第33話 妹
魔王。
十数年に一度。
そう呼ばれる魔人が現れる。
“魔王”は他の魔人とは全く違う。
魔王出現の兆しは、昔から変わらない。瘴気の沼から現れる魔人の数が急に増えるのだ。
その数が、ある臨界値を越えた時、他の魔人とは隔絶した力を持つ魔人が現れる。
それが、魔王だ。
王などと呼ばれてはいるが、これも人間の勝手に付けた名に過ぎない。
強大なこの魔人は、別に他の魔人を率いるわけでも統べるわけでもない。
ただひたすらに強いだけだ。
今までの他の魔人たちとの戦いが、まるでただの遊びだったのかと錯覚するほどに。
直近で現れた魔王は、十七年前にナーセリで猛威を振るった魔王“片目”だ。
このとき、ナーセリは手練れの騎士五人を“片目”との戦いでいっぺんに失っている。
苦く、辛い記憶。それでも騎士が勝利したからこそ、ナーセリの今の繁栄がある。
魔王の現れる周期が十数年に一度であるということが、騎士たちにとってはまた厄介であった。
それは、前回魔王と戦った騎士が現役を退くのには十分な歳月であった。だからいつも、魔王と戦う騎士は生まれて初めての恐怖をその身に刻むのだ。
魔王の放つ瘴気は、他の魔人とはまるで違った。
黒い霧のような他の魔人の瘴気とは質からして違う、それは黒い煙とも黒い雨とも呼ばれた。
ナーセリの辺境で黒い雨を見た。
シエラの辺境で黒い煙が立ち上った。
両国の王都に続々と寄せられるその情報は、恐るべき一つの事実を示唆していた。
遠く離れた二つの土地で同時に見られる、魔王出現の兆し。
すなわち。
魔王は、二人いる。
ユリウスがカタリーナと別れてナーセリに帰国したのは、ちょうどそんな頃であった。
隣国からようやく戻ったユリウスを、家族は温かい笑顔で迎えた。
両親はユリウスの無事を神に感謝し、両国の国境の街々で挙げた武勲を喜んでくれた。
帰国に先立ってユリウスが出していた手紙によって、カタリーナとの結婚について知らされていた両親からは、矢のような質問がユリウスに浴びせられた。
その一つ一つにできるだけ誠実に答えようと努め、両親からの賛成を勝ち取ったユリウスが疲れ切って自室へと引き上げると、そこには妹のルイサが待っていた。
「異国での魔人との戦い、お疲れ様でございました」
そう言って労うルイサに、ユリウスは笑顔を向ける。
「うむ。何とかこたびも死なずに戻ってこられたぞ」
「また、そのようなことを」
ルイサは嫌な顔をしたが、その言葉が事実を指していることも知っていた。
兄は、魔人との戦いで命を落としかけ、そしてその強靭な生命力でこうして回復し、ようやく戻ってきたのだ。
ユリウスは自分の椅子に座り、久しぶりにくつろいだ顔をした。
「こうして自分の部屋でそなたと向き合うと、我が家に帰ってきたのだという気になるな」
「帰ってきてもらわねば困ります」
向かいの椅子に腰を下ろし、ルイサは厳しい声を出した。
「兄上は異国での戦いで命を落としていいお方ではございません」
「うむ」
快活にユリウスは頷く。
「ナーセリに仇なすもっと強大な魔人を討つためにも。このような戦いで命を落とすわけにはいかぬな」
いえ、そういうことではないのですが。
ルイサはため息とともに自分の言葉を飲み込む。
「兄上の伴侶となられる方に同情いたします」
ルイサはそう言って小さく首を振った。
「年がら年中、自分の命は二の次で、人のために剣を振るっては命を落としかけてばかりいる方のお帰りを心配して待ち続けるなど、わたくしにはとても無理でございます」
「命を落としかけてばかりとは何だ。私が魔人に苦戦してばかりのような言い草を」
ユリウスはむっとして言い返す。
「ほとんどの魔人は、私の剣の前にたちまち屈するのだぞ。カタリーナ殿が心配する暇もない程あっという間にな」
「カタリーナさまでございますか」
ルイサが眉を上げると、ユリウスは、あ、と言ってばつの悪い顔をする。
「まあ、なんだ」
ユリウスはわざとらしく咳払いした。その顔が少し赤くなっている。
「そなたも知っているであろう。私はシエラのカタリーナ殿と、結婚の約束を」
「ええ、存じております。兄上からのお手紙が届きましたゆえ」
そう答えて、ルイサは兄をじろりと睨む。
「涙が出るかと思いましたわ。必要事項のみを端的に並べた、実に事務的なお手紙でございましたね」
「いや、そのまあ、なんだ」
ユリウスは困った顔で頬を掻く。
「こういうことは、照れくさいであろう。ほかの者に書く手紙ならばともかく、ほかならぬそなたへの手紙では。それで少し、王宮への報告の応用を」
「本来であれば、わたくしも事務的にお返事させていただくところでございますが」
兄の言い訳に構わず、ルイサは澄ました顔で言った。
「別の方のお口添えもございましたゆえ、今回は許して差し上げます」
「別の方?」
ユリウスはきょとんとする。
「誰だ、それは」
「言いませぬ」
「まさか王が」
「王が私などにお口添えにいらっしゃるはずがないでしょう」
ルイサはため息をつく。
「他にお心当たりはないのでございますか」
「ない」
ユリウスは首を振る。
「アーガか。それともロイドか。まさかリランではあるまい」
「騎士の方々ではございませぬ」
ルイサは首を振る。
「どうしてそういった方々が兄上のご結婚の口添えをなさるのですか」
「いや、それはどうしてと言われても」
よく分からんが、というようなことをユリウスは口の中でもごもごと言う。
「兄上のお手紙と前後して、別の方からもお手紙が届いたのです」
ルイサは言った。
「カタリーナさまからでございます。父上母上宛てと、それからわたくし宛てにそれぞれ」
「カタリーナ殿が」
ユリウスは目を見開いた。
「いつの間に、手紙を」
「ドルメラで兄上が静養されているときに、カタリーナさまはわたくしたちへのお手紙を書いてくださったようでございます。兄上がわたくしたちに冷たい事務的な手紙を書いているのとちょうど同じころに」
「そういう言い方をするな」
ユリウスは顔をしかめた。
「手紙には、何と書かれていたのだ」
「兄上には教えませぬ」
ルイサはいたずらっぽく笑った。
「わたくしとカタリーナさまの秘密です」
「なに」
ユリウスは慌てて首を振る。
「そ、それはいかんぞ。どんな秘密だ」
「教えませぬ」
澄ました顔で拒絶した後、ルイサは微笑んだ。
「兄上。良い方と巡り会われましたね」
「む」
ユリウスは表情を改めた。
「分かってくれるか」
「ええ」
ルイサは頷く。
「悔しいですけれど」
「どうして悔しいのだ」
「知りませぬ」
ルイサは微笑んで、兄を真っ直ぐに見た。
「兄上を理解してくださるとても素晴らしい方と、よくぞ巡り会われました。おめでとうございます。わたくしは兄上のご結婚に賛成いたします」
「うむ」
ユリウスも微笑んだ。
「そなたのおかげだ。そなたが手紙の書き方を教えてくれたゆえ」
「どんなに立派なお手紙を書けたとしても、きっと他の方ではだめだったでしょう」
ルイサは優しい目で兄を見た。
「兄上が書いたお手紙だからこそ、カタリーナさまのお心に届いたのでございましょう」
「そうであろうか」
「そうですとも」
ルイサは頷く。
「わたくしの尊敬する兄上の、真っ直ぐで美しい心がカタリーナさまのお心を動かしたのです」
「ルイサ」
ユリウスは困った顔をした。
「そなたにそんな風に誉められると、調子が狂うな」
「これが最初で最後です。もう二度と言いませぬ」
ルイサは笑顔で言った。
「でも、嘘偽りなきわたくしの本心でございます」
「私も言おう」
ユリウスは椅子から身を乗り出した。
「ルイサ。そなたこそ我が誇り。どこへ出しても恥ずかしくない、最高の妹だ」
「その程度では足りませぬ」
ルイサは笑った。
「もっと誉めてくださいませ」
「今宵はもう出ぬ」
ユリウスが答え、二人は顔を見合わせて笑った。
ユリウスが、魔王討伐のために王宮からの召集を受けたのは、その数日後のことであった。
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