偽想鏡面

 新学期になったからといって、なにか変化があるとも思えなかった。

 目覚まし時計を叩き、伸びをして夏休みボケした頭を無理やり起こす。一階に降りて顔を洗う。朝食には食パンにマーガリンとジャムを塗り、牛乳を飲む。久しぶりの制服に袖を通し、ボサボサの寝癖を直して、念のため教科書を確認し、バッグを背負って家を出る。自転車通学は禁止なので徒歩で十五分ほど。坂を下りて、横断歩道を渡り、遅くもない早くもない時間に到着。教室に入り、眠そうな友人らと軽く挨拶を交わす。

 どうせまた退屈な日々が始まるのかと、席につきボーッと窓の外を眺める。UFOが擬態したような不自然な雲でもないかと探したが、どれも平凡そのものだ。

 そう、中学生にもなると薄々理解できてしまうのだ。きっと世界の裏側には、大した陰謀も秘密も隠されていない。細やかな日常を盛り上げるなにか面白いことでもないかと、漠然と願いながら空虚な日々を過ごすのだろうと思った。漫画じゃあるまいし、転校生が来るという噂にすら大して期待していなかった。しかし。

 鮎川浩紀は目を見張った。

 ガララ、と戸が引かれるそのときから、なにかが違うとわかった。

 さらさらと流れるような黒髪。背筋を伸ばした姿勢正しい歩み。均整の取れたスタイル。完璧なラインを描く横顔。長い睫毛。白い肌。首筋。唇。

 担任の後ろをついて教壇の前を歩き、正面を向くまでのわずかな間に、浩紀は見惚れていた。彼女が発する以外の音が、空間から消えていた。


「白川アリサです。よろしくお願いします」


 白川アリサ。その名を胸に刻む。 

 端的な挨拶に快い音の響きがあった。黒板に書かれた文字も綺麗で整っている。一挙一動のすべてが可憐だった。

 背は低い。小学生かと思うほどだ。だが、一連の所作からどこか大人びて見えた。表情も自信に漲っているよう真っ直ぐで、両手を前に揃えた立ち姿には気品さを感じさせる。高い知性と教養の賜物なのだろうと思われた。指も細く滑らかだ。見慣れたはずの制服ですら着るものによってこうも印象が変わるのかと驚く。ブレザーの紺色、リボンタイの赤、胸の校章、スカートのチェック模様までもが輝いて見える。黒タイツに覆われすらりと伸びる脚からは、さすがに気恥ずかしくて目を逸らす。

 顎を乗せたまま硬直していた右手が痺れていることに彼が気づくのは、もう少し先の話だ。

 教室も騒然としている。人形のような、天使のような、美術館から逃げ出してきたような姿が、人間のように動いているという光景に動揺している。同じ教室にいるはずなのに遠い世界の住人のように感じられた。

 その芸術品が、自己紹介も半ばにつかつかと真っ直ぐに歩み寄ってきた。目が合ったと気づくのも遅れ、理解が追いつく間もなく、浩紀は寸前まで呆けた顔をしていた。


「鮎川浩紀さん、ですね」


 さすがに、なにか起こる気がした。


 ***


「いや驚いたよ。白川さんもそういうのに興味があったなんて」


 放課後。アリサは鮎川浩紀に連れられ、廊下を歩いていた。

 身長145cm・重量90kgの機体ボディは彼女にとって不慣れであったが、わずかな調整で今やなんの問題もなく適応している。ほとんどの時間は椅子に座って授業を受ける動きの少ない状態で、板書を書き写す作業はあまりに容易い。休み時間の雑談においても受け答えは完璧であり、ときおりジョークを混ぜることもできる。初対面から約七時間、三十人と同じ空間で過ごしたが、彼女をまさか「機械」だと疑うものは一人もいない。

 彼女は背面にもカメラを持ち、全周視界を有する。高感度集音マイクは5Hzから500KHzの可聴域で、反響定位にも利用できる。揮発性物質の検出、すなわち嗅覚に該当する機能もある。周囲すべての人間の視線・表情・声色を分析したうえでの結論だ。多くの人間が彼女に「好印象」を抱いている。

 すべては、彼女が超高性能アンドロイドであるがゆえになせる業である。


「アリサとお呼びください」

「え?」

「私の識別名としては『アリサ』の方が適当です」

「えっと……じゃあ、アリサちゃんでいい?」


 白川、というのは学校への潜入にあたり「フルネームらしきもの」が必要になったため便宜的につけたものに過ぎない。要するに、なんでもよい不確かなものだ。

 ちなみに「新島」という候補もあったが、アリサはこれを却下した。


「アリサちゃん、ここが俺たちの拠点だぜ」


 鮎川浩紀に案内されたのは、北校舎一階の片隅にある小さな部屋だった。

 奥には積まれた段ボール、掃除用具入れのロッカー、車輪付きホワイトボード、ゴミ箱。作業机の上にはノートPC。隅にはコンセントが確認できる。引き戸タイプのスチールキャビネットにはオカルト雑誌、ノートやバインダーが収められている。部屋の中央には四脚のテーブルとそれを囲むようにパイプ椅子が並んでいた。


「あれ? 夏目はいると思ったんだけどな。それからあともう一人いて、合計三人。アリサちゃんが加わって四人だ。ようこそ、異常存在リサーチ部へ」


 かくして、アリサは月代中学校「異常存在リサーチ部」に入部した。

 異常存在リサーチ部は鮎川浩紀を部長とし、ネーミングも彼による。「この世には人智では計り知れない『異常存在』が潜んでいる」という理念のもと、その存在を暴くことが活動目的だ。最近もっぱらの関心は「七不思議」にあるという。

 ここでいう「異常存在」は白川研究室でいう「怪異」と同じ意味を指す用語に思われた。現地協力組織としてはこれ以上のものはないだろう。

 ひとまず、会話の姿勢として腰を落ち着ける。90kgの重量にパイプ椅子が軋んだ。


「興味深い部活動です。具体的にはどのような活動をされているのですか?」

「まあ大したことはしてないんだけど、聞き込みとか……?」

「七不思議について調査した内容があるなら教えていただけないでしょうか」

「あー……、ちょっと待って。どこだったかな……」


 鮎川浩紀は席を立ち、キャビネットの戸を開いてなにかを探す素振りを見せた。


「あ、ところでさ。MOONチャンネルってのがあって、授業のこととかいろいろ便利なんだけど、招待コードいる? 七不思議の話もここでされてたりするしさ」


 月代中学生専用の非公式SNSの名だ。断る理由はない。ついでに連絡先も交換する。


「……ん、誰?」


 鮎川浩紀と話すうちに、一人の少女が扉を開けた。

 身長152cm。推定体重48kg。学年章を見るに同じ二年生。髪型はやや茶色がかったウルフカットのショートボブ。切れ長の目つきをしている。ブレザーのボタンは締めず、リボンタイはやや緩く着崩している。彼女は夏目なつめきゆと名乗った。


「入部希望? 新入部員とか来ることあるんだここ」

「そうそう。アリサちゃん、おばけとか怪談とか好きらしくてさ」

「アリサ……ちゃん?」

「いや、あの、本人が」

「はい。私のことはアリサとお呼びください」

「あ、もしかして例の転校生? 噂は聞いてたけど。それなら……アリサさん?」


 と、夏目きゆはパイプ椅子を引いて腰掛けた。


「で、今日は見学かなにか? なんもないけどここ」

「もう入ったよ」

「は?」

「よろしくお願いします」


 彼女はしばし呆然として、鮎川浩紀とアリサの顔を交互に眺めていた。


「転校初日に入部って……前の学校でもこういうのしてたの?」

「はい。怪異調査に従事していました」

「ふーん。ま、浩紀はともかくあたしは本気だから。アリサさん、遊びのつもりじゃないよね?」

「俺も本気だよー」

「本気というのは、『異常存在』を実在するものだと考えているということでしょうか?」

「…………」


 夏目きゆは口を噤む。なにかを「考えて」いるようだった。


「……アリサさんは?」

「私は『ある』という前提で活動しています」

「そうなんだ」


 大きなため息を一つ。彼女の顔にはまだ「不信」と「警戒」が見られる。


「ていうか、よくわかったね。こんな部活があるの。それとも、そいつが勧誘した? 今日一日でよっぽど話が盛り上がったわけ?」

「なんか俺、有名だったらしい」

「へえ。そうなんだ。じゃあ知ってる? こいつのバカエピソード。ほら、眉毛ケガして欠けてるでしょ?」


 改めて鮎川浩紀の顔を見る。確かに片眉毛の欠損が確認できた。実際には録画データを参照すれば事足りるしすでに把握していた特徴だが、「人間らしい動き」を平然と再現できるのが超高性能アンドロイドたる所以である。


「それ、自転車で下り坂からノンストップで十字路に突っ込んでさ。盛大に事故ってやんの。大した怪我にならなかったからよかったけどさ」

「位置エネルギーを無駄にしたくなくて、つい……」

「反省しろ」


 と、夏目きゆは鮎川浩紀を睨みながら、ちらりと横目でアリサの様子を伺う。その視線からは「敵意」すら感じられた。理由は不明だ。超高度なAIをもってしても、人間の繊細な感情を理解するには困難を伴う場合がある。


「ところで夏目! 七不思議の調査ってどんな感じだっけ」

「調査もなにも、新学期からやろうってことでまだなんもないでしょ……」

「とりあえずリストとかさ。なんかあるだろ」

「なんで急にやる気出してんの。あ、アリサさんか」

「いやそういうわけじゃ」

「はい。七不思議について、なにかわかってることはありますか?」


 夏目きゆにはなにか「隠し事」の兆候が見られる。アリサは少し重心を前に傾け、夏目きゆの顔を覗き込むようにして尋ねた。彼女はわずかに身を退き、目を逸らしながら口を開く。


「いやあの。綺麗な顔で無表情で迫られるの、ちょっと圧があるんだけど」

「にこー」

「うわ! 急に眩しいくらいの満面の笑みもこわい!」

「スン……」

「戻った……」


 超高性能アンドロイドは人間が十分な訓練を積んで初めて可能になる表情操作を容易く実行できる。それだけのことにすぎない。


「七不思議ねえ。わかってることって言っても……んー、今すぐにでも調べようと思えばできるのが二つはあるかな」

「あ、そうか。深夜の大鏡だ。たしかにアレはすぐにでも調べたいとこだけど」


 深夜、踊り場の大鏡を覗くと飲み込まれてしまうという噂がある。ここまでわかっているなら、あとは実際に深夜の学校で大鏡の前に立てば、調査は可能だ。


「問題は、どうやって夜の学校に忍び込むかだよな。ふつうに考えて鍵かかってるし」

「問題ありません。今夜、調査しましょう」

「え?」

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