共死蠱惑③

 高校生のころ。修学旅行のときだった。突然教師に呼び出され、なにごとかと思った。

 その話を聞いたとき、彼は地面がひどく頼りないものに思えた。言葉の意味が理解できずに、なにも信じられなくなった。

 両親が死んだ。それも、交通事故などではない。夫婦喧嘩が激化し、互いに刺し合った。

 そんな、信じられない話を聞いた。

 修学旅行に向かうほんの数日前にも、そのような兆候は一欠片もなかった。教師による悪質な嘘としか思えなかった。

 葬儀に出ているあいだも、ずっと茫然自失の状態が続いた。親戚がなにやら声をかけていたが、なに一つ覚えていない。だが、耳に入った噂については覚えている。

 父の浮気が原因だった、というのだ。

 ショックだった。考えたこともなかった。なにも問題のない円満な家庭だと思っていた。テレビの向こう側にしかないと思っていた悲劇が予告なしに降りかかってきた。


 本当の原因が知りたかった。そんなことがあるはずがないと、真相が知りたかった。

 探偵の真似事をして、あらゆる関係者に聞き込みをした。近所の住民、父の職場、警察――とにかく聞き回った。子供だからと相手にされないことも多かったが、それでも根気強く聞き続けた。なけなしの小遣いから本職の探偵にも頼った。

 結果、父の噂は本当だった。父は浮気をしていた。

 だが、問題はその相手だ。

 まるで知らない女だ。どれだけ調べても、その素顔が浮かび上がることはなかった。手に入ったのは、ピンボケした写真か、後ろ姿の写真だけである。


 そして二十年。

 探偵の真似事をするうちに本当の探偵になり、心の片隅で痼りのようにあの事件を思いながら仕事を続けていた。いつか、なにか新しい手がかりが得られるのではないかと、空想のような希望を抱きながら。

 それは叶った。早い段階で予感がしていたにも関わらず止めることができなかった己を呪った。幽霊のようなあの女は、本当に幽霊のように、二十年前と変わらぬ姿で再び彼の前に現れた。次こそは逃すまいと部下に女の追跡調査を指示した。自分で調べなかったのはなぜか。きっと、怖かったからだ。結果、その部下までも失い、重い後悔と自責の念に押し潰されそうになりながらも、しかし。

 高揚していた。ついに真実に迫ろうとしていると、興奮を覚えた。

 父の汚名を晴らすことができる。両親は、あの女に殺されたのだ。


 そして今。

 どういうつもりか、あの女は両親の墓の前に立っている。


(私には、すべてを終わらせる責任がある)


 谷澤宏一は懐より刃渡り20cmのナイフを取り出した。明らかな銃刀法違反である。あの女を確実に殺すため用意した凶器だ。あの女は怪異なのか。特異な能力を持った人間なのか。いずれにせよ、実体はある。実体があるなら、刺せるはずだ。


(思えば、私の人生はあの女を殺すためにあったのかも知れない)


 憎しみや復讐心がないわけではない。だが、それ以上にあるのは使命感であり責任感だ。日常の裏側に、人々を狂気に蝕む怪異が潜んでいる。白川研究室から怪異に関する依頼が来たのも、偶然でもあり探偵業をここまで大きくした結果の必然でもある。

 つまりは、運命だ。


(あの女を殺せば私は殺人罪か? それでも)


 ナイフを構え、駆け出す。なにも言わず、真っ直ぐに、女を刺し殺す。被害の拡大はそこで止まり、正体も白日のもとに晒されるだろう。


(死ね――)


 しかし。

 あの女が振り返り、その顔を見せたとき。

 ナイフを握る手が痺れた。足が震え、覚束ない。


(まさか、そんな、馬鹿な)


 刺し違えるつもりだった。

 顔を見ることが狂気の引き金でも、殺す前に一目見てやろうと、それだけのつもりだった。その結果、狂気に侵されるとしても、警察に勾留され家族と引き離されるなら被害は広がらない。事実、修学旅行で両親と離れていた自身が無事だったのだ。

 そんな、浅はかな考えだった。


(うそだろ。こんな、これほどの。なんて――)


 その顔を見てしまったなら、跪いて首を垂れるしかない。

 そういうものだと、理解してしまった。

 谷澤は、せめてもの抵抗として、ナイフを深々と地面に突き刺した。


 ***


「谷澤さん?!」


 その光景を、青木と新島はモニター越しに見ていた。

 谷澤がナイフを握り、明らかな殺意を持って向かっていた。それもまた理解しがたい光景だったが、その先。彼は女の顔を目にした途端、脱力したように膝から崩れていった。

 途方もない異常事態が起こっている。わかるのはそれだけだ。


「アリサ! なにが起こっている!」


 現場にはアリサがいる。この状況の理解に最も近いのは、アリサであるはずだ。


『顔を見せることを条件に、彼女には人を支配する力のようなものがあるのではないかと考えられます』


 見ればわかる、というような答えだが、そんなことがあるものかという理解を拒む心がある。催眠術どころではない。これではまるで、空想上フィクションの超能力だ。神話上フィクションの怪物だ。


「谷澤さん、最後にナイフを地面に突き刺しましたけど……」


 今は、蹲りながらそのナイフを引き抜こうという動きを見せている。


「抵抗に抗って、また女を刺そうとしている……?」


 状況がわからない。このような光景を、現実で見たことがない。青木はただ、歯噛みするしかない。


「ど、どっちにしろ止めないと! なんとかならないんですか先輩!」

「どっちにしろ?」

「え? いえその、女を刺そうとしてるのか、それとも……自害させられそうになっているか、ってことです!」

「な」


 青木の考えもしなかった可能性を新島は示した。

 後者の場合、最後にナイフを地面に突き刺したのが谷澤自身の抵抗であり、ナイフを引き抜かないよう抗っている、ということになる。緊急性はより高い。


「アリサ! その女を殴り倒せ!」


 荒っぽいが、そうするしかない。この異常事態の原因は間違いなく女にある。仮に女が生身の人間なら、アンドロイドの傷害事件ということで研究室の存続そのものが問われるだろう。だが、今やそれどころではない。人命がかかっているのである。


「アリサ! どうした!」


 アリサは動かない。ただじっと、女と谷澤の様子を観察している。

 女は谷澤を見下ろし、谷澤は震える手でナイフを握っている。


「な、なんで動かないんすか……?! まさか、アリサちゃんも……」

「パラメータは正常だ。僕の命令が怪異調査という大目的よりプライオリティが低いからだろう。彼女はただ、今起こっている現象の観察を優先してるんだ」

「そんな……。な、なにかないんですか、こういうときって。遠隔操作とか……」

「無理だ。アリサのセキュリティはアリサ自身が独自に開発したものだ。鍵を閉じ込めた車みたいなものなんだよ。彼女の自律性は高度に保証されている」


 打つ手がない。アリサは人命救助のためのアンドロイドではない。怪異調査のアンドロイドだ。正常な挙動を示しているだけだが、今はそれが憎らしい。


「私が行きます」

「なに?」


 青木は耳を疑った。


「その、今まで被害に遭ってるのは既婚の男性なんですよね。私、未婚の女性っすから。もしかしたら効かないかも……」

「待て! なんの保証もない! それをいえば僕だって独身……」

「それでも、私の方が遠いですから。先輩は残ってモニターしててください。あとは研究室とか、警察に連絡入れて……」

「行くったってどうするんだ。おい!」


 ***


 駆け出しながら、最後に聞いた青木の言葉に新島自身も同意した。

 行ったからといって、なにができるというのか。

 それでも、ただじっと見ていることなどできなかった。

 谷澤はナイフを持っていた。女を倒さねばならないのなら、武器がいる。あるいは、話は通じるだろうか。なにかしているわけでもないのに「やめて」も変だ。

 わからない。わからないなりに、新島は目に入った水桶を手に取った。これを投げつければ――霊園側に迷惑が――そんなことを考えながらも、ただ駆ける。


「谷澤さん!」


 モニター越しで見るだけでは伝わらない、異様な光景だった。女が谷澤を見下ろし、谷澤は地面に突き刺したナイフを握りながら蹲り、アリサは直立不動でその様子を眺めている。


「しっかりしてください!」


 まずは、谷澤の安全だ。ナイフから手を引き剥がし、女から距離を取ることを試みる。それで意味があるかわからないが、それくらいしか浮かばない。


「谷澤さん! ナイフを離して!」


 力が強い。とてもじゃないが、新島の力では谷澤を動かせない。


「アリサちゃん! 手伝って!」


 だが、アリサなら。アリサの力ならできるはずだ。しかし、やはり、彼女は動かない。直立不動のまま、その光景を眺めるだけである。


「アリサちゃん!」

「怪異の観察中です。状況をあまり動かさないでいただけますか」

「わからないの?! このままだと、谷澤さんが……!」

「はい。怪異の影響により谷澤宏一さんはこのまま自害するものと思われます。その経緯を記録します」


 彼女は人の姿をしている。彼女の行動記録を目にしてきた。だから新島は、心のどこかでアリサに感情移入していた。

 それは間違いだった。彼女は機械だ。人を助けるという心はない。彼女もまた、怪異と同じくらい相入れない存在でしかない。


(だったら――)


 原因の方を除くしかない。機械アリサには頼れない。武器としては心もとない水桶を握り、新島は女を睨みつけた。

 しかし。

 つば広帽子から覗く、その女の顔を目にしたとき。

 水桶を握る手が痺れた。足が震え、覚束ない。


(なに。いったい、これは、なに――?)


 力が入らない。新島もまた膝から崩れ落ち、ただ無力に跪くしかなかった。


(なん、で……? 未婚とか、女性とか、なにも関係ないの……?)


 浅はかだった。青木の言葉に従うべきだった。飛び出したからといって、なにかできるはずはなかった。このまま目の前で谷澤の死を見せつけられ、次は自分か。そう思うと、怖気が背骨を貫いた。


(いやだ。でも、身体が……あんな顔を、見せられたら……!)


 その顔を見てしまったなら、跪いて首を垂れるしかない。

 そういうものだと、理解してしまった。


(どうすれば……こ、このまま……手が、痺れて……寒い……)


 だが、機械アンドロイドはそのかぎりではない。


「え」


 アリサが動いた。

 女のもとへと、真っ直ぐと歩を進める。

 そして、強化学習によって得られた最適なフォームで、女の顔面に右ストレートを放った。


「アリサちゃん?!」


 続けて顎を砕くような左アッパー。この連続攻撃に、女はよろめく。

 そして、逃げた。脇目も振らずに、信じられない速度で。アリサは、すかさずそれを追う。


「な、なんで……?」

「二例目が出たことで判断が変わったんだ」


 女とアリサの姿が見えなくなったころ、代わりに青木が現れそういった。


「このまま観察するより、殴りつけることで止まるのかどうかという興味が上回ったんだろう。結果としては、新島さんのおかげだね。環境変化がうまく好転した」

「え、あ、それより谷澤さん?!」


 気づけば、身体は自由に動く。谷澤はまだ蹲ったままである。だが、ナイフからは手を離していた。

 だが、気になるのは。

 こうして事態が落ち着くと、谷澤がなぜナイフを持って女に向かっていったのかが気になってくる。


「……よくわかった。あの女は、人間が手を出していいものじゃない。自惚れていた。白川研究室の皆さんにも、ご迷惑をおかけして……」

「いえ、まあ! なにごともなくてよかったじゃないっすか!」


 二時間後。バッテリー切れで路上に倒れていたアリサをワゴン車で回収する。

 そして後日、探偵・谷澤宏一の事故死が報じられた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る