第31話 幸せ

 滝の音が、二人の口づけるひそやかな音を隠した。

 しばらく抱き合っていた二人は、やがてどちらからともなく身体を離した。

 けれど、それでも見つめ合う二人の顔には名残惜しさがありありと現れていた。

「本当は、このままずっとこうしていたいのです」

 ユリウスが言った。

「けれど、あまり人を待たせるわけにはいきません」

「リチアのことでございますか」

 まだ少し赤い目で、カタリーナが微笑む。

「そうでございますね。リチアも一人で私たちを待っていますので、あまり帰りが遅いと心配するでしょう」

「彼女もそうですが、先ほどの市場の果物売りもです」

 ユリウスは答える。

「売るものを売ってしまえば、果物売りとてさっさと帰りたいでしょう。あまり待たせるわけにはいきません」

「まあ」

 カタリーナは目を見張る。

「先ほどの約束をしっかり覚えていらっしゃったのですね。わたくしはもう、ユリウスさまの先ほどのお言葉を聞いて、広場でのことなどすっかり忘れてしまっておりました」

「私も危うく忘れるところでした。先ほど、騎士は約束を守るなどと貴女に言っておきながら」

 ユリウスは苦笑いした。

「貴女がお受けしてくださったことにほっとして」

 その言葉に、カタリーナはまた幸せそうに頬を染める。

「ユリウスさまの妻に」

 自分で言った言葉に、カタリーナは恥ずかしそうに顔を伏せた。

「いつかそんなことを言っていただけたらと夢に見たこともございました」

 そう言うと、そっとユリウスに身体を寄せる。

「まさか、それが今日とは思っておりませんでした」

「本当は私も今日この話をするつもりではなかったのです。ドルメラにいるうちに、とは思っておりましたが」

 カタリーナの華奢な身体を抱きとめて、ユリウスは素直に認めた。

「けれど、花を見ている貴女の美しさに、気持ちを抑えることができませんでした」

 それから、誤解しないでほしいのですが、と続ける。

「決して思い付きで言ったわけではないのです。目を覚ましてベッドの傍らに貴女を見たあの日から、ずっと考えていたことなのです」

「はい」

 カタリーナは頷く。

「ユリウスさまがそのようなことを軽々しくおっしゃる方ではないことは、わたくしもよく分かっております」

「それはよかった」

 ユリウスはほっと息を吐く。

「いきなりの話で、驚かれたことと思います。それぞれの国の事情もあるゆえ、このまますぐに、とはいかぬことも承知です」

 ユリウスは言った。

「私は帰国してすぐに王の裁可を仰ぎます。それと並行してカタリーナ殿のご家族への挨拶や私の家への報告。やることはたくさん待っています」

「ええ」

「けれど、貴女が頷いてくれた以上、それらは全て私にとって些事。一つ一つ片付けてゆけばいいだけのこと」

 ユリウスは微笑んだ。

「カタリーナ殿。貴女のお気持ちが知れて本当に良かった」

「わたくしもです」

 カタリーナはユリウスを見上げた。

「幼い頃は、自由に外へも出られないこの弱い身体を恨んだこともございました。けれど今日は、この世に生まれてきて良かったと、本当に心から思うことができました」

 カタリーナは微笑んだ。

「幸せです。ユリウスさま」



 連れ立って戻ってきた二人を見て、侍女のリチアはカタリーナの目の赤さと表情の変化に目ざとく気付いた。

「お嬢様」

 リチアは顔を曇らせた。

「泉で何かございましたか」

「大丈夫よ、リチア」

 カタリーナは笑顔で首を振る。

「心配はいりません」

「ですが」

「後で話しましょう。帰ってから」

「はい」

 カタリーナが笑顔できっぱりと言い切ると、リチアはそれ以上は何も言わなかった。

 二人はまたゆっくりと歩いて、広場に差し掛かった。

 広場の様子は来る時とはだいぶ変わっていた。

 売り物がなくなれば店を開けておく必要はない。この時間にはすでに市の店の半分以上がたたまれてしまっていた。

「お店の数がずいぶんと減っています」

 カタリーナは人通りも減り、すっかり見通しのよくなった広場を心配そうに見渡した。

「あの果物売りも、もう帰ってしまったのではないでしょうか」

「さて」

 ユリウスは微笑む。

「あの者の店はもう少し先です。きっとまだいますよ。行ってみましょう」

 ユリウスの言葉通り、件の果物売りの男はまだ店を開けて二人を待っていた。

「普段ならもうとっくに帰ってる時間でさあ」

 果物売りは笑顔で言った。

「でも今日は騎士様とお連れのご令嬢様が必ず寄ってくださるとおっしゃられた。残らねえわけにはいかねえでしょう」

「遅くなってすまなかった」

 ユリウスは穏やかに言う。

「意外に泉が遠かったものでな」

「きれいなもんだったでしょう。今時分は花も咲いているし」

 果物売りは誇らしげに言うと、店先に並ぶ果物を手で示した。

「騎士様たちがお戻りになるまで残しときたかったんですが、なにせうちの果物は新鮮でね。よく売れちまう」

 確かに残った果物は少なかった。だが、どれも鮮やかな色をしていた。ユリウスは手近の果物を二、三種類手に取る。

「確かに新鮮そうだ。よく売れるのも道理だ」

 ユリウスの言葉に、果物売りは嬉しそうに笑う。

「これをもらおうか」

「へい」

 果物売りはユリウスから代金を受け取ると、ユリウスの買ったものとは別に、そっと小さな果実を二つ差し出した。

「まあ」

 それを見たカタリーナが驚きの声を上げる。

「ワーンベリー。こんな季節に」

「狂い咲きの株がありましてね。少しだけ採れたんでさ」

 果物売りはユリウスの買った果物の上に、二粒のベリーを飾りのように載せた。

「約束を守っていただいたお礼です。お代は要りません」

 果物売りは、真面目腐った顔でそう言うと、頭を下げた。

「騎士様。俺たちの街を守ってくだすって、ありがとうございました」

「守ることができてよかった」

 ユリウスは答えた。

「そして自分たちの戦いが命を懸けるに値するものであったと知ることができた。こちらこそ礼を言う」



 館へと戻る間中、カタリーナは仲良く寄り添ったワーンベリーの赤い実を幸せそうに眺めていた。

「たくさんあるとあまり分からないものですが、こうして二粒だけですとすごく可愛らしい」

 カタリーナは言った。

「ああ、でももう少しあれば、ジャムができますのに」

「手紙にも書かれていた、ワーンベリーのジャムですな」

 ユリウスが頷くと、カタリーナは嬉しそうに頷く。

「ええ。次の冬には、きっとユリウスさまにもご賞味いただきたく存じます」

「ぜひ」

 ユリウスも笑顔で応じた。



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