝を繰り返している。彼らはだいたい群れていて、いつも威張っており、ことあるごとに暴力をちらつかせている。
クラスメイトの一人も標的にされているようだ――と鮎川浩紀は語った。ただし、現場を押さえたわけではない。さほど親しいわけでもなく、助けを求められたわけでもない。教師に密告したところで状況が改善するとも思えない。そもそもが及び腰だ。かといって、自ら殴り込みに行くほどの勇気もない。格闘技を極めた主人公が不良をバッタバッタ薙ぎ倒すなんてのは漫画だけの話だ。
そんな鬱屈とした気持ちにあるという。
「あの感じだと、腹だぜ。金も巻き上げられてんじゃねえか。憂さ晴らしと小遣い稼ぎ。最悪だ」
「証拠は?」
「……ねえけどよ」
「だったら、どうしようもないでしょ」
夏目きゆは冷淡に言い放つ。
「そうなんだけどよ~~」
鮎川浩紀は不毛だとわかりつつも、頭を抱えている。
被害はそれだけに止まらない。彼らのマナーと態度があまりの悪いことから、近所の喫茶店で月代中学生がまるごと出禁になっている。傍迷惑な連中だ。それどころか、彼らは人に迷惑をかけることを楽しんでいる節さえある。愚痴は続いた。
「レッドヒーローとはなんでしょう?」
アリサも同じ二年二組である。鮎川浩紀の語る現場には彼女もいた。彼女の高感度マイクはその少年が呟く小さな声も聞き取っていた。
「なにそれ? ……レッド?」
鮎川浩紀は考える。なにか覚えがあるようだった。
「もしかして、四角四面の男か?」
***
【
あ~、もう二十年も前か。そう、中学生だったときだ。
うん。話そうか。二十年も経ったならいいだろう。彼について。彼はいったい、なにものなのか?
神だよ。要するに、神様。拳の神様っていうのかな。
あるいは、愛の神なのかも……。
そうだな。あんときはずいぶんやんちゃしてたっていうか……いや、そんな言葉で括るべきじゃないな。わかりやすくいえば、不良だ。これでもまだカッコつけてるな……。カスだよ。人間のクズ。生きてるだけで有害な存在。いつもイライラしてた。仲間とつるんで、めちゃくちゃやってたんだよ。
気弱そうなメガネくんを焚きつけて万引きやらせてみたり。服を脱がせて撮影会だとか。路上生活者を囲んで殴ったこともあった。小学生を相手にいびったこともある。スライム狩りだなんて呼んでたな。お地蔵さんを蹴飛ばしちゃったりしたときも、バチが当たるぞぉ~? なんてゲハゲハ笑ってたよ。
……武勇伝のつもりはない。やっぱ話すべきじゃなかったか。なにを言っても、このへんはどうしてもな。クズの自慢話みたいで自分でも不愉快だ。
でも、このあたりの前提がないと彼の話には繋げられないから。
俺は彼に感謝している。彼がいたからこそ、今の俺があるんだ。
殴られたよ。ボコボコに。馬乗りで何度も何度も。顔の形が変わるほど殴られた。頬骨も顎も折られた。硬くて、重い拳だった。
仲間も同じだ。全員ぶっ倒れてた。彼にやられたんだ。七人もいたのに、誰一人手も足も出なかった。気づいたときには地面に寝転がってたよ
最初の一発は、綺麗な右ストレートだったのを覚えてる。拳が迫る瞬間のこと、今でも鮮明に覚えてるよ。
大きな拳だった。
この拳にだったら殴られてもいいと、そう思ったんだ。
一発殴られるたびに、思考がクリアになっていくのを感じた。
それから全員病院送りさ。でも、警察沙汰にはしたくなかった。親にも病院にも、俺たちはあくまで転んだんだと言い張った。彼には感謝していたからだ。
あの日を境に、俺たちは生まれ変わったんだ。
これまで迷惑をかけてきた両親に、教師に、クラスメイトに、とにかくみんなに頭を下げた。すべては彼のおかげだ。
だから、このことは他には話してない。
二十年も経った今ならいいか、と話してるんだ。
【
夕暮れの、帰り道だった。
いつものメンツで、七人か。そいつらと一緒に帰ってた。どこかで遊ぼうかって話もしてた気がするが、覚えてねえ。そうはならなかったからだ。
見ず知らずの男だ。そいつが突然、俺たちの目の前に現れてよ。
初見でやべえやつだと思ったよ。頭イカれてんだろって。
コスプレっていうのか? どうだろうな。妙に質感としてプルプルしてたし。もしかしたらアレで素顔なのかもな。
まあ、正体とか、そういうのはどうでもいいんだよ。今になっても、俺らはあの男の顔も名前も知らねえ。そんなことは大した問題じゃねえんだ。
どんな姿って? アレだ。豆腐だよ。顔が豆腐なんだ。真っ白で、真四角の、でっけえ豆腐。いやマジで豆腐ってわけじゃねえとは思うけどよ。豆腐なんだ。
そんで、身体は赤。筋骨隆々でよ。すげえ肉体美だったぜ。なんつーか、彫刻みたいな? そんな筋肉がくっきり浮かび上がるような、全身タイツだよ。真っ赤な全身タイツ。
そんな男がよ、俺たちの前に立ってるんだ。
夕暮れの通学路で、まるで待ち構えてたみたいに。仁王立ちで。
――怖かったよ。
イキがってても、当時の俺たちは中学生だぜ。まず体格が違いすぎる。
180くらいはあったんじゃねーかな。それで筋肉モリモリのマッチョだ。豆腐のせいで顔も見えねえ。いや、豆腐が顔なのか。下手に刺激したらやばいんじゃねえかと思ったが、道のど真ん中に突っ立っててさ。
静かだった。他の音がぜんぶ消えたみたいに。通行人も、俺たちとそいつ以外いなかった。なぜだか知らねえけど、逃げられない。そんな気がしてならなかった。
警察でも呼ぼうかと思ったよ。笑っちまうよな。警察なんてさ。ゲームでしか呼んだことなかったからよ。ん? ああ、ゲームってのは、「なんか素行の悪いやつがいますぅ」「車にイタズラしてるやつがいますぅ」とかわざと電話して、逃げ延びるの。そんなふざけたゲームだよ。
そんな俺らが、マジで警察に頼ることを考えた。
ジリジリと後ずさりながら、震える手でケータイを取り出そうと……。
一瞬だった。
あっという間に距離を詰めてきて、一発だ。すげえ痛かったな。鼻が折れたよ。
右フックに、アッパーカット。綺麗なフォームだった。ボクシングだ。当時も俺はちょっと齧ってたからわかった。ただ、ボクシングと違うのは倒れた後も追い打ちがあること。マウントポジションで延々と殴られ続けるんだ。
だから、感謝している。あの男に殴られたから、今の俺がいる。
俺はあのとき、生まれ変わったんだ。
【
噂はあったなあ。うん、当時から。私も聞いたことあった。
悪い子の前に現れて、ぶん殴って改心させるっての。豆腐頭で、全身赤タイツの怪人。出会ったとき、あー、ホントにいたんだって、そう思った。
……実際に殴られたやつがそれ以前にもいたのかって?
いたんじゃない? でも改心してるから。誰にも話してないと思う。
私もそう。
クラスで気弱そうな子をターゲットにしてさ。全員で無視するの。参加しないと今度は自分がターゲットになるぞって空気をつくってね。もともとその子って友達いなかったから、ただ普段通りにするだけだって。「いやぁ~、結束高まってるねぇ」って。ある種のゲーム。うまくいってた。そういうことしてた。
だから殴られたんだよね、私も。
さすがに私は見逃されるんじゃないかって、期待してた。可愛い女の子だったからね。
でも、そんなことはなかった。
女だからって全然容赦しないの。当たり前のように殴られたよ。もうボコボコでさ。泣いても叫んでも許してくれない。グーで殴られたよ。思いっきり殴られた。無言で。何度も。
そして、殴られるたびにわかってきた。なにも言われなかったけど、わかった。どんな説教より雄弁だった。私がどれだけ馬鹿だったのか。人の痛みというものが全然わかってなかった。ぜんぶ償おうって、そう思った。
今じゃ私も二児の母だからね。子供に言い聞かせてるよ。
悪い子にしてると、四角四面の男にぶん殴られるって。
でも、そうやって無理にいい子にさせようとするより……実際に殴られた方がいいのかもしれない。そう思う。
殴られれば、確実だから。
確実に心を入れ替えて、いい子になれる。
【
なんだ、あいつら話したんですか。
二十年も経てば忘れられて、許されてるとでも思ったんですかね。
まあ、話したのでしたら、そろそろでしょう。
いますよ。四角四面の男は。
レッドヒーローはね。
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