第35話 魔王
「ルギウスの死を無駄にするわけにはいかん」
集まった騎士たちを前に、王は重々しく言った。
「魔王の出現を知らせ、余にこうして騎士を集める時間をくれたのは、紛れもなく騎士ルギウスだ」
「ルギウス」
アーガが低くその名を呟く。
「まだまだ戦いたかったであろうに」
「うむ」
ユリウスは頷く。
「惜しい男をなくした」
歴戦の騎士ルギウスは、ナーセリの辺境トリーシャの街に現れた魔人討伐に赴いた際、自分が相対したのが単なる魔人ではないことに気付いた。
瘴気渦巻く中、ぼんやりと石に腰かけた若い男には、一目で分かる異形は何も備わっていなかった。
男は細面の整った顔を空に向け、小さな声で何事か呟いていた。
その様がまるで詩を紡ぐ詩人のように見えたのだろう。瘴気の中にたたずむこの男には、魔人にはそぐわぬ“詩人”の名が付けられていた。
「ただの人間のようにも見えますが」
ルギウスを案内した豪族の私兵の隊長は、男を遠目に見てそう言った。
「あそこに座って詩のような文句を口ずさむ以外、何をするわけでもないのです」
「だが、ただの人間であれば、これだけの瘴気の中で平気でいられるわけがあるまい」
ルギウスはそう言うと、剣を抜き放った。
「確かめねばな」
ルギウスは、瘴気をものともせずに男に近付いていく。
「騎士様」
「そなたたちはそこで待て」
兵士たちを振り返りもせずにそう指示を与え、ルギウスは男の近くまでまっすぐに歩み寄ると、そこで足を止めた。
「何を呟いておる」
ルギウスは言った。
「詩か。それとも歌か」
空を見上げていた男が、ゆっくりとルギウスに顔を向けた。
「詩だよ」
男は言った。
「空を見ていると、言葉が勝手に湧いてくるのさ」
「ほう」
ルギウスは剣を構えたままで、男の言葉の先を促す。
「たとえば、どのような言葉だ」
「たとえばって言われてもね」
男は小首をかしげると、整った顔に人懐こそうな笑みを浮かべた。
「人に話して聞かせるほどのものでもないよ」
「……会話になっているぞ」
遠巻きにしていた兵士たちがざわめいた。
魔人は喋る。声を発する。だが、人との会話は成り立たない。
それは常識だった。
だが、あの男は騎士と普通に会話をしている。
ならば、魔人ではないのか。
けれど、歴戦の騎士は惑わされなかった。
「この瘴気の中でも平然としている。その一点だけでも」
ルギウスは己の声に力を込める。
「汝が魔人であることは疑いもない」
「魔人というのが何かは分からないけれど」
男は微笑んだ。
「これは分かるよ。あなたは僕を殺しに来たんだろ」
その瞬間、男の周囲からどす黒い瘴気が噴き上がった。
「むっ」
ルギウスは目を見張る。
霧よりも遥かに濃度も粘度も高い、その瘴気はもはや闇の幕とでも呼ぶべきものであった。
「ただの魔人ではないぞ」
闇の向こうから、ルギウスの叫ぶ声が兵士たちの耳に届いた。
「逃げろ。そして、王都に連絡を。魔王が現れたと」
「魔王ですって」
隊長が叫び返した。
「騎士様。魔王ですって。その優男が」
「急げ。走れ、今すぐにだ」
闇の中から、ルギウスの声と、剣が硬い物とぶつかり合う鈍い音が響いた。
「騎士を。できるだけ多くの騎士を」
ルギウスの声はそこで不自然な呻きとともに途切れた。
恐慌をきたした兵士たちは一目散に走り出したが、その後を追うように流れてきた黒い煙じみた瘴気に巻かれて、半数以上が街へたどり着くことなく消息を絶った。
魔王現る。
その一報は直ちに王都にもたらされたのだった。
「“詩人”は魔王と言っても、余の戦った“片目”とはまるで違う」
王は言った。
「見た目もとても強そうには見えぬし、人と言葉を交わす」
王の言葉にユリウスは頷く。
騎士ならば、皆が魔王“片目”のことは知っていた。
かつてナーセリに現れた恐るべきこの魔王は、見上げるほどの巨漢であったという。何人もの騎士の何本もの剣をその身に受けても、まるで意に介すことなく、鉄槌のような腕を振るい、騎士たちの命を砕いていった。
それでも騎士たちの献身と犠牲の末、ナーセリ王の剣が“片目”のたった一つの目を貫き、戦いは終わった。
その物語は、現役の騎士たちにももうすっかり浸透していた。魔王とはそういうものなのだという固定観念のようなものまで出来上がっていた。
だから彼らも、伝え聞く今回の魔王の姿に少なからず混乱していたのだ。
異形の見えぬ魔人。
人と言葉を交わす優男。
魔王といえど、人と言葉を交わすことなどない。むしろ、前魔王の“片目”はほとんど何の言葉も発さなかったという。
「我々の世代の魔王は、“片目”とは違う姿形をとったというだけのことでしょう」
アーガが静かに言った。
「やるべきことは決まっている。そのようなものと言葉などかわす必要はない」
「そうですとも」
テンバーが元気に頷く。
「我らの剣で、討ち果たすまで」
「ルギウスとの戦いが闇の向こうで行われたがために、兵士たちがそれを見ていないのが残念だな」
ユリウスは言った。
「“詩人”の能力が分からぬ」
「ユリウス殿ともあろう方が、何を弱気なことを」
ゴーシュが言う。
「能力など、相対すれば自ずとわかるでしょう」
その言葉に、ベテランの騎士であるラザが顔をしかめた。
「そこらの魔人とはわけが違うのだ。蛮勇は控えよ、ゴーシュ」
「はい」
不満そうにそれでも頷いたゴーシュを見て、王が口を開く。
「ユリウスやラザの言う通り、慎重にならねばならぬ。だが、ゴーシュの言う通り、魔王の能力は相対せねば分からぬのも事実」
「難しい戦いになりますな」
アーガの言葉に、王は重々しく頷いた。
「本来であれば、我が息子がその方らを率いていくべきであろう。だが、息子はまだ若輩。足手まといとなることは明白」
王の言葉通り、数人の王女の後でようやく生まれた王子は、まだとても魔人と戦えるような年齢ではなかった。
「王子の武勲は、次の魔王の時に取っておくのがよろしいかと」
テンバーが言った。
「此度の魔王は、我らが討ち果たしましょうぞ」
「うむ。テンバー、よくぞ言った」
王は頷く。
「だが、全ての騎士を魔王討伐に当てるわけにもいかぬ。魔人は魔王だけではないし、他国にも備えねばならぬからな」
そう言うと、王は魔王討伐に七人の騎士を指名した。
アーガ、ラザ、テンバー、ロイド、ハード、ゴーシュ。そして、ユリウス。
「すでにトリーシャの街は瘴気に飲み込まれた」
王は厳しい顔で騎士たちを見た。
「
騎士たちは深々と頭を下げた。
王城を辞し、旅支度のために自宅へ戻ったユリウスを出迎えたのは、妹のルイサだった。
「兄上、お帰りなさいませ」
ルイサの手の中で、もうすっかり見慣れた優美な文字の書かれた封筒が揺れていた。
「届いておりますよ。カタリーナさまから」
「そうか」
ユリウスは微笑む。
「それは僥倖であった。一日遅れればもう読めぬところであった」
「えっ。それでは」
ルイサは眉を上げた。
「もう明日にはお発ちになるのでございますか」
「うむ」
「ついこの間、お帰りになったばかりですのに」
「魔王討伐だ」
ユリウスは言った。
「騎士として最大の役目。それに兄が選ばれたのだ。誇っても良いのだぞ、ルイサ」
「誇りませぬ」
ルイサは首を振った。
「魔王討伐をせずとも、兄上はわたくしにとっては誇らしい兄上でございます」
そう言って、ルイサは手紙をユリウスの手に握らせた。
「きっとカタリーナさまも同じお気持ちだと存じます」
「そうかもしれぬな」
ユリウスはルイサの肩を叩いて、その脇を通り過ぎる。
「だが魔王の瘴気で今にも故郷を失おうとしている人々がいる。誰かがやらねばならぬなら、それは私の役目だ、ルイサ」
「兄上。わたくしが言うのもおこがましいですが」
ルイサは兄を振り返った。
「決して功を逸ってはなりませぬ。カタリーナさまと大事なお約束をしたのでございましょう。兄上が帰ってこなければ約束を違えることになります」
「分かっている」
ユリウスは振り返らずに頷き、自室へと入っていく。
その背中をルイサはやるせない気持ちで見つめた。
シエラに、魔王が現れました。
カタリーナの手紙にはそう書かれていた。
兄ラクレウスが、他の騎士たちを引き連れて討伐に向かうことになった、と。
ナーセリにも魔王が出る兆候があったと伺っております、とカタリーナは続けていた。
心配でございます。ユリウスさま。
魔王が出たのであれば、ユリウスさまほどの騎士が討伐に選ばれぬわけがございませぬ。
そして、それが騎士にとって無上の名誉であるということも承知しております。
けれど。
カタリーナは、そう書いていた。
けれど、心配でならないのです。ユリウスさまが、遠くへ行ってしまうのではないかと。
魔王討伐の命を受けた日、兄はもうすっかり覚悟を決めたような穏やかな目で帰ってまいりました。
ユリウスさまには、そんな目をしてほしくないのでございます。
わがままは重々承知の上で、それでも書かずにはいられないわたくしをお許しください。
ユリウスさま。
どうか、生きてお戻りください。
その夜、ユリウスは筆を執った。
出発を翌日に控え、限られた時間の中で、ユリウスの手紙はひどく簡潔なものにならざるを得なかった。
だがその分、思いを込めた。
騎士ユリウスは、約束を守ります。
ユリウスはそう書いた。
魔王を討ち、シエラに、あなたを迎えに参ります。
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