異界案内
114kgの重量を受け、車体が沈み込む。運転手もそれを感じ取ったのだろう。
「お客さん、ずいぶん重そうなお荷物ですね。お疲れでしょう。どちらまで?」
「近城大学・理工学部キャンパスまでお願いします」
帰還目的だけなら、タクシーに乗る必要はない。研究室に連絡を入れ、迎えに来てもらえばよい。それでもタクシーを選んだのは、そこから怪異が検出されたためである。
「へえ。お客さん、怖い話とか好きなんです?」
いくらか話しているうちに、そういう流れになった。
「いやぁ、タクシーといえば定番ですよね。アレ。変なお客さんを乗せてしまったなあと思って、目的地について後ろを見たら……誰も乗ってない! 代わりにシートが濡れてるっていう。まあ、私は体験したことないんですけどね。一度体験してみたいなあ、という気持ちもありつつ、でも無賃乗車なんて最悪ですよね。はは」
ただし、今は逆のパターンだ。
「――と、私自身の体験は残念ながらないんですが、こうしてお客さんと話す機会は多いですからね。伝聞でよろしければエピソードはありますよ。たとえば、そうですね。ふと気づいたら見知らぬ異世界に迷い込んでいたり。死んだはずの人に出会えたりとか。なんだかんだ戻っては来られるみたいですけど、多いらしいですよ。最近、そういう人」
話すうちに、タクシーは目的地である近城大学まで到着した。
二十二時。もう夜も遅い。ただし、大学はどの建物も明かりがついており、眠っている気配はない。
「三一五〇円です」
支払いを済ませると、タクシーが去っていく。
タクシーには明確な怪異の気配があった。乗車中約二十分ほど会話を続けたが、不自然な応答はみられなかった。「チューリング・テスト」なら間違いなく合格だ。
怪異といっても、必ずなにか異常現象を起こすわけではないのか。平時は特に変哲のないタクシーとして振る舞うことがあるのか。「怪異は再現性を避ける傾向にある」――桶狭間とのやりとりで生じた仮説が連想される。
検証すべき疑問は多数生じたが、バッテリー残量は少ない。速やかな充電が必要だ。
時刻は十九時。アリサは近城大学の正門に向き合う。理工学部キャンパスの敷地面積は約8ha。白川研究室はキャンパス中程の五号館に位置する。
守衛所を過ぎ、両側をケヤキに挟まれた道を抜け、噴水のある広場へ足を踏み入れる。ここまで来るとコニファー越しに管理棟、実験棟、図書館が視界に入る。すべての建物に明かりがついている。屋内の様子までは正確には把握できないが、少なくとも屋外に「人の気配」はない。ここでいう「気配」とは主に「人の姿」並びに「人の声」や「動作音」を指す。時間帯から考えて、確率的にはありうる状態だ。響くのはレンガタイルを踏むアリサの足音だけである。これは文字通りの意味であり、「風の音」すら検出できない。葉が揺れることもなく、水面が波打つこともない。
五号館に足を踏み入れてもなお、同様である。アリサの聴覚センサは同じ建物内であれば高い精度で音を拾える。一部の蛍光灯から異音が検出されるだけで、人が発している音は一切検出されない。
同時間帯、たしかに人は少ない。それでもゼロである確率は低い。現状は「異常」と認められる。
白川研究室は四階に位置する。エレベーターを呼び出す。
待っている間に一階の講義室や教員室を調べる。いずれも鍵はかかっていない。扉を開けて視覚的にも確認するが、すべての部屋で明かりがついているにもかかわらず人はいなかった。
この「異常」に対する解釈はおおまかに二つある。
①なんらかの理由で大学関係者全員が出払っている。
②現実の近城大学を似せてつくられたハリボテ。
これを検証するにはバッテリー残量が十分ではない。まずは充電が優先される。調査を中断し、白川研究室へ向かった。
明かりはついている。部屋の配置も記録と変わりはない。それぞれの机の上にはモニターディスプレイ、プリンタ、スキャナなどのPC付属品。各書類や書籍、メモ書きに筆記用具。電動ドライバー、レンチ、ニッパー、はんだごてなどの工具。バッテリーやタブレットPCも散らかったままになっている。
だが、誰もいない。すべてのPC、すべての装置、すべてのロボットが停止しており、物音を発する物体は一切存在しない。
奇異な状況を前に、情報処理のためまたしても電力を消耗した。アリサは充電装置へ向かう。限界が近い。
充電装置は「メンテナンス・チェア」とも呼ばれる。その名の通り椅子、あるいは手術台のような構造をしており、アリサを待機させたりメンテナンスのために利用される装置である。座った状態で腹部のバッテリーに給電でき、上半身や両腕を支持台に吊るして保持することもできる。また、人工筋肉の断線を診断するスキャナも備わっている。
やはり起動していないが、起動方法ならびに操作方法は理解している。この装置を利用すればある程度のセルフメンテナンスも可能である。
充電という行為をあえて人間で例えるなら、エネルギー補充という意味では「食事」が近いように思える。あるいは、人間行為に関するあらゆる文献とパラメータの状態遷移を比較した場合、「風呂」との類似関係も認められる。であれば、その状態は「安らぎ」とタグづけられるものかもしれない。
しかし。
その「安らぎ」が訪れることはなかった。
装置は起動している。だが充電ができない。未知のエラーを検知し、プラグを抜く。詳細を検討するにはバッテリー残量が足りない。無駄な動きは極力避けなければならない。各種機能をオフにし、省力に努める。画像処理に割く電力も余分であるため視覚センサもオフにする。
『ん。ああ。もしもし。どうした?』
よって、白川教授へ連絡を入れる。ここが「異界」であるという判断を迷っていたのは、通信が途絶していなかったためである。
「問題が発生したため連絡を入れました。帰還困難な状態です」
『ほう。今どこにいる?』
「白川研究室です」
『研究室? いや、私もそうだが……どういうことだ?』
やはり②だ。その旨を教授に伝える。
『なるほどな。タクシーに連れられた先が異界か。よくある話だな。つか、三一五〇円? 青木に連絡入れろよ。あいつならタダだぞ』
「タクシーは移動します。逃せば再び捕まえられる可能性は低いと考え、優先度を上げました」
『そうか。よし、送信されてきたパラメータの状態も確認できた。バッテリーもあと5%か。ピンチだな。エラーも確認したが、なぜか充電できないって? 電灯はついてるし、エレベーターも動いたんだよな?』
「はい」
『となると、わからんが……なにか規格が違うのかもしれん。多少の電圧差や周波数が問題になるはずはないんだが』
「どうすればよいでしょう」
『その異界では充電はできないと考えるべきだな。下手に動くな』
「わかりました」
『お前は、もういらん。そこで朽ち果てろ。じゃあな』
通話が切れる。これまでにない新しい命令が追加された。
「動くな」という命令には合理性が認められる。アリサのAIも近い判断に至っていた。エネルギー回生を踏まえてなお、人工筋肉の伸縮で消費される電力が最も大きい。
であれば、残された電力量は思考に回すべきだ。これまで得られた情報だけでも推論エンジンを回すことで有意な答えは得られるはずだと統計的に判断できる。残された電力量をすべて投じることで「朽ち果てろ」という命令を実行する。
この「異界」についてまず注目すべきは、ネットワーク接続が正常であることだ。これまで経験した「異界」はすべて外界との通信が途絶していた。ここでは教授とも通話でき、GPSも機能している。現在地はたしかに近城大学である。
ネット上を検索すれば類似の「怪談」はいくらか発見できる。逆説的に、ネットへの接続可能な「異界」でなければ話が伝わるはずはないからだ。帰還には失敗しても、これまでの記録をアップロードできればこの「異界」を訪れた意義は果たせる。
この「異界」で再現されているのは近城大学だけだろうか?
タクシーから降りた直後、周囲の風景も再現されていたのは確認している。タクシーに乗っている最中も、いつ「異界」へ迷い込んだのか境界は認識できなかった。大学を出て外を広く歩き回ればより正確に確認できるが、これは命令に反する。タクシーの座席にGPS追跡機を置いたままにしている。その軌道は地図上に今も表示されている。
バッテリー残量は、あと4%。
ここから帰還する方法があるのか?
命令に反するため、これは単なる思考実験だ。タクシーが原因で「異界」へ連れられたのなら、同様にタクシーに連絡し迎えてもらう。ただし、通常のタクシー会社では「現実」の近城大学へ迎えに行く可能性がある。同じタクシー会社であれば望みはあるが、記録に基づいて検索をかけてもヒット件数はゼロだった。
バッテリー残量は、あと3%。
なぜ充電できないのか?
コンセントからの充電はできないが、研究室に備え付けのバッテリーではどうか。おそらくできない。なんらかの規格が異なるなら、分解によるリバースエンジニアリングで構造に違いが見られるはずだ。あるいは、この「異界」では電子の挙動そのものが異なるのか。だが、少なくともマクロな運動系で「現実」との差異は見られない。
バッテリー残量は、あと2%。
「ア、アリサさん……?」
電力消費を抑えるため外部センサの感度も下げていたため、目の前まで迫られ声をかけられてはじめてその存在に気づくことができた。
声には覚えがあった。類似するパターンがデータベースに登録されていた。
「えっと、ここが白川研究室……? やっぱり誰もいない……。つまりあれだよね、あのときと同じってこと……」
視覚センサを起動し、彼女の姿を確認する。タイトスカート。白いニット服。身長156cm。推定体重49kg。推定年齢二十代後半。フルリムの赤縁眼鏡。
すなわち、貝洲理江子である。
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