幽冥寒村
ぽす、っと背中に手毬を投げつけられる。
口下手な妹は、用があるときいつもそうやって姉の気を惹く。
「ん? ああ、これか?」
届いた荷物を父から受け取っていたときのことだった。
「ふふん。じゃーん、メガネ型カメラだ。あとはマイクもな。これで、前から言ってたことに着手できる」
妹の有紗は、生まれたときから
第三次AIブーム。
興奮しながら機械学習について学び、理論と実践について理解した。辞書を駆使して英語の論文も読んだ。そうして独学で画像認識と音声認識のAIを開発した。車輪の再発明だったかもしれないが、自分で仕組みを理解しなければ本命である応用に移れないと考えたのだ。
「それとデスクトップPCだ。かなり高かったが……まあ、必要経費だ」
父に買ってもらったノートPCでは性能に限界を感じていた。深層学習は膨大な計算量に依存するからだ。ゆえに、最新ハイエンドのグラフィックボードを搭載したPCを新たに購入した。作業効率を上げるためディスプレイモニターもデュアルだ。さすがに重いので部屋まで運んでもらった。これで必要な機材は揃った。
「金? それなら問題ない。姉ちゃんはアプリ開発でだいぶ儲けてるからな」
白川有栖は中学生の時点で普通口座に預金残高が五百万円もあった。妹のためなら、私財を投じることになんの躊躇もなかった。
「方法は簡単だ。眼鏡をかけろ。そしたら、お前の視界がほとんどそのまま撮影できる。確認するぞ。……よし、映ってるな。それで、おばけがいると思ったらこのスイッチを押せ。おばけが見えてる間はずっと押しっぱなしにするんだ。おばけが見えなくなったら離せ」
それが有栖の考えた教師データの収集法だ。
有紗はおばけが見える。そしてそれは、どうやら写真や映像にも映るらしい。妹が何度「ここ」と示しても有栖には見えなかった。拡大しても、レベル補正を入れても、階調を反転させてもなにも見えない。
有紗が「嘘をついている」か、「おかしい」のだと考えるのが自然だった。それでも、有栖は妹を信じた。きっと、ふつうの人間には見えない「なにか」があるのだ。
人間には見えない。では、
有紗が「見える」とする画像を大量に収集し、また「見えない(映っていない)」とする画像と比較し特徴量を生成することで、AIならばその差異を発見できるのではないか。その仮説を実証するための準備が今日、整った。
「有栖はすごいな」と父は褒めた。
だが、本当にすごいのは妹の有紗だ。有紗には「霊が見える」という誰にもない才能があった。
幽霊、妖怪、魔物、おばけ。何千年も前から語られつつも、実在する証拠は一切発見されなかった超常存在。統計的には「ない」と断じて差支えのない、科学にとっての興味の外。オッカムの剃刀によってあえなく削ぎ落とされる幻の夢。
だが、仮に「いた」のなら。
逆説的に、それは既存の科学を揺るがす大発見となる。
白川有栖の心には、そんな野望も密かにあった。
「本当にすごいのは有紗だよ」
奥で隠れるように見ていた妹にもそう伝えた。
姉がよく褒められるためか、有紗は父を避けているように見えた。嫉妬しているのか、単なる反抗期なのか。だから、有紗のことは姉がよく理解していると、頭を撫でながら伝えてあげた。
まずは村を見て回った。「おばけがいる」と言って有紗が怖がる場所には多く心当たりがあった。神社、廃屋、竹林、田圃、辻。有紗は震えながらも映像を撮影し、「おばけがいる」とボタンを押す。有栖は後ろからついてノートPCでその様子をモニターしていた。
帰宅後、撮影した映像を有紗といっしょに眺めてより詳細に「おばけがどこに映っているか」を指摘してもらう。データの精度をより高めるためである。
やはり、有栖におばけは見えない。だが、一つ例外があった。近所でよく出会うおじさんである。一見して生身の人間だが、有紗は彼がおばけだというのだ。
人間のふりをするおばけもいる。そう考えると、有栖は少し怖くなった。
「大丈夫だ。お姉ちゃんが守ってやる」
そういって、妹の震える肩を抱いた。おばけのデータを収集することは妹に怖いものを見てもらうということである。つらい思いをさせることにはなるが、結果としてそれは妹のためにもなるはずだと言い聞かせた。世界が、科学がおばけを認知すれば、おばけを退治することだってできるだろう。
妹を守らねばならない。妹のことをわかってやれるのは、今は姉一人なのだ。
次に、夏休みを利用して遠出し、より多彩なデータを収集する。二人で電車に乗って街へ繰り出し、山や海、動物園や博物館にも行った。息抜きにお寿司を食べたり、ホテルに泊まってビュッフェを満喫した。インターネットで噂話を見つけては「本物っぽいか」を妹に問い、現地に行って真偽を確かめたりした。そのとき、自然言語処理によって「噂話の真偽判定」も必要になるのではないかとデータベースの用意をした。
傾向として、よく「出る」とされる心霊スポットにはたしかに「出る」らしい。墓場、トンネル、病院、学校、トイレ、電車。時間帯としてもやはり夜だという。
ほとんどは遠目で「おばけがいる」というデータを撮るに留まった。ただ、深入りしすぎて身の危険を感じる思いをすることも何度かあった。
夜の墓場で見かけたおばけが、ずっと後ろをついてきているというのだ。
妹は「絶対に振り返らないで」と袖を掴んで泣きついた。そのときばかりは有栖にも見えた。ショーウインドウやカーブミラー越しにその影が映っていたのだ。しばらくして去っていったが、そのとき「背後にもカメラがいる」と有栖は気づいた。
おばけと一言でいっても、そのありようは様々であることもわかった。分類を試みるうちに「おばけ」という呼称があまり正確でないように思え、「怪異」と呼ぶことにした。
一定の場所に佇むもの。特定の人について回るもの。物に憑くもの。人間の姿をしているもの。形容しがたい異形のもの。異界の入り口となるもの。実体を持たないもの。一見して変哲のないもの。有栖にも見えるもの。
本当なのか、と疑わしいものもたくさんあった。それでも、「妹は正しい」という前提で根気強く研究を続けた。もしこれが正しければ、世界中を科学者を出し抜いて牛蒡抜きで「真実」に迫ることができるのだ。
もっとよく見えるカメラが要る。光増幅率が高く、画素数が多く、時間分解能の高いカメラだ。街へ繰り出したついでに電機店に寄ったり、あるいは最新の研究に携わる大学の研究室にも訪問した。
もっとよく聞こえるマイクも欲しかった。人間の可聴域の外にもおばけの実在を示すヒントがあるのではないかと思ったからだ。実際、妹は超音波を聞き取る聴力を持っていた。
匂い検知デバイスも欲しかった。研究の途上にはあったが、AI開発の過程で多くの専門家と交流し伝手ができていたため、なんとか入手することができた。
ただの旅行とは思えないほど大金が溶けていったが、データの精度はますます上がっていた。
そうして、二年かけて六百時間に及ぶ教師データの映像を撮影した。
過学習を避けるためデータを分割してモデルを作成する。小分けした学習データをランダムにシャッフルして繰り返し学習させ最適化する。誤差逆伝播によって精度を高める。隠れ層のニューロンをランダムに欠落させて頑健性を高める。次第にマシンパワーの不足を感じ、百万円超の業務用ワークステーションを取り寄せた。
さらに追加データを収集したり、最新の研究論文を追いかけ異なる最適化手法を試す。知り合った専門家にも意見を求めたが、「怪異の見えるAIを開発している」とは言えなかったので核心に迫る質問は難しかった。何日も徹夜しながら調べ、試し、失敗した。初歩的なミスによるバグに一日が潰されることもあった。一週間以上マシンに計算させっぱなしで室温が過熱したこともあった。学校での授業はそっちのけでノートにUML図やコードを書いて考えをまとめていた。
試行錯誤の連続で、ようやくAIの判定に有意な結果が出た。テストデータによる正答率が80%を超えたのだ。
「有栖はすごいな」と父は褒めた。
その言葉が支えだった。そうだ、私はすごい。一人だけ見えてしまっている妹の世界に、歩み寄ろうとしている。あるいは、世界をひっくり返すような大発見になるのではないか。そんな期待もあった。妹を隣にインタビューに応える。そんな妄想にほくそ笑む。
一方で、少なからず恐怖もあった。
怪異は、本当にどこにでもいた。
こんなにも怪異の溢れる世界で平然と生活していたのだ。
ネット上に溢れる多くの怪談を妹にも読んでもらった。有栖の目からすれば、多くが他愛のない創作であったし、妹にとってもそうだった。しかし、その一部には「たぶん本物」というものが含まれていた。
それらの怪談では人死にが出ていることもある。つまり、怪異は決して無害ではない。
だが、その恐怖の根源は実害の有無とは別のところにあるように感じられた。
小学生のころから大人向けの学術書を多く読み漁っていた有栖は、自らの知能に自信を持っていた。教師を圧倒する知識量を持ち、最高権威ともいえる学者からも認められていた。
そんな有栖にもわからないものがあった。それが妹に「見えている」ものだ。
皆が妹を嘘つきと呼ぶので、妹は次第に「見えて」いることを口に出さなくなっていた。それでも、妹がいつもなにかに怯えていることに有栖は気づいていた。
「私にならできる」と、有栖は思った。
妹の見えているものを理解し、白日に晒すことが、賢く聡明で思慮深い天才児である白川有栖にならできると、そう思った。
だが、まだわからない。
少しずつ「見る」ことはできるようになった。妹のいうよう、「いる」ことは間違いない。
それでも、わからない。
それが、ただ怖い。
そしてついに、「怪異検出AI」が完成した。少なくとも、Ver1.00と銘打ってもいい。
さらに通販でVRゴーグルも購入した。これにカメラを付随させ、撮影した映像をAIで処理し、HUDを重ねて表示させる。つまり、これで妹と同じ視界が得られることになる。
ぽす、っと背中に手毬を投げつけられる。
口下手な妹は、用があるときいつもそうやって姉の気を惹く。
「ん? ああ。なるほど、有紗は14%で怪異か。結構高いな……まだ精度が甘いか? ま、いろいろ見てみよう」
部屋に怪異はいない。それはそうだ。多くの
部屋を出て、有栖はダイニングに佇む男性の姿を視界に捉えた。
「ふーむ、父さんは……っと。あれ?」
設定ミスを疑い、再起動や調整を繰り返す。だが、結果は同じだ。
「あれ? あれ? あれ?」
映し出されている数字の意味が理解できない。バグっているのはAIか、自分の頭か。
「怪異の確率……99%……?」
心臓が嫌な音を立てはじめた。呼吸が乱れて、酸素の摂り方を忘れる。手足が痺れて、平衡感覚がなくなっていく。肩から体温が抜けていく。
怖ろしい考えが頭の中を駆け巡る。それが真実なのだと、頭の血管が破裂しそうに痛む。
慌てて、彼女は仏間へ向かった。盛大に転んで、VRゴーグルが弾け飛んだ。
「あ、ああ……ああああ、あああああ……」
父はすでに死んでいる。五年前だ。
そして、遺影に写る顔と、居間にいる男は、まったくの別人である。
「あ、あぐ、あ、あああ、あぅぅ……」
立ち上がれない。内臓が冷え、吐き気が込み上げてきた。
母の病死をきっかけに、この村まで引っ越してきた。長らくは父が一人で家庭を切り盛りしていた。そして、父までもが原因不明の死を遂げた。
五百万円もの預金は、自分で稼いだものではない。父の遺産だ。それを調子に乗って、散財し続けてきた。授かっただけのものを、自分の力と誤認して、愚かにも浪費し続けていた。
「なぜ、そんな……うそだ……それなら……あ、あああ、ああああ……」
妹はずっと見えていた。ずっと知っていた。だけど、耐えてきた。何度訴えても耳を貸さないため、諦めた。実害がないならと、耐えてきたに違いない。見知らぬ男を父だと思い込む姉を、不気味に思いながらも、生活自体に問題はなかった。自分ひとりさえ耐えれば問題ない。だからきっと、耐えてきたのだ。
料理も、掃除も、洗濯も、家事はすべて妹が一人で。
手毬を背に投げるのは、そんな葛藤の末の、ささやかな。
妹を守ってやると意気込んでいた。だが本当は、守られていたのは。
「うげぇぇ……! げぇっ、げぇぇ……!」
吐いた。思い上がって食べ散らかした高級スイーツを残らず吐いた。仏間の畳をぐちゃぐちゃに汚しながら、吐いた。
近所でよく会う知らないおじさん。
それが家にいるだけで、なぜかそれを、ずっと父だと思い込んでいた。
「は、はは……ひひっ! げはっ、ははっ……ぐひゃひゃ! げひゃひゃひゃ!!」
白川有栖の
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