幽冥寒村⑥

(なんだこれは。明晰夢か?)


 明らかに異様な光景を前にしながら、白川の意識はハッキリしていた。その異常な光景を「異常」であると認識することができた。

 朱に染まる不気味な河原。行く手を遮るよう一本の川が流れている。赤い霧が立ち込め、対岸は朧げに霞んでいた。


(くく。三途の川か?)


 自身の状態を確認する。

 眼鏡がない。左手のスマートウォッチもない。服装は覚えのない白装束であった。


(前頭葉が半覚醒状態のときに見るのが明晰夢だが……あまりにも意識がハッキリしすぎているな)


 両手を握って、開く。これを繰り返す。手の感覚が確かにある。足場にも自重を支えている感覚が確かにある。複雑で奇妙な体験を伴う夢を見るのはレム睡眠時だが、レム睡眠では感覚系や運動系が遮断されている。明晰夢というより、眠っている間に異世界に連れられてしまった。そう解釈する方が道理に合う状態だった。


(さすがに油断しすぎたか? あからさまに怪しい旅館でぐーすか眠ってこのざまか。新島や青木は無事か? ここはどこだ? 本当に三途の川か?)


 まずは状況の把握だ。少し歩いて、足の感触を確かめる。裸足だ。だが、不思議と違和感はない。どこか現実味の欠けた浮遊感もあり、やはり夢のようでもある。


(薬物でも打たれたか……?)


 濃い霧に遮られ先を見通せないように、状況の理解は遠い。これが三途の川なら、向こうは彼岸か。頭が痛む。目を凝らす。誰かいる。

 白無垢の花嫁衣装に身を包む、女であった。


「……! 有紗……?」


 距離もある。綿帽子に隠され、顔は見えない。それでも、白川有栖はその姿を一目で妹の有紗だと確信できた。


「有紗!!」


 遠い。それでも、声が届かないような距離ではないはずだ。必死に呼びかけ、駆ける。川の直前で踏みとどまり、どれほど深いのかと逡巡し、意を決して踏み出す。


「待て。白川有栖」


 直後、背後から男の声で呼び止められた。


「あ……?」


 聞き覚えのある声に、白川は振り向いた。

 作務衣を着こなす無精髭の男。桶狭間信長の姿がそこにあった。


「そこで動くな」


 桶狭間は歩み寄りながら、右手を横に薙ぐように払う。その動きに従って、注連縄が周りを囲うよう張り巡らされた。


「なんだ? 浮いてる……?」

「結界だ。あんたみたいなのがここに長居すると危ないからな」


 赤い霧が蠢いて迫る。注連縄を境に弾かれているように見える。霧が髑髏の形を取ろうとするが、それも文字通りに霧散する。どうやら、守られているらしい。


「さて」


 と、桶狭間は一息ついて話す。


「あんたのとこのアリサとかいうアンドロイドには世話になったよ。俺のことはわかるよな?」

「ああ。アリサがずいぶん迷惑をかけたようだな」

「そりゃどーも。あんたのことは調べたよ。白川有栖教授。ずいぶんな天才みたいだな。しかしあれだ、研究室の公式サイトも見たが最終更新が二年前で止まってるぞ。ニュースを検索してもアリサみたいなアンドロイドの完成発表なんぞ見つかりゃしねえ。どういうことだ?」

「発表してないからな。それより、なんでお前がここにいる。桶狭間信長」

「ぶほっ! やめてくれよ。その名で呼ぶの」

「こっちもお前のことは調べたが、情報はゼロだ。仕方ないだろ」

「ま、俺も本名を名乗るつもりはない。それでいいよ」

「で、ここはなんだ?」

「見りゃわかるだろ。この世とあの世の境目ってやつだ」

「そんなところだとは思ったがな。それを信じろと? 有紗はなぜ向こう側にいる?」

「言ったろ? 死んでるって」

「生きてるだろ。あそこに立っているじゃないか!」

「向こうはあの世だ。なあ、あんた学者さんだろ? もう少し物分かりはいいと思ってたんだがな」

「その説明でなにをわかれと? もっと詳しく話せ。知っていること全部だ」

「けっ。そうだよな、学者さんならそっちか。まあ、実際死んでるみたいなもんだよ。こちら側には来られないんだからな。有紗はあそこで囚われ続けてる。あんたも、間違っても川を渡ろうと思うな。帰れなくなる。この結界からも出るなよ」


 対岸で、赤い霧がたびたび有紗を飲み込もうとしていた。目を離すと、それだけで消えてしまいそうな儚さだった。人形のように美しくも、その姿には生気がない。


「つーか、危機感がなさすぎだ。綱渡りだったぞ、あんたら。たまたま旅館に泊まったから助かったようなもんだ。旅館以外で眠ってたら村に取り込まれてた。あの旅館は、俺たちが用意した砦だからな」

「ここは月見村のどこかなのか? 私は、なぜここにいる?」

「んー、村と繋がっているといえばそうだな。呼ばれてしまったんだよ。あんたはいま眠ってる。脳がテレビみたいに電波を受信してるのか、いわゆる幽体離脱みたいなものなのか、そのへんは俺にもわからんけどな。ったく、わざわざ村まで来やがって。明日ですべて丸く収まったってのに」

「お前たちは、いったいなにをしようとしている?」

「なに、を守るためのことだ。その様子だと、すでに何度か言われたな? もう一度言うぞ。すぐに村から帰れ。起きたらすぐだ。朝イチで村から出てお家に帰れ。それで間に合う。あんたらはなにも心配しなくていい」

「事情に納得するまではそうもいかんな。神婚祭とはなんだ? あの有紗の、白無垢姿はどういうことだ!」

磐長姫イワナガヒメの伝説を知ってるか?」

「……なに?」

「俺たち人間に寿命があり、短命なのは、磐長姫の呪いのせいらしい。つまりだ、かつて人間には寿命なんてなかったんだよ。あるいは、こうともいえる。老いとは、呪いのように不可解で怖ろしいものだった、と」

「なんの話だ」

が起きる。俺たちはそれを防ぐために動いている」

「そうか。それで? その話と、妹になんの関係がある? 私は、有紗のあの状態がどういうことだと聞いているんだ!」

「十二年もほっぽいた姉が今さら妹の心配か? 祝えよ。挙式だ」

「……その言い草だと、有紗とは話せるんだな? ――有紗!!」


 桶狭間を無視し、対岸にいる有紗に向かって呼びかける。


「有紗! お姉ちゃんだ! お前を……ずっと探して……いや、怖くて、探せなかった……。ごめん、有紗。お前のそばにいられなかった……。だが、ようやくここまで来た。ここまで来たんだ。有紗! 返事をしてくれ!!」


 だが、答えはない。有紗の口は開かない。綿帽子からわずかに横顔が、口元が覗くだけで、振り向いて姉の方を見ることすらしなかった。


「まだわからねえのか。有紗は、お前なんかとは話したくもないんだよ」

「…………ッ!!」


 声が出ない。そういわれては、心当たりがありすぎたからだ。


「桶狭間。お前、これを知っていたな?」


 今度は、背後の男を睨みつける。


「有紗がここにいて、この状態にあることを知っていた。だというのに、ずいぶんとペラペラと嘘を並べたものだな」

「しょうがないだろ。あんたらのためだ。有紗については死んだものと思ってもらう方が一番良かった」

「私のためだと? 嘘つきめ。お前の言葉は嘘ばかりだ。お前はそんなだから信じてもらえなかったんだ。霊能者として生まれ、怪異が見えていたが、お前は誰にも信じてもらえなかった。それはお前が嘘つきだからだ。私は有紗を信じたぞ。有紗は素直で正直だったからだ。お前は違う。お前は嘘つきだ。くく、ひゃひゃ、ぐひゃひゃ! そんなだから! お前は誰にも信じてもらえなかったんだ!」

「てめえ……」


 桶狭間と相対したアリサの映像記録は何度も見返した。そのときの言動から桶狭間の経歴はおおよそ察することができる。桶狭間が静かな怒りを燃やしていることは裸眼でもわかった。狙い通りにトラウマを刺激したらしい。


「優しくしてりゃ、つけ上がりやがって……」


 まさか暴力か、と白川は身構える。冷静になって考えれば、成人男性と一対一で腕っ節では敵うはずがない。やはり判断力を欠いた状態にあるのかも知れない。


「もういい。ハッキリ言ってやろう。お前のせいなんだよ白川有栖!」


 怒号。桶狭間は怒りを露わにし、白川へと迫った。


「お前が妹を連れ回し、怪異を記録し続けたせいでこの村の怪異は存在承認を得てしまった! ただの忘れ神にすぎなかった怪異が増長し、ツクヨミまで名乗るようになった! お前の妹はそれに気づき、一人で退治に向かった! だが遅かった。怪異はあまりに大きく膨れ上がってしまっていた。できたのは、己の身を捧げて力を封じることだけだった。それでも有紗はそうするしかなかった。やつは縁を頼りに影響を広げる。姉が狙われる危険性があったからだ。わかるか? 有紗は、お前のせいであそこにいるんだ!」

「なっ……?」


 一息に叩きつけられ、理解が追いつかない。言葉だけが真に迫り、深く胸に突き刺さる。


「そうなのか? 有紗……」


 有紗はなにも答えてくれない。


「すべて、私のせいなのか……?」

「そうだ。明日の神婚祭はその尻ぬぐいだ。十二年もの間、有紗は一人でやつの力を抑え続けてきた。それも限界に近い。次第に力は漏れ出し、やつは手を伸ばして贄を集めはじめた。もはや斃すことはできない。だから婚姻を結ぶ。やつはもとより霊能者である白川有紗を娶ることで力を得ようとしていた。それを逆手にとる。祓えないのであれば鎮めるしかない。結果としてやつはこの世への影響力を得ることになるが、それでも制御はできる。白川有紗を神として祭り上げ同格の存在とし、婚姻を結ぶことで習合し無害な善神に仕立てあげるんだ。

 だが、白川有紗はいま現世にはいない。儀式には依り代が必要だった。有紗の姿に似せてつくられたあのロボはそれに最適だった。命もないから犠牲にもならない。あれがこの村を訪れたことで条件が揃った。

 わかるか? これは俺たちの戦いだ。お前に出る幕はない。俺たちの仕事は、明日の神婚祭を滞りなく成功させること。お前のやらかしたことに落とし前をつけることだ。有紗のたっての願いで、黙っていたんだ。

 これで満足か? 事情を知って納得したか? 納得しろ。満足しろ。そして帰れ。お前は、初めから関わるべきじゃなかったんだ」

「……どうなるんだ?」

「あ?」

「それで、有紗はどうなる? 神と婚姻を結んで、有紗はどうなるんだ?」


 桶狭間は彼岸を指差す。


「白川有紗は人ではなくなる。村の守り神として祀られることになる」

「今のままか? 有紗は囚われたままか? 有紗は、いつまで囚われ続けるんだ?」


 桶狭間は答えない。その沈黙で、すべてが察せた。


「……くく、ひひ……」


 存在承認? 忘れ神? 依り代? 立て続けに知らない言葉が続き、脳が混乱している。理解できるのはただ一つ、「お前のせいだ」という責めだけだった。

 それだけは、きっとそうなのだろうと理解できた。妹を助けるつもりで、ずっと助けられていた。妹に寄り添うつもりで、同じ世界を目にして逃げ出してしまった。そんな無能で愚かな姉だから、きっとそうなのだろうと理解できた。


「違う、違うな……」


 彼岸に立つ有紗を見る。顔は見えないが、どこか寂しげに見えた。


「私は、なにを勘違いしていたんだ……」


 有紗は、ずっと呼びかけていた。具体的な原理や方法はわからないが、何度も訴え続けてきた。あの廃村で、自らの似姿であるアリサを目にしてから、ずっと呼びかけてきた。

 アリサが怪異調査をする先には、手毬があった。

 口下手な妹は、姉の背に手毬を投げつけることで気を引いた。

 答えるべきは、有紗ではない。


「答えるべきなのは、私の方だ……!」


 今だけは、弱く無能で愚かな姉をやめる。


「待ってろ有紗! お前を必ず助ける! 望まぬ婚姻など結ばせはしない! お姉ちゃんが助けてやる! 私に任せろ! お前を捕らえているものを断ち切ってやる!!」


 せめて妹の前だけでは、強く賢い姉であらねばならない。もう二度と、妹の前で情けない姿は晒さない。


 ***


「くく、くひひ、ひゃはは! ぐひゃひゃひゃひゃ!!」


 朝。目を覚ましてすぐに、白川は笑い転げた。縁側で寝ていた青木も慌てて戸を開き、隣で寝ていた新島もドン引きしていた。


「あーくそ。あまり寝た気がしないな。これだから明晰夢は……」


 だが、やるべきことはわかった。


「よし。神を殺すぞ」

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