非訪問者

 梅雨が近い。小雨の降る夜道を、彼女は一人歩いていた。

 もしかしたら傘はいらないのでは、という程度の雨は弱まりつつあったが、今さら畳む理由もない。右手のコンビニを通り過ぎると、自宅はもうすぐそばだからだ。


(うーん、なにかアイスでも買って帰ろうかな)


 と、ふと立ち止まる。冷凍庫の中を思い浮かべ、まだストックがあったことを思い出す。再び歩き出すと、彼女は背後に奇妙な違和感を覚えた。

 足音が自分のものだけではない。

 振り返る。誰もいない。

 この時間の帰路は一人でいることが多い。遠くで車の走行音が聞こえるくらいで静かな道だ。気のせいか、と再び歩を進める。

 カツ。カツ。ピチャ。ピチャ。ピチャ。……ビチャ。

 やはり、足音が多い。心臓が跳ね上がるような気持ちで、振り返る。

 誰もいない。

 彼女は怖ろしくなり、急ぎ足でマンションに駆け込んた。


「――って、ことがあったんすよ」


 と、新島ゆかりは先輩の青木大輔に訴える。


「ストーカー?」

「おばけっすよ! 話聞いてなかったんすか?」


 後輩の必死の訴えに対し、青木は興味なさげだった。


「尾けられてたっぽいのは何度かあったんすけど……昨日はですね! なんと部屋まで! インターフォンが鳴ったと思ってモニターをつけても誰もいなくて」

「ピンポンダッシュ?」

「マンションでピンポンダッシュなんてしませんよ! オートロックっすよ! それからゴミ袋も荒らされてて……」

「やっぱストーカーじゃん」


 怪異はいる。これまでの調査でそれは共通理解になっているはずなのに、なぜ信じてくれないのか。新島は理解に苦しむ。


「いやだって新島、これまでもそれっぽい怪奇体験してきたんだろ?」

「してきましたけど」

「これまで気のせいかな、で済ませてきたんなら今回も気にすることないって」

「これまでがそうでも今回がそうとはかぎらないじゃないすか」

「いちいちもっともらしい……。んー、それで? 対策を相談したい?」

「そうっすね。その、あれです。アリサちゃんの次の調査対象、私とかちょうどいいんじゃないかなって」

「なるほど?」


 青木は教授の席を見る。今は中国への出張で留守だ。アリサの方はメンテナンス・チェアに座っている。


「とはいっても、教授がいないからなあ」

「いつ帰るんすか?」

「一週間くらいかな。特に今日は忙しいはずだから連絡するにも明日だね」

「明日じゃ遅いんすよ! 先輩は可愛い後輩が帰らぬ人になってもいいんすか」

「だからってアリサが守ってくれるとは思えないけど」

「一人よりはマシです」

「そんなに怖いなら今日は友達のとこにでも外泊したら?」

「どうせなら専門家を頼りたいじゃないですか」

「アリサには調査能力はあっても退治能力はないけど?」

「なにごとも知ることからっすよ。正体がわかれば対策もわかるはずです」

「んー、わかったよ。教授にはチャットで連絡入れておくけど。お忙しいと思うよ?」

「やった! 先輩大好き!」

『おう。新島。怪異に家を訪ねられたって?』


 忙しいはずの教授から秒も経たずに音声通話が返ってきた。二人は目を丸くする。


「え。教授、いま学会じゃ」

『これは私じゃない。だ。多忙時に応答を任せるのに使えるかと思って開発したんだ』

「そ、そんなんできるんすか」

『私が私自身の言動を十二年に渡って記録している話はしたよな。その膨大な記録はAIで管理しているが、ただ遊ばせるのももったいないので教師データとして人格を再現してみた。ま、古典的な技術にマシンパワーでものを言わせてるだけのお遊びだよ。アリサに比べればな』

「は、はあ」

『用件は青木の要約でだいたい理解した。怖れていた事態の一つが起こったようだな』

「怖れていた?」

『アリサを使っているとはいえ、研究室も怪異から無関係ではいられない。たとえば「映像を見た」、というだけで呪われるなんてのはいかにもありそうだろ。怪異というのは、そういった「ありそう」だという隙に棲む。怪異に対して安全圏などない。やめていった連中はそのへんを肌で感じたんだろ』

「つまり私は、これまでの調査を通して呪われてしまった……?」

『それはわからんがな。この件については事前に「本人」から指示がある。ゆえに「私」の権限で判断を下すことが可能だ。研究員に怪異の被害が及んだ場合は、この解決に全面協力する。つまりは新島、お前にアリサを貸そう。役立ててくれ』

「やった! 教授大好き!」

『くく。「本人」に伝えておこう。アリサについては、機体のメンテナンスは終わっていていつでも動かせる状態のはずだ。汎用自律AIの判断基準については……まだ、不十分だが……』

「つまりこれまでと変わってないってことっすよね?」

『そうだな』

「なら大丈夫っす!」

『そうか? まあ、青木も疑っているとおり本当に怪異かどうか――というのは疑問だが、いずれにせよアリサの能力は役立つはずだ』

「……教授のAIってことらしいっすけど、責任能力どうなんすか。『本人』に伝えた後でやっぱなし! とかないですよね?」

『いちいち疑り深いやつだな。どのみちアリサは「私」の命令では動かん。暇ができたら「本人」から直々に命令を出す。まあ数時間後だ。それくらいは待てるだろ?』


 通話が切れる。


「教授、思った以上にあっさり許してくれましたね。AIですけど。守ってくれるらしいですよ、私たちのこと」

「ああ。僕も驚いてる。新島の虚言かもしれないのに」

「なんてこというんすか」

「教授はあれでも結構面倒見はいい人だからね。でも、今回のは優しさとは少し違うかもしれない」

「またまたぁ。自分がそうだからって他人にも投影するのダメですよ」

「真面目な話だ。教授にとって怪異調査は、どうにも科学的な興味とは違うところにある。ともすれば世紀の大発見ともなり得そうな研究だけど、そのあたりには興味なさげに見える。あるのは、もっと個人的な動機だ」

「妹さんがどうとか……いってましたよね」

「そうだ。引っかかっているのはそれだ。教授は怪異に強く怯えている。過去にも怪異に出会っている。怪異に心当たりがあったはずだ。なら、なぜその怪異を調査しない?」

「そういえば。あれじゃないですか、電車の出発駅みたいに。忘れちゃったじゃないすか」

「かもね。ただ、教授は『なにか』を意識的に避けているように見える」

「トラウマ、なんすかね?」

「トラウマを克服するためのアリサだろ? まあ、どちらにせよ個人的な事情なら深入りはできないけどね」


 ***


 新島ゆかりの住むマンションは近城大学から徒歩十分の位置にある十階建てである。大学から近いため友人らの溜まり場にされがちなのがもっぱらの悩みだ。


「アリサちゃん、どうすかこのマンション」

「特に怪異は検出されません」


 マンションそのものに異常はないらしい。それもそうだ、ここには三年以上住んでいるが怪奇体験はこれまでせいぜい二、三回しかない。

 新島の部屋は三階だ。エレベーターに乗って向かう。


「ささ、入って」


 部屋の鍵を開けると、ブォォォ……と鳴り響く音が聞こえた。毎週この時間に自動起動させる設定にしている床掃除ロボットだ。


「このマンション、ペット禁止だから代わりにね。ルンルンだよ。仲良くしてね」

「私にこんな弱いAIと仲良くしろと?」

「え、ロボットなのにロボット差別するの?」

「人間だって人種差別するではないですか」

「あー、同族嫌悪みたいな」

「私はこんなのと同族ではありません」

「差別意識高ぁ……」

「アンドロイドジョークです」

「ほんとぉ?」


 ロボットであることを前提にした会話ではあるが、まるで気のおけない友人との軽口だ。人間との区別はほとんどつかない。先の「教授のAI」もいまだに教授の一人芝居だったのではないかと疑わしく思っている。

 製品の故障率のようなものかもしれない、と新島は思った。一週間使っただけで壊れるような製品は欠陥品といっていいが、それでも一週間使ってみないことにはその欠陥は明らかにならない。会話のできるAIも最初のうちはそれらしくても、繰り返し使うごとにボロが出る。

 谷澤と「あの女」の件で、新島はそれを強く感じた。

 人間らしく見えても、根本的な行動原理が人間とは異なっている。アリサがいれば怪異に対してはなんとなく頼もしい気がしていたが、逆に状況を悪化させることもあるのではないかと不安になってきた。


(なんかワクワクもしてきたけど)


 部屋の間取りは一人暮らしにちょうどいい1DK。玄関から入って右手にキッチン、左手にバスルーム。扉の先は八畳ほどの洋室で、床にはカーペットが敷かれ、右手にベッド、中央にローテーブルと座布団、左手にはデスクトップPCやTVが並ぶ。さらにその奥はベランダだ。ペットは禁止なのでサボテンを育てている。

 ルンルンの道を通すため、そして定期的に友人がたまり場にするために整理整頓のできた部屋だと新島は自負している。鞄をベッドの上に放った。机の上とベッドの上は例外だ。ルンルンの通り道に関係ないからだ。


「どしよっか。夜になったらおばけが来るかもだけど」

「玄関前にカメラを設置しておきます。インターフォンのモニターでは精度が悪すぎますので」

「じゃ、お願いするね。私は課題やらなきゃ……」


 と思ったがすぐに飽きて、研究室のサーバーにアクセスしてこれまでの記録映像を眺めていた。気になることがあった――というより、気になることしかなかった。


「桶狭間さんって、本物なんすかね」

「偽名です」

「本物の霊能者なのか、ってことっすよ」

「怪異の消滅は確認できました。それが本当に彼の能力によるものだったのか、という疑問ですか?」

「そうっすね。たとえば……はじめから桶狭間さんは怪異とグルだった、とか」

「彼自身は人間です」

「人間でも、こう、なんか」

「怪異とグルになれるような人間は霊能者と呼べるのではないですか?」

「まあ、うん。考えてみればそんな大仕掛けで騙す相手がアリサちゃんだけってのも変か……」


 疑い出すとキリがない。なにを信じればいいかわからない。

 怪異と相対するというのはそういうことだと、教授は話した。教授の記録映像によれば新島もまた認識改変の影響を受けていたらしい。しかし、今になって考えれば映像の偽造くらい教授には容易いはずだ。では、怪異はどうか。映像に干渉する類の怪談は複数例思い浮かぶ。

 では、なにを信じればいいのか。どんな仮説を立ててもパズルのピースがはまらない気持ち悪さがあった。


 そんなことを考えながら、夕食にはピザをとる。思わず二人分頼みそうになったが、アリサにとっての食事は充電だ。電気代とピザ、どっちが高くなるのだろうか。

 夜も更け、課題の続きをちょっとだけ進めて、眠くなってくる。


「昨日は二時くらいに訪問があったのですよね」

「うん。丑三つ時」

「あと五分ですので、通知リマインドも兼ねて確認しました」


 昨夜、インターフォンが鳴ったのは事実だ。帰り道を尾けられていたような足音もあった。妙な怖気もあった。とはいえ、また訪問があるとか、本当に怪異だったのかと信じているかというと微妙なところだ。青木にはそのあたりを見抜かれていたのだろう。

 だが、「怪異はある」と知ってしまった。「もしかしたら」が頭から離れない。これまでなら「よくあること」で済ませて、ちょっとした「怖い話」になるだけだった。なのに、漠然とした悪い予感が胸を締めた。


「二時になりました」

「まあ、二時になったからってすぐ来るわけじゃないし……」


 ピンポーン。


「姉さん。来たよー」


 新島にとって、よく知った声だった。

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