第30話 泉
滝の水音のするほうへと、茂みの中を道が伸びている。
朽ちかけた木の粗末な看板に、かろうじて「滝」と書いてあるのが読み取れた。
「滝はこちらのようですな」
「はい」
二人が本道を逸れ、茂みの道に足を踏み入れると、後ろからそっと付き従っていた侍女はそこで足を止めた。
「リチア」
カタリーナは侍女を振り返る。
「あなたは来ないの」
「わたくしはここでお帰りをお待ちしております」
侍女はそう言って頭を下げた。
「ユリウスさま、どうぞ、カタリーナさまのことをお願いいたします」
「うむ」
ユリウスは頷く。
「滝までの道はそうかからぬと聞いている。カタリーナ殿の足でも大丈夫なはずだ。お怪我などは決してさせぬゆえ、安心して待つがよい」
そういうことを言っているわけではない、という顔を一瞬だけ侍女はしたものの、すぐにもう一度深々と頭を下げた。
「リチアは心配性なのです」
茂みを歩き始めてから、カタリーナは恥ずかしそうに言った。
「子どものころからわたくしの世話をしてくれておりますので、いまだにわたくしのことを子供だと思っているところがあって」
「それだけ大事に思われているということでしょう」
ユリウスは答える。
「幸せなことです」
「ええ」
ユリウスに笑われなかったので、カタリーナはほっとした顔をする。
茂みの中を、細い道が続く。
もう二人で並んで歩けるほどの道幅はなくなっていた。
ユリウスは先に立つと、手を後ろに差し出す。
「足元が先ほどまでよりも悪くなっています」
道まで張り出した木の根や転がる石で、確かに少しずつ道は歩きづらくなっていた。
「転んだりしてはいかん。どうぞ、私の手を」
「……はい」
頷いたカタリーナがその手を取る。剣を握り続けて岩のように硬くなったユリウスの手とは対照的な、柔らかく温かい手だった。
「とても大きくて、硬い手」
後ろを歩くカタリーナが言った。
「ユリウスさまの手は、騎士の手でございますね」
「似ていますか」
ユリウスは微笑む。
「兄君の手に」
「もちろん兄の手も木の皮のように硬かったですけれど」
カタリーナは楽しそうに答える。
「こんなに大きくはありません」
そう言ってから思いついたように、でも、と続ける。
「わたくしが兄と手を繋いだのはもう何年も前の子供の時分のことですので、もしかしたら兄の手も今は大きいのかもしれません」
「きっと大きいでしょう」
ユリウスは頷く。
「ラクレウス殿はその手に握る剣で、シエラ全土を守っておいでなのだから」
「それはユリウスさまも同じでございましょう」
カタリーナはごつごつとした武骨なユリウスの手を握る自分の手に力を込めてみる。
「守るものをたくさん抱えていらっしゃる。ですから騎士様の手は、みな大きくて硬いのでしょう」
「そうかもしれません」
ユリウスは笑った。
「だからこそ、剣を握る時以外は力加減に迷うのです。私の手は、貴女のこの手のような華奢なものを握ることに慣れていません。もし私の力が強くて痛かったなら遠慮なく言ってください」
「いいえ」
カタリーナは首を振る。
「とても、優しい繋ぎ方」
自分がどんなに力を込めても、ユリウスは痛みなど感じないだろう。それほどに力の違い、生命としての強さの違いを感じる。
だがユリウスは不器用に、まるで生まれたての小鳥の雛でも抱くかのようにカタリーナの手を握ってくれていた。
「もう少し強く握っていただいても、わたくしは大丈夫です」
「それは」
ユリウスは少し顔を赤くした。
「今度は私の抑えがきかなくなってしまいます」
「え?」
「ああ、ほら」
ユリウスは話を変えるように道の先を指差した。
「見えました。あれでしょう」
それは、確かに滝というにはずいぶんこじんまりとしたものだった。
ユリウスの身長よりも少し上くらいの高さから、小川の流れが下の泉に向けて流れ落ちている。
滝、と聞いて想像するような轟音はなく、それでも賑やかな水音が響いていた。
二人は並んで泉のほとりに立った。
「春先であれば、雪解けの水でもう少し水量もあったのでしょうが」
ユリウスが滝に目を向けながら言う。
「私が少し眠りすぎたせいでしょうな。もうその時期は過ぎてしまったようだ」
「でも、とてもきれいです」
カタリーナは言った。
ドルメラの兵士が誇るだけのことはあった。滝の涼やかなせせらぎもさることながら、泉の周りには色とりどりの花が咲き誇っていた。ユリウスの実家の花壇もかくや、という彩りだ。
滝の振動で花々が時折花弁を震わせるさまを見て、カタリーナは微笑む。
「見てください。まるで花の妖精たちが水辺で遊んでいるかのよう」
「ああ、なるほど」
ユリウスは花を見てぎこちなく頷く。
「色々な花が咲いていますな」
「わたくし、春が一番好きです。白一色だった世界が急にたくさんの色を取り戻して」
カタリーナはそっと花の群生に近付く。
「身体が弱かったので、冬は特に家から出られなかったのです。暖かくなって、外でたくさんの花に囲まれると、この世界が本当に美しいと思える」
その言葉にユリウスは、カタリーナと彼女が愛おしそうに見つめる花々を自分でもじっと眺め、この男にしては珍しく何かをじっと考え込んだ。しばらくして、ようやく合点がいったように、ああ、と頷く。
「どうされました」
カタリーナが心配そうに彼を見上げた。
「難しい顔をなさって」
「いや」
ユリウスは真剣な顔で首を振る。
「美しい景色を眺めるということの意味を、ようやく知りました」
「意味」
自分の隣で小首をかしげるカタリーナに、ユリウスは滝を見上げながら言った。
「私は剣の世界でばかり生きてきた男です。美しい景色を見て心が洗われる、などということを言う人がよくいますが、正直私にはその意味が分からなかった」
「美しいということが」
カタリーナは少し戸惑ったようにユリウスを見上げる。
「お分かりにならなかったのでございますか」
「ええ」
ユリウスは頷く。
「私にとって目の前の景色とは、自分が守るべき場所であり、魔人の潜む戦いの場所でした。そこに綺麗だとか美しいだとか、そんな感情が入る余地はなかった」
「まあ」
カタリーナは目を見張る。
それは厳しい騎士の戦いの現実だった。美しい花の群生の影には魔人が潜んでいるかもしれぬ。今日のこの穏やかな景色は明日には魔人によって一変させられているかもしれぬ。
だから騎士は余計なものを見ることをやめる。ただ一心に、討ち果たすべき敵たる魔人を見据えるのだ。
「けれど、ここでこうして貴女と並んで滝を見ていたら」
ユリウスの目が優しく細められるのを、カタリーナは夢を見るような気持ちで見つめた。
「分かりました。美しいものを見るということは、それを美しいと感じる誰かと心を共有することなのだと」
「ユリウスさま」
「花を美しいと感じる貴女を、私は美しいと思った。これからこの花を見るとき、私はきっと貴女の笑顔を思い出すでしょう。そして、この花を美しいと思うのでしょう。それが、美しいものを見るということなのだと」
言葉もなく頬を染めるカタリーナの前に、ユリウスはそっとひざまずいた。
「ユリウスさま?」
戸惑った声を上げるカタリーナを、ユリウスは見上げた。
「カタリーナ殿。私のわがままを聞いていただけないでしょうか」
「わがまま」
カタリーナは繰り返す。
「そんな。ユリウスさまにわがままなどは」
「一つだけです」
ユリウスは言った。
「けれど、その一つがとても大きなわがままなのです」
ユリウスがカタリーナを見る。その真剣な目に、カタリーナは両手で胸を押さえて頷いた。
「何なりと。ユリウスさまのおっしゃることならば」
「それでは」
ユリウスは微笑んだ。だが、その顔が少し青ざめていた。
緊張しているのだということがカタリーナにも分かった。
この百戦錬磨の騎士が、自分のためにこんなにも緊張している。
それだけ重要なことを、ユリウスは言おうとしているのだ。
「貴女への手紙を書いているときから、薄々己の心の中にあったことなのです」
ユリウスは言った。
「こうして貴女と再会することができてともに過ごしているうちに、それをどうしても言わねばならないことが分かりました」
「はい」
カタリーナは小さく頷く。
「どうぞ、おっしゃってくださいませ」
「あなたを」
ユリウスはそう言いかけて、一度やめた。大きく咳払いして、もう一度カタリーナを見上げる。
「あなたを離したくないのです」
ユリウスは言った。
「カタリーナ殿。ナーセリに来てほしい」
カタリーナが息を呑む。
「それは」
「どうか、私の妻に」
ユリウスは真っ直ぐにカタリーナを見上げ、手を差し出した。
「貴女からの手紙を、私は魔人討伐の旅先で読むだろう。それがナーセリ国内からのものであってほしい。討伐を終えて帰ったならば、そこに貴女がいてほしい」
シエラを離れ、ナーセリに赴く。それも、騎士の妻として。
それはカタリーナがこの場で簡単に承諾できるようなことではなかった。
「はい」
けれど、カタリーナは頷いてその手を取った。
「わたくしなどで、本当に良いのでございますか」
カタリーナは言った。
「後で、やはりやめておけば良かったと思われるかもしれませんよ」
「私は貴女以外に知らぬ。ともに美しいものを見たいと思えた人は」
ユリウスは答え、立ち上がった。
「貴女でなければだめなのです」
「わたくしもです」
カタリーナの目から涙がこぼれた。
「わたくしもユリウスさまと一緒にいたい。ユリウスさまでなければいやです」
「カタリーナ殿」
ユリウスがその身体を抱きしめる。やはりそれも、小さな子猫でも抱くかのように優しい抱きしめ方だった。
「ユリウスさま。もっと強く抱きしめていただいても大丈夫です」
ユリウスの腕の中で、カタリーナは言った。
「カタリーナは、それくらいでは壊れませぬ」
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