お戻り様

ぼくの地元は何の変哲もない海辺の小さな町なんだけど、50年くらい前までは、一風変わった風習があったんだって。


その風習の内容は、次の通り。


村で女の人が死んだとき、骨壺に入れた遺骨を小さな船に乗せて、波にさらわれないように縄で結んで海に浮かべておく。


その状態で一晩たつと、どういうわけかその船は消えてしまうんだって。


誰かがイタズラで船を固定していた縄を解いたわけじゃないんだ。

たとえ寝ずに監視していても、気づいた時には船はなくなっているらしい。


地元の人はその風習のことを『戻り海(もどりみ)』って呼んでる。


話によれば、死んだ女の人の魂が船に乗って海に戻っていくらしいんだ。

いまではさすがに、遺体遺棄とかそういう犯罪になるからやってないらしいけど。


おじいちゃんに詳しい話を聞いたら、


「生き物は母なる海から生まれたから、女の人が死んだら魂が海に戻るんだ」

「逆に男は陸に魂を還して、川の流れに乗って、また海に戻るんだ」


…って教えてくれた。


ぼくは正直、そういったオカルト話は信じてなかったから、変な風習だなとしか思ってなかったんだよ。


田舎特有の、しかも50年も前の、由来もよくわからない言い伝えみたいなものだって、そう考えてたんだ。


この間までは。


数週間前、地元に帰省したんだ。

実家にはゲームもパソコンもないから、やることがないんだよね。


だから暇つぶしのために、家から少し歩いたところにある浜辺を散歩してたんだ。


その時に波打ち際に打ち上げられた、手漕ぎボートを見つけたんだよ。


ボートは、船体が完全に横を向いちゃってて、ちょうど船底がぼくのほうに向いている状態だ。


遠目からは、ずいぶん古いものに見えた。

全体的にボロボロで、ワカメやらフジツボやらが船底にびっしりと…。


ちょっと背中がゾワゾワしたのを覚えてるよ。


まあでも、怖いもの見たさというか、なんというか、そういうのに駆られてさ。

そのボートに興味本位で近寄ってみたんだ。


そしたら突然、とてつもなく甘ったるい臭いが漂ってきた。

言い表すなら、どぎつい香水みたいな、超絶甘いイチゴオレみたいな、そんな臭い。


それでもぼくは、鼻をつまんで「腐ったフルーツでもあるのかな?」とか呑気なことを考えながら更に近づいたんだけど、そこでおかしなことに気が付いたんだ。


船の周りをよく見てみたら、見たこともない生き物の死骸が、半ば砂に埋もれるようなかたちで大量に落ちていたんだよ。



その死骸たちは、まるっこい蟹のような体で、その円周上には、放射状に延びる触手が3本くらいあって、その先端にハサミと吸盤が合わさったみたいなものがついてた。


デンデン太鼓ってあるよね?

あれの紐が3本になって、上と左下と右下に配置されたような感じ。


こんな生き物は、生まれてこのかた見たことがなかった。

深海を探せば、もしかしたらいるのかもしれないけど…。


だけど、変なのは死骸だけじゃなかった。


更にボートをよく見ると、ぬるぬるしてて白っぽい、半透明な液体が、砂浜に横たわった船体から滴っていた。


ぼくはもう、この時点で本能的に「なんかヤバイ」って感じてたんだ。


恐ろしさよりも、得も言われぬ不安というか、焦燥感のようなものが頭の中でぐるぐる渦巻いてた。


でも、やっぱり好奇心には勝てなくて、恐る恐るボートの裏側を覗き込んだんだよ。


手漕ぎボートの裏にいたのは、正体不明の生き物だった。

少なくともぼくは一度たりとも見たことがない、意味の分からない形状をしていた。


『それ』は、小さめの樽のような形状の肉塊で、外周から不規則に人に似た腕や足のような部位が5~6本生えていた。


肉塊のてっぺんには女性器みたいな形状の穴が開いていた。

『穴』からは、とめどなくぬるぬるの液体が流れ出ている。


下品な表現になっちゃうかもしれないけれど、愛液のようにも思えた。


ボートから滴っていたのは、きっとこの液体だろう。


薄く白濁した粘液にまみれ、日光を反射して怪しく光るその肉塊を見たぼくは、喉の奥から湧き上がる吐き気をこらえることしかできなかった。


もうこの時点でぼくの全身には鳥肌と悪寒が同時にお祭り騒ぎしていた。

これは所謂ところの『見てはいけないもの』なんだって直感した。


さっさとここから逃げようと思って後ずさりをしたんだけど、運悪く砂に足を取られてボートに手をついてしまったんだよね。


そしたらさ、その肉塊がビクッと震えたんだ。


そして次の瞬間、無数に生えた腕やら足やらが不規則に動き出したんだよ。


てっぺんにある女性器みたいな穴を開いたり閉じたりしながら、樽のような肉塊の外周から生えている腕や足が、その穴に何かを運ぶかのような動きをしてるんだ。


それを目の当たりにしたぼくは、こらえていた恐怖と不安が爆発しちゃったんだ。

腰を抜かして尻もちをついて、這うように実家まで逃げ帰った。 家族にいま見たことを話したんだけど、誰も信じてくれなかった。 でも、おじいちゃんだけは違った。


その生き物のことを『お戻り様』だと教えてくれた。


なんでも、先に説明した『戻り海』で海に帰った女性の魂は、いつか母なる『海』という生命を育む子宮の一部になるはずなのだけれど、ごく稀に、それに失敗する魂があるという。


そういった戻り海に失敗した女性の魂が、海を漂流する遺体や異常な存在魂と結びついて生まれるものこそ『お戻り様』なんだって。


戻り海に失敗し、現世に不完全な形で生まれ直してしまったことで、女性が持つ『子を産む』という力が歪み、その姿になったのだという。


船の周りに散らばっていた、触手の先端に吸盤とハサミを持った生き物の死骸は、お戻り様の産み出した『不完全な生き物』らしい。


不完全な母から生まれた、不完全な赤子。


本来この世に産まれるべきではない存在だから、環境に耐えきれずに、産まれてすぐに死んじゃうんだって。


話し終えたおじいちゃんは、物置小屋から灯油の入ったポリタンクを出してきた。


お戻り様が現れたら、二度と歪んだ形で生まれ直すことがないよう、乗っている船ごと炎で清めなければならないのだとか。


ぼくはおじいちゃんと一緒に、砂浜に向かった。


お戻り様は、横転した船の裏側でいまだに動き続けていた。


おじいちゃんは、持ってきたポリタンクの灯油を、砂浜に落ちている不完全な生き物の死骸と、船と、お戻り様に浴びせた。


そして「お戻り様、お戻り様。どうか海へお帰りください」と3回唱えて、マッチで火をつけたんだ。


船とその周りの砂浜は、一瞬で燃え上がった。


座礁した船も、産まれるべきではなかった不完全な生き物の死骸たちも、そしてお戻り様も、煌々と輝く炎に包まれた。


不思議なことに、煙は出なかった。


1時間くらい経ったあと。


お戻り様と船、周りに散らばっていた死骸たちは、跡形もなく焼けてしまった。

普通、こんな短時間で燃え尽きたりはしないし、多少は燃え残りが出るはずだ。


だけど焼け跡には、若干の残り火と、さっきまで船があった跡があるばかりだった。


おじいちゃんは「お戻り様は悪いものではないが、良いものでもない。忘れろ」とだけ言って、二度とお戻り様のことを教えてはくれなかった。


この話には後日談もないし、これで終わり。


でも、少し気になることがあるんだ。


地元の『戻り海』の風習は、もう50年も前に廃れている。


なのになぜ、『お戻り様』は現れたんだろう?

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怪異譚 きくへい @kikuhei

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