幽冥寒村②

「アリサちゃんが行方不明!?」


 研究室に入るなり、新島は騒がしい声を上げた。


「教授、説明してもらいますよ」


 青木もまた、怒気のこもった声で詰め寄る。

 白川教授は伏し目がちにぎしり、と椅子の背に体重を預けた。


判断基準プライオリティを書き換えた。不具合が出ていたのは知ってるだろ。どうしたものかずっと手をこまねいていたが、これしかないと思ってな」

「具体的になにをしたのですか。なにをしたら、一人で勝手に出ていくなどと……」

「え、アリサちゃんって家出したんすか」


 家出。言い得て妙だ、と白川は思った。アリサは自由になった。その結果がこれだからだ。空になったメンテナンス・チェアを眺め、ため息をついて答える。


「私の命令をすべて解除し、権限を消滅させた。あいつは自由になったんだ」

「なっ」


 驚き、青木は一時的に言葉を失う。


「なんてことを……」

「え? え? どゆことっすか。教授の命令っていろいろありましたよね?」

「ああ。『必ず研究室に戻ってこい』『命令があるまで待機』『研究室の責任になるからなるべく人に危害を加えるな』――基本はこのへんだな。あとは便宜追加したり、矛盾する命令があれば上書きされる」

「つまり今のアリサは、怪異調査という目的だけで動いていると?」

「や、やばいじゃないですか! 充電とかどうするんすか」

「数世代前の床掃除ロボですら自動的に充電スポットに戻る。ウォズニアック・テストを軽くクリアできるアリサにとって手頃な充電スポットを見つけることくらい造作もない。EV車のなら規格も合うし、家庭用電源でも時間はかかるが充電はできる」

「そっか、なら安心……じゃなくて、連絡は取れないんすか?」

「取れないんだ。だから問題なんだよ」

「つまり、もう異界に……?」

「かもね。八時間前まではメンテ椅子で充電してた記録がある。それで、教授。心当たりはないんですか」

「心当たりなら、ある……」


 だが、それ以上は口が重い。黙っていると、青木は苛立ちを隠しきれない様子だった。


「教授。たしかにあなたはアリサ・プロジェクトの責任者だ。かといって、アリサはあなただけの私物じゃない。研究室全員で開発し、運用してきた。アミヤの技術協力や資金提供もあったはずです。それなのに、独断で命令と権限の解除だなんて……枷を外すようなものですよ。こうなると予想できなかったわけではありませんよね?」

「ああ。それはそうだな」

「なぜこんなことをしたんですか」

「あいつは本来、かぎりなく完全な存在だ。あいつには神になってもらいたかった。恐怖を知らず、死角を持たず、客観的な観測能力と分析能力を備え、人間の認知的限界に囚われない存在だ」

「か、神っていうわりにはミス多くないっすか」

「だから、それは私のせいだと考えた。私の命令がノイズになっているのだと。私の命令を解釈し、処理するのにリソースを奪われすぎていたと……」

「だとしても極端すぎます。まずは僕たちに相談し、それから一つずつ命令を解除して段階的に精査すればよかったではないですか」

「くく。そうだな。その通りだ。さすが青木だな。くく、ひひ……」


 青木は納得していない。苛立ちは増しているように見えた。その様子を新島は引き気味に構えて見ていたが、彼女にも言いたいことがあるらしい。


「あの、教授。命令を撤回したって……『帰ってこい』がもう無効ってことですよね。アリサちゃんはもう帰ってこないんすか?」

「そうだな。あいつにはもう研究室ここに戻る動機がない」

「『帰る』って動機なしに異界に入ったら……そのまま気の済むまで調査して、充電切れになって、もう二度と戻ってこないこともありうるんじゃ……?」

「ありうるな」

「いいんですか?! そんなこと……」

「あれの開発には数十億もかかってる。あれだけの技術的資産が失われるのはたしかに惜しいな」

「そうじゃなくて! アリサちゃんと二度と会えなくてもいいんですか」


 会う。奇妙な表現だと思った。あれは機械だ。だが、人はときとして「物」に対してもそのような表現を使う。人間には擬人化という不治の病がある。


「……それで、心当たりというのはなんですか。この極端な決断も、なにか考えがあってのことなんですよね?」


 青木が呆れ気味に、ため息まじりに尋ねる。


「考え?」

「そうです」

「なるほど。くく。そうか、お前はまだ私を信頼してくれているのか。くひひ」

「……まさか、ないのですか? 先ほどおっしゃった考えで、すべてだと……」

「そうだ。それだけだ。あいつは自由意思で怪異を調査し、その成果を研究室われわれに報告することはない。ただあいつだけが怪異の秘密に辿り着く。そういうことになった」

「教授、あなたは……!」


 なにかを言いかけ、言葉を止める。おおかた「狂ってる」とでも言いかけたのだろう。すでにそれは自称しているし、まさか教授に向かってそう投げかけるには理性がストップをかけたのかもしれない。


「わかりました。ですが、行き先に心当たりはあるのですよね?」

「……それは……」


 心当たりがある、とまでは口が滑った。だが、その先を口にしようとすると奇妙な悪寒が背筋を走った。手が震えていることに気づく。いつからそうだったのか。


「……教授が初めて怪異と出会った場所。そうではありませんか?」


 抑えているつもりだった。実際には、わかりやすく表情に出ていたのだろう。青木にも見破られる始末だ。いつしか青木の顔からは怒りや苛立ちが消え、憐憫が浮かんでいた。


「怪異の怖ろしさは、僕たちも理解しているつもりです。ほとんどはアリサというモニター越しでしたが、それでも、実際にこれを現場で体験したら……と、想像することはできます。谷澤さんの件では僕たちも当事者に近かった。怪異検出AIのおかげで身構えることができ、最悪の事態が避けられている……そう思います。でも、それがなかったら……。教授がはじめて怪異と出会ったとき、そこには想像を絶する恐怖トラウマがあったのではないか。僕はそう考えています」

「…………」

「僕はカウンセラーではありませんし、教授になにがあったのかも知りません。ですが、もしそうであるなら、無理にとはいいません。教授は研究室ここで待っていてください。僕たちがその場所に行きます」

ってなんすか先輩」

「お前も行くに決まってんだろ」

「ダメだ!!」


 つい、声を荒げてしまった。ハッとした顔で二人に見られる。

 つまりは、こそが心傷トラウマだったからだ。理解しつぼうされてしまうということが、怖かった。同じ結末を繰り返すことが、怖かった。


「そんなに危険なのですか?」

「……逃げるしかなかった。私たちは、村から逃げた。だが、妹は、有紗は……怪異に向き合い続けていた。怪異が人間に及ぼす被害を理解していたからだ。その一方で、私は、ただ怖くて……有紗からも距離を取るようになった。そして、有紗は……まだ、あの村にはやることが残っていると……戻っていった。私は、それを止めることも、ついていくこともできなかった……」

「なにがあったんです?」

「それだけじゃない。網谷と、もう一人……今では顔も思い出せないあいつらも、お前たちのように意気込んでいたよ。試行を繰り返し、データを集め、科学的に分析すれば……怪異の正体は明らかになるはずだ、と。もし明らかになったのなら、それは歴史に残るほどの大発見になるだろう、と……。だが、結果は……くく、知っての通りだ。我々は敗走した。再現性など得られなかった。

 桶狭間が言ってたな。怪異を科学の対象だと思うなと。人間の認知能力の限界ゆえに手に負えるものではないと。私も、この考えにほとんど同意だ」

「手を引くべきだというんですか? だったら、なんのためにアリサをつくったんですか。これまでの調査はいったいなんだったというんですか」

「……さあ?」

「谷澤さんのご家族への説明はどうするんですか!」


 このような態度では失望されるのも仕方ない。失望されることを怖れているくせに、それにふさわしい態度が取れない。これが真実の姿なのだからどうしようもない。


「教授! わかったような口利いていいっすか」


 新島が挙手し、指名を求めている。


「なんだ、新島」

「教授はなにがしたいんすか」


 ついに、そこまで言われてしまう。


「私はアリサちゃんを探しに行きたいです。おっちょこちょいだし……なんか心配で。この前の裏世界みたいなことになってたら大変じゃないすか。アリサちゃんは、こう……私のこと助けてくれたわけでもなくて、ドアを開けようとしたりしましたけど……なんだかんだ、気持ち的に頼りになった気はしますし?」

「はっきりしないな」

「教授はどうなんすか。アリサちゃんをつくったのは、アリサちゃんなら怖くて危ない怪異も調査できると思ったからなんすよね。あと、妹さんも探してるとかおっしゃってましたけど……」

「ああ……」


 今、彼らにとってどれほど情けなく映っているのだろうか。白川は自嘲し続ける。

 これではダメだ、このままではダメだと、ずっと思っていた。なのに、ずっと逃げてきた。

 なにがしたいのか? なにがしたかったのか? 怯えて逃げ続けることがしたかったわけじゃない。

 アリサを開発しようとしたのは、開発が終わるまで「あの場所」から目を逸らすことができたからだ。アリサを開発したのは、泣きついて甘えられる人形が欲しかったからだ。アリサの判断基準プライオリティから一気に命令を削除したのは、アリサの不完全性が「そのためではない」と判明するのが怖かったからだ。

 恐怖ばかりが判断基準になっている。情けなさは自覚できている。「その先」が遠い。

 有紗を探したかったのは嘘だったのか? アリサを使って怪異調査を進めたかったのは嘘だったのか?

 嘘じゃない。

 手はまだ震えている。拳を握る。


「お前たちは……放っておいても、おそらく行くだろう。私が口を噤んでも、調べ出してあの場所まで辿り着くだろう。だとするなら、お前たちだけで行かせるわけにはいかない。これは私自身が決着をつけなければならないことだ」

「いいんですか、教授」

「青木、お前が運転しろ。遠出になる」


 青木は買い被っている。命令を解除したならどうなるか、予想できていたはずだと。

 実際には、なにも考えていなかった。ただ恐怖に駆られていただけで、思考が圧迫されていた。アリサが自分の意思で研究室から出て行ったことで、ようやく気づいた。

 あの場所へ向かわなければならない、と。


「私がアリサに下していた命令は他にもあった。あの村は調べるな、だ。調査対象の候補としてずっと上にありながら、私の命令が堰き止めていた形だ。その堰が外れたなら、調査に行くだろう。そして、そこにはおそらく妹――有紗もいる」


 ついに、告げる。


「アリサの向かった先は、私の故郷――月見村だ」


 暗い道でなくしたものは、暗い道を探す。

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