第45話 渦の目
黒い闇の中心。
そこは、瘴気の底を幾日も歩んで魔王“詩人”を討ったユリウスでさえ、これほどとはと思うほどの闇の深さであった。
松明の明かりでは、ほとんど先を見通すことができなくなっていた。
「この闇の中で襲ってこられては」
リランが不快そうに口にした。
「完全な不意打ちを喰らうことになる。面白くないな」
「おそらく闇は晴れる」
ユリウスは言った。
「戦いは、闇の中では行われぬ」
「確かに“詩人”との戦いではそうであったとは聞いたがな」
リランは鼻を鳴らす。
「あれはあの魔人の能力が、天から降ってくる言葉を具現化する、という妙なものであったからだろう。本当かどうかは知らんが、とにかく“詩人”には、戦うときには天が見えている必要があった。だから自分で闇を晴らした」
そう言って、リランは松明を乱暴に振った。
「だが、ラクレウスの能力はそうではあるまい。ならば闇を晴らす必要はない」
「私も最初はそう思っていた」
ユリウスは静かに応じた。
「“詩人”はその必要があって、自ら闇を晴らしたのだと」
その言い方に、リランは不満そうにユリウスを見た。
「違うと言うのか」
「おそらくな」
ユリウスは頷く。
「感覚的なものだ。私にもうまく言葉にはできぬが」
ユリウスは左手の指で、ぐるりと大きく円を描いてみせる。
「荒れ狂う巨大な渦の中心は、かえって無風であることが多い。それと一緒ではないかと」
「なるほど。渦の中の目ですか」
先頭を歩くコキアスが頷いた。
「分かるような気もしますな」
コキアスは、ちらりとユリウスを振り返る。
「魔王“北風”との戦いは、薄闇の中で行われました。あの魔人の周囲を取り巻く強い風が、闇をその場に留まらせなかったからです」
「そうか」
ユリウスは頷いた。
「視界は重要だ。松明を持ったままで戦う余裕などないからな。明るい場所で戦えるのであれば、憂いが一つ減る」
そう言った後で、ユリウスは面白くなさそうな顔のリランを振り向く。
「とはいえ、リランの心配ももっともだ」
ユリウスは言った。
「どちらに転んでもうろたえぬようにしよう。闇のまま戦うのも厳しいが、闇に慣れた目でいきなり日の光に晒されるのも、それはそれで順応が難しい」
「貴公に従うよ」
リランは肩をすくめた。
「ナーセリ第一の騎士殿にな。俺には魔王と戦った経験はないからな」
「無用な卑下だ」
ユリウスは答える。
「頼りにしている。リラン」
その言葉に、リランは、ふん、と鼻息を吹く。
「もしも瘴気が晴れなければ、貴公の剣を照らすくらいのことはしてやる」
「十分だ」
ユリウスは微笑んだ。
それからいくらも歩かぬうちに、先頭のコキアスが「む」と声を上げて松明を揺らした。
「どうも前方の視界が晴れてきましたな」
ユリウスとリランも足を止めて、前方を見透かす。確かに、闇の層が剝がれてきているような、そんな感覚があった。松明の灯の届く距離が明らかに違う。
「ユリウスの言うことが正しかったわけか」
リランにそう言われ、ユリウスは厳しい表情で頷く。
「うむ。あそこにいるな」
そう言って、コキアスの肩を叩き自らが先頭に立つ。
「コキアス殿、ここまで助かった」
「ユリウス殿。先頭はこの私が」
「敵がどう来るか分からぬ」
進むにつれ、視界は少しずつ晴れてきてはいたが、“詩人”が現れた時のようないきなりの晴天ではない。ある程度周囲が見えることを確かめると、ユリウスは松明を棄てて、剣を抜いた。
「ここからは、私が前に出よう」
「いけませぬ」
コキアスは険しい声を上げてユリウスの肩を掴んだ。
「敵の不意打ちで倒れるのがユリウス殿であってはいけませぬ。最初の一撃こそ、最も危険。それは私が」
コキアスはそう言いながら、ユリウスを押しのけるようにして前に出る。
コキアスにも、自分にラクレウスを討つ力がないことは痛いほどよく分かっていた。だからこそ、ユリウスを失ってはならないのだということも。
勝利のために、捨て駒になるべきは自分だ。そう決意を固めていた。
「だめだ」
だが、ユリウスも首を振った。
勝利。
無論そのためにここまで来た。
だがユリウスが先頭に立つのは、シエラの将来のためであった。
ここでコキアスを失えば、シエラには魔王との戦いを伝える騎士が途絶えてしまう。シエラの衰退は、ナーセリにも必ずや影響を及ぼすだろう。
ユリウスは、この勇敢な騎士をシエラ王のもとに生還させるという義務感にも似た使命を感じていた。
「私が前に立つ」
騎士ユリウスと魔騎士ラクレウスとの戦いを見届けさせた上で、シエラ王のもとに帰す。それこそが己の使命である、と。
だがコキアスも譲らなかった。
シエラを救うためには、是が非でもユリウスに力を温存してもらわねばならぬ。そのために自分が前に立たねばならない。ラクレウスの力を己の限界まで見定めることこそが、自分が今ここにいる意味なのだ。
「ユリウス殿。どうか」
「だめだ、コキアス殿」
押し問答する二人の脇を、ずんぐりとした騎士が通り過ぎた。
「行くぞ」
低い声で、歴戦の騎士は言った。
「貴公らはお互いに譲れぬものがあると見える。大事な決戦の前だ、どちらも譲らなくともよい。俺が先頭に立つ」
「リラン」
「リラン殿」
二人が声を上げた時には、リランは松明を掲げながらさっさと歩き始めていた。
幅広の剣を、無造作に抜き放つ。
「決まらぬ時は、一番年長の人間の言葉に従え。そのためだけに年を食ったようなもんだ。俺が先頭だ、いいな」
有無を言わせぬ、岩のような背中。
ユリウスとコキアスは顔を見合わせ、それから小さく頷き合った。
「三人で」
リランの後を追いながら、コキアスが言った。
「生きて帰りましょう」
「無論だ」
ユリウスは答える。
「誰一人欠けることなく」
「当たり前のことには、返事をせぬことにしている」
リランは振り向きもせずにそう言った。
「二人とも、しっかりついてこい」
不意に、つむじ風のように瘴気が小さく渦を巻いた。と見えた瞬間、闇の中に光がきらめいた。
「リラン!」
ユリウスが前に飛び出した時には、リランは胸から血を流して膝を折っていた。
「行け、ユリウス」
傷口を押さえながら、リランは叫んだ。
「やつはそこにいる」
「承知」
微塵のためらいもなく、ユリウスは瘴気の中に飛び込んだ。
その途端、闇がユリウスを避けるように、ぱっと散った。
目を刺す、赤い光。
一瞬、ユリウスは視界を失う。
今は、夕焼けの時刻であったか。
ユリウスは光に霞む目を必死に凝らした。
瘴気が去ってみれば、何の変哲もない街外れの荒れ野であった。
そこに、かつての好敵手がいた。
「討手は貴公か」
最後に会ったときと変わらぬ、快活な声。
「それは楽しくなりそうだ」
そうか。汝も言葉を解するのか。
無言のまま、ユリウスは剣を撃ち込んだ。
だが魔騎士の剣は、その強烈な一撃をしっかりと受け止めた。
「そう焦るな」
ラクレウスは濁った眼を細めて微笑んだ。
口元に不自然に浮かぶ太い血管がびくりと動いた。
「じっくりと戦おうではないか。我が好敵手よ」
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