第36話 生き方
黒く、重い。
漆黒の闇のような瘴気。
それは歴戦の騎士であるユリウスやアーガにとっても、初めての経験となる濃さであった。
トリーシャの街はすでに瘴気に飲み込まれ、その闇は近隣の街や村へも広がっていた。
よしんば魔王を倒したとしても、瘴気の発生源であるトリーシャではこの先数年は作物が穫れることはあるまいと、もっぱらの噂になっていた。
それほどの瘴気であった。
その中を、七人の騎士たちは真っ直ぐに闇の中心に向かって進んでいた。
途中の村々で見送る人々は誰もが彼らの勇敢さに打たれ、祈った。
彼らの無事と、彼らの勝利を。
だが、鍛え上げられた肉体と精神を持つ騎士といえども、やはり人間であった。
歩を進めるにつれますます強まる瘴気に、トリーシャにたどり着く前に騎士の一人ハードが脱落した。
最も年若いハードは、空まですっぽりと瘴気が覆い、昼なき世界のようになったトリーシャへの道程を歩むにつれ、徐々に口数が減り、ついに精神の均衡を欠いて、涙を流しながら道にへたり込むとその場を動かなくなった。
だが、彼を助けて安全な街まで戻ることのできる者はこの中にはいなかった。
騎士は、前進せねばならぬ使命を帯びているのだから。
「ハード。元来た道を真っ直ぐに戻れ」
ユリウスは手にした松明をハードの背後に続く道に向けた。
炎に照らされ、瘴気の立ち込めた先にぼんやりとここまで歩んできた道が見えた。
「空に太陽が見えるまで、まっすぐに歩き続けよ。そうすれば貴公の心にも元の勇敢さが蘇ってくる」
「申し訳ありませぬ、ユリウス殿」
ハードは子供のように泣きじゃくっていた。
「自分がこのようなことになろうとは。ですが、どうしようもないのです。得体の知れぬ恐ろしさで、身体がすくんでこれ以上一歩も前へ進めぬのです」
「進めぬならば、戻ればよい」
ユリウスは穏やかに言った。
「貴公の命を懸ける場所は、ここではなくまた別にあるということだ」
「ユリウスの言う通りだ。ハード、貴公が魔人を何人も討ち果たしてきた勇敢な騎士であることは、ここにいる皆が知っている」
最年長のアーガが言った。
「王も仰せであったろう。魔人は魔王一人ではない。貴公は戻り、己の役目を果たせばよい」
ハードは答えなかった。
魔王のもとへとたどり着けもせず、恐怖で動けなくなるなど、騎士としてどれほどの恥辱であろうか。
その場にいる全員がそれを痛いほどに分かっていた。
それゆえ、彼を責める者などいなかった。
「さあ。我らにもあまり時間はない」
ユリウスはそう言うと、うずくまって動かないハードの肩を叩いて立たせた。
「戻れ。まっすぐに、光の差すところまで」
その背中がとぼとぼと道の向こうへと消えるのを見送ってから、残る六人の騎士は再び歩み始めた。
魔王“詩人”を倒すためには、これ以上誰一人として欠けるわけにはいかぬ。
「魔王を倒したら、やはり救国の英雄というような扱いになりますかね」
暗闇の旅路の中、場違いなほどに明るい声でそう言ったのは、テンバーだった。
「慰労の大宴会なども開かれたりして」
「まあ、それなりの扱いは受けるであろうが」
ユリウスはそう答えて、苦笑した。
「テンバー。貴公、もう勝った後のことを考えているのか」
「ええ、まあ。こんなに暗くては景色も見えませんし、それくらいしか考えることはないでしょう」
テンバーはそう言って笑った。
「魔王を討った騎士となれば、女性にももてるでしょうな。今から楽しみです」
「貴公はいつもそれだな」
ベテランのラザが顔をしかめてそう言った後で、にやりと笑う。
「だがまあ、頼もしくもある」
「そうだな」
ユリウスも頷いた。
他の若手騎士であるロイドやゴーシュが、ハードほどではないにせよ口数を減らし、疲労の色を濃くしていく中で、テンバーだけは常と変わらぬ快活さを漲らせていた。
その明るさは、ユリウスやアーガたちベテラン騎士にとっても頼もしく映った。
そういえば、とユリウスは思い出す。
ユリウスがカタリーナと初めて出会った、前回の武術大会。
あの時、二回戦でラクレウスに敗れて意気消沈していたユリウスとはまるで対照的に、一回戦で敗れたテンバーはもう翌日にはいつも通り明るく振る舞っていた。
それを見た時はユリウスも内心、向上心のない男だ、と思いもしたものであったが。
「テンバー。貴公は本当に明るい男だな」
ユリウスが言うと、テンバーは、そうですかね、と普段と変わらぬ調子で応えて首をひねる。
「いつも通りなだけですよ、私は」
「この瘴気の闇の中でいつも通りを保つのは困難だ。それでも貴公がいつも通りだというのであれば、それは一種の才能だな」
「確かにこうも暗いんじゃ、気も滅入りますよね」
テンバーは難しい顔を作って頷く。
「私も不安そうな顔の一つもした方が良いですか」
「不安なのか」
「いえ、別に」
強がるでもなく、テンバーはそう言ってまた笑顔に戻った。
「なるようにしかならぬと、いつもそう思って生きておりますので」
「そうか」
その若さに似合わぬ達観した言葉に、ユリウスは松明に照らされたテンバーの顔を見る。
「貴公は武術大会で敗れた後の立ち直りも早かったな」
「いや、さすがの私もあの時は一日落ち込みましたよ」
テンバーは口を尖らせる。
「これでは格好がつかぬ、女性にもてぬ、と。まあそれでも一日で諦めはつきました」
「どう諦めをつけたのだ」
「足りない武勲の分は、話術で補えばもてぬことはあるまいと」
その言葉にラザが声を上げて笑う。
「本当に、貴公という男は」
「目的がシンプルなのだ」
アーガが言った。
「だからこそ、強い」
「なんですか、皆でテンバーばかり誉めて」
黙って聞いていたゴーシュが、不満そうな声を上げた。
「この男のことを良い方に捉えすぎですぞ。テンバーはただ単にバカなだけです」
「おう、いいぞ。ゴーシュも元気が出てきたな」
ラザがにやりと笑う。
「その調子だ」
「おい、ゴーシュ。バカとは何だ、バカとは」
テンバーが声を上げた。
ロイドもそこに加わり、久しぶりに若手の元気な声が響く中、ユリウスは思い出していた。
テンバーがある街の魔人を倒した時のことだ。
遅れてその街に到着したユリウスは、街の人々が口々にこう話すのを耳にした。
「若い騎士様が、まるで遊びにでも来たみたいにふらりと現れて、あっという間に魔人を倒しておしまいになった」
と。
緊張感のない、常と変わらぬ姿勢。
魔王と呼ばれる魔人退治でも、その態度は変わらぬのか。
ユリウスは自分よりもずいぶんと年下のテンバーを、改めて尊敬の眼差しで眺めた。
我らは皆、騎士だ。
だが、騎士の生き方は一つではない。
私のような騎士もいれば、テンバーのような騎士もいる。
今、重要なのはその生き方の違いではない。
皆の力を合わせて、魔王を討つことだ。
どれくらい歩いたであろうか。
昼なのか、夜なのか、何日歩いたのかも分からぬ暗闇の中。
不意に、先頭のアーガが手にした松明を高く掲げた。
黒い煙のような瘴気の揺れる向こうに、街並みが見えた。
トリーシャの街。
魔王の待つ地に、一行はたどり着いたのだ。
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