第40話 シエラへ
シエラに現れた魔王は、その名を“北風”と付けられていた。
凍える冷気を伴った暴風とともに現れた魔王に、シエラ全土は恐怖に包まれた。
国を護るため、シエラ第一の騎士たるラクレウス率いる騎士たちがその討伐に派遣された。
だが、魔王と騎士たちとの戦いがどのようであったのかは、分からない。
戦った騎士が、ラクレウスを含めほとんど誰も帰らなかったからだ。
ただ一人生きて戻った騎士が、ラクレウスの敗北を告げた。
王の語るそういった話を、ユリウスはどこか別の世界のことのように聞いた。
ラクレウス殿が、敗れた。
次の武術大会で雌雄を決そうと誓い合った、好敵手。
妹であるカタリーナとの結婚を何の屈託もなく祝福し、喜んでくれた将来の義兄。
魔人“鷲”をほとんど何もさせずに討ち取った剛剣の持ち主である、頼もしき仲間。
あの、ラクレウスが。
シエラ第一の騎士ラクレウスが、敗れたというのか。
たとえ相手が魔王であれ、ユリウスには俄かに信じ難かった。
だが、そのような嘘をシエラの王がナーセリ王につく理由がない。
「ラクレウスは、そなたの許嫁の兄であったな」
王は言った。
「仇をとれるか、ユリウス」
仇。
その言葉を聞いた瞬間、カタリーナの顔が脳裏に浮かんだ。
ラクレウスの話をするときの、カタリーナの可憐な横顔。
兄への深い愛情を感じるその声までも、耳に鮮やかに蘇る。
それとともに胸に湧き起こったのは、魔王に対する強烈な怒りだった。
おのれ、魔王。
ユリウスは魔人と相対するとき、個人的な感情を持ち込むことはほとんどなかった。
魔人に対してユリウスはいつも強い怒りを感じていた。だがそれは、国を揺るがし、人々を恐怖させるものに対する公憤、義憤といった類の感情であった。
しかし、カタリーナのことを思い出したこの時、ユリウスの胸に初めてその感情が宿った。
おのれ、魔王め。
愛するカタリーナの、かけがえのない兄君を。
自分の友にして好敵手であるラクレウスが力及ばず魔王に敗れたことは、確かに衝撃ではあったが、ユリウスはそこに怒りを覚えることはない。
騎士である以上、魔人を討とうとすれば逆に自らが討たれる覚悟が要る。それはたとえ若輩の騎士であろうと肝に銘じる最低限の騎士としての矜持だ。
シエラ第一の騎士たるラクレウスにその覚悟がなかったはずはない。そんなことはともに肩を並べて戦ったユリウス自身が良く知っている。
ゆえに、ラクレウスの敗北それ自体に怒りを覚えることなど、ラクレウスの覚悟を貶めるものでしかないことをユリウスは知っていた。
しかし、それは騎士としての話だ。
カタリーナとの結婚を決意してから、ユリウスにとってラクレウスはかけがえのない肉親同然の存在であった。
そうか、これか。
ユリウスは思い出す。
ユリウスが魔人の現れた街へ到着すると、待ちきれなかったかのように駆け寄って肉親の仇を討ってくれるよう懇願する住民たち。
ユリウスは彼らの無念を察し、その心に寄り添おうとしてきたつもりであった。
だが、真の意味でその気持ちが分かってはいなかったのだ。
この強烈な怒り。
彼らにいつも私が託されていたのは、この感情であったか。
ユリウスは王を真っ直ぐに見た。
剛毅な王が一瞬たじろぐほどの強さを、その目は秘めていた。
「シエラの魔王“北風”討伐の任務、この騎士ユリウスが確かに承りました」
「やってくれるか」
王は頷く。
「ユリウスよ。ラクレウスと戦ったのであれば、魔王とて無傷ではあるまい。確実にその命を絶つのだ。そなたの剣がいまやナーセリ、シエラ両国の希望なのだ」
「身に余る責務なれど」
ユリウスは答えた。
「必ずや、やり遂げてご覧に入れましょう」
騎士として。ラクレウスの義弟として。
「もう一人、魔王を討ちに」
実家に戻ったユリウスからその話を聞くと、さしもの勇ましいルイサもその場で卒倒しそうな顔をした。
「ようやっとナーセリの魔王を討ち果たされたばかりですのに」
「うむ」
ユリウスは旅支度をする手を休めず、頷いた。
「だがもはや私しかおらぬゆえな」
「“詩人”を討つのにも、たくさんの騎士様が命を落とされたと伺いました」
ルイサは言った。
「兄上とて、まだ傷も完全に癒えてらっしゃらないではないですか」
「私の傷が一番軽いのだ」
ユリウスは胸に巻いた包帯を大きな手で押さえると、そう言った。
「生き残ったロイドもゴーシュもまだまともに戦えぬ。魔王と対峙できるほどの騎士は、アーガもラザもテンバーも、皆死んでしまった」
「兄上も死んでしまいます」
ルイサの言葉は悲鳴のようでさえあった。
「カタリーナさまはどうなさるのですか。ラクレウスさまを失い、そのうえ兄上まで失ってしまったら」
「カタリーナ殿か」
ユリウスは微かに顔を歪めた。
「今、最も深い悲しみの縁にいるのはカタリーナ殿であろう」
「手紙も届いてはおりませぬ」
ルイサは言った。
「あのカタリーナさまが手紙も書けぬほどに悲嘆に暮れているのだと思います」
「そうであろうな」
ユリウスは頷いた。
「最愛の兄君を亡くされたのだ」
「でしたら」
「私とて」
ユリウスはルイサの言葉を遮った。
「許されるのであれば今すぐに飛んでいって、その気持ちをお慰めしたい。いつまででも、ずっと傍にいてさしあげたい」
カタリーナの今の気持ちを思えば、胸が張り裂けそうになる。
「だが、私が魔王を討たねば、もっと多くの者がカタリーナ殿と同じように悲嘆に暮れることになる。シエラのたくさんの民が」
ユリウスは、ドルメラで自分を送り出してくれた多くのシエラの人々の顔を思い出していた。
「いずれその悲しみは、ナーセリにも押し寄せるであろう」
ラクレウスが敗れたと聞いたときに感じた、激しい怒りと悲しみ。
「王であれ騎士であれ、それ以外の人々であれ、その悲しみに違いはない」
ルイサは何か言おうとしたが、言葉にならず唇を噛んだ。言葉の代わりに、その両目からぽろぽろと涙がこぼれた。
「ルイサ」
ユリウスは優しく妹の名を呼んだ。
「そなたの兄は、騎士なのだ」
知っております、と答えようとしたルイサの言葉は嗚咽で途切れた。
「ナーセリとシエラの存亡の時だ。騎士が行かずに、誰が行くのだ」
「でも」
ルイサは声を振り絞った。
「“詩人”を討った時には、兄上にはアーガさまをはじめとするお仲間の騎士さまがたくさんいらっしゃったではないですか。シエラの高名な騎士さまは皆、ラクレウスさまとともに敗れてしまったのでございましょう」
ルイサはうつむいた。
「兄上がいくら強くても、お一人では」
久しぶりに見る妹の涙に、ユリウスは自分の子供時代を思い出していた。
ああ、そういえば、とユリウスは思った。
ルイサは気が強いわりに、よくこうして泣いたものだった。
そういうときは。
「泣くな、ルイサ」
ユリウスは穏やかな声で言った。
「今まで兄が帰ってこなかったことがあるか。どこへ行っても、兄は必ずここに帰ってきたであろう」
根拠などない。だが子供のころから、ユリウスがきっぱりと断言すると、不思議とルイサは落ち着くのだ。
「兄上。わたくしのことをまだ子供だと思っておいででしょう」
ルイサが涙声でそう言ってユリウスを睨む。
「そんな言葉でわたくしが落ち着くと」
「帰ってくる」
ユリウスは言った。
「約束する」
「兄上の約束など」
ルイサはそう言って、こらえ切れなくなったように兄の胸に飛び込んだ。
「わたくしに手紙を一度も書いてくださらなかったくせに」
「今度こそ書くぞ」
ユリウスは自分の胸で泣き崩れる妹の背中を優しく叩いた。
「そなたに手紙を書くためにも、死ぬわけにはいかぬであろう」
王都に戻ってわずか二日で、ユリウスはシエラに向けて旅立つこととなった。
出発の朝早く、準備を全て整えて両親への挨拶を済ませ、まさに旅立とうとしていたユリウスに来客があった。
誰か見送りにでも来てくれたのか。
そう思って応対に出たユリウスは、意外な人物が立っているのを見て目を丸くした。
「リラン」
「おう、ユリウス。久しいな」
引退したはずの隻眼の騎士リランが、ずんぐりとした身体に旅装をまとって待っていた。
「リラン。貴公、その姿は」
「俺も行くぞ、シエラに」
リランは言った。
「王の許可も得た」
「な」
混乱したユリウスは、言葉を探す。
「しかし、貴公は」
「アーガもラザも、テンバーまで死んでしまったそうではないか」
リランは以前と変わらぬ飾らない口調で言った。
「ならばもはや、貴公に同行できるほどの騎士は俺しかおらぬではないか」
「だが、ラーシャ殿は」
ユリウスは、今はリランの妻となった領主の名前を口にする。
リランはにやりと笑って首を振る。
「ラーシャが反対するような女だと思っておるのなら、貴公の女を見る目は皆無だな」
言葉を失うユリウスを見て、リランは豪快に笑った。
「むしろ、この状況で手を挙げぬような俺であったならば、とっくにラーシャから愛想を尽かされておるわ」
「よいのか、リラン」
ユリウスは言った。
「“詩人”を討つ旅でも、何度、貴公がいてくれればと思ったことか」
「そうであろう」
リランは頷く。
「だから、来たのだ。妹御、心配せずともよい。兄君はこのリランが死なせぬ。背負ってでも連れて帰ってくるゆえ安心されよ」
泣き腫らした目のルイサが、リランに深々と頭を下げる。
「騎士は皆、ばかなのだ。心配が尽きぬであろうが、許されよ」
リランは笑顔でそう言うと、自分の馬にひらりと飛び乗った。
「さあ、ユリウス。行くぞ。魔王が怖気づいて逃げてしまう前に」
「うむ」
ユリウスも自らの馬に跨る。
「では、ルイサ」
そう声をかけられて、ルイサは馬上の兄を見上げた。
たちまちその目が潤んでくるのを、ルイサは大きな声を上げることでごまかした。
「手紙をいただきたく存じます」
ルイサは言った。
「どうか見事魔王を討ち果たし、わたくしに手紙を書いてくださいませ」
「うむ」
ユリウスは微笑んだ。
「約束だ、ルイサ」
それだけ言うと、ユリウスは馬首を翻した。
両親や使用人たちに手を振ると、もう振り返らなかった。
二人の騎士の姿は、朝日に溶けるようにしてじきに見えなくなった。
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