第17話 帰路

 三体の魔人を討ち果たした帰り道。

 深い瘴気に覆われていた山道には、嘘のように澄んだ風が吹き渡っていた。

 だが、その爽やかさを感じる余裕はユリウスにはなかった。

 深手を負ったリランの意識を繋ぎ止めるために、ユリウスは喋り続けた。

 互いの手合わせの思い出や、武術大会。魔人との戦い。

「あの時の貴公の剣は良かった」

「おう」

「三回やって、三回とも私が負けたのだ。覚えているか、リラン」

「おう」

 リランも苦しい息の下で相槌を打っていたが、徐々にそれは少なくなり、やがてなくなった。

「リラン、聞いているか」

 ユリウスはそれでも言った。

「カタリーナ殿との手紙の話はこれからだ。聞きたくはないのか」

 リランの返事はなく、じきにユリウスも喋る余裕はなくなった。

 リランを担ぎ、ユリウスは歯を食いしばって歩き続けた。

「死ぬな。リラン」

 荒い息の下で、ユリウスは時折思い出したように呼びかける。

「貴公には、待っている人がいるのだぞ」

 どれくらい歩いただろう。

 行きの何倍もの時間をかけ、視界の半分が靄がかかったように白くなりかけた頃、ユリウスの目はついに領主の館を捉えた。

「着いたぞ、リラン」

 返事はなかったが、それでもユリウスは言った。

「ラーシャ殿が待っているぞ」

 館の外では、下男が二人の帰りを待ち構えていた。

 仲間を担いでよろよろと歩いてくる騎士の姿を見付けた下男は、大慌てでラーシャを呼びに走った。

 下男とともに駆けつけてきたラーシャは、半狂乱になっていた。

「リラン様。嫌です」

 今朝、二人を見送ったときまでの気丈な姿が嘘のようだった。

 手や服が血で汚れるのも構わず、ラーシャはリランに取りすがった。

「リランさま。どうか、しっかり」

 その声に、リランが微かに目を開けた。

「ラーシャ殿」

 リランは囁く。

「幸せに暮らせ」

「幸せになど、なれませぬ」

 ラーシャが叫んで首を振った。

「リラン様。だめです、死んではなりません。私を置いていっては」

 だが、リランはもう答えなかった。

「リランさま。死なないで。私を一人にしないで」

 ラーシャの声に悲痛な響きが混じる。

「とにかく、館へ」

 ユリウスは言った。

「治療をせねば」

 だが、そう言った当のユリウスも体力の限界だった。

 リランの身体を地面に下ろすとよろめき、そのまま膝をついた。“虎”に受けた全身の傷は、決して軽いものではなかった。

 ラーシャ殿と下男だけではリランは運べない。私が運ばねば。

 だが、一度膝をついてしまうと一気に疲労と痛みが襲ってきた。ぐらぐらと目の前が揺れる。

 くそ。こんなところで。あと少しではないか。

 ユリウスは歯を食いしばる。

 カタリーナ殿。どうか、私に力を。

 ユリウスは重い剣を地面に放り出して、立ち上がった。

「館へ運ぶぞ」

 ユリウスは言った。

 リランに取りすがるラーシャの肩に手を置く。

「ラーシャ殿、リランは助かる。信じよ」

 そう言って、下男と二人でリランを担ぎ上げる。

「あと少しだ、リラン」

 ユリウスは言った。

「生きよ」

 だが、一歩踏み出すとそれだけで目の前が真っ白になった。

 体力の限界だった。

 こんなもの。

 ユリウスはもう一歩踏み出す。

 どうということはない。この程度のことは。

 頭の中に、あの夜のカタリーナの姿がよぎる。

 貴女の返事を読むまで、私は死なぬ。

 どうか。どうか、力を。

 リランを助ける力を。

 そう念じて、何歩歩いただろうか。

 不意に、担ぎ上げていたリランの身体が軽くなった。

「貴公らが、この傷か。相当に手強い魔人だったと見える」

 聞き慣れた低い声がした。

「ユリウス、よくぞリランを連れて帰った。後は任せよ」

 アーガ。貴公も来てくれたのか。

 もはやその年長の騎士の顔を見ることはできなかった。

 安心から、一気に力が抜けた。

 ユリウスはその場に崩れ落ち、意識を失った。



 目を覚ますと、館の一室だった。

 ユリウスはどうやら長いこと眠り続けていたらしい。ベッドの脇に自分の剣が立て掛けられているのを見て、アーガが来てくれたことを思い出す。

 痛む身体をこらえて部屋を出ると、館には大勢の使用人の姿があった。

 ユリウスの姿に気付いたその中の一人が、すぐにアーガを呼んできてくれた。

「起きたか、ユリウス」

「アーガ」

 ユリウスは開口一番、最も気がかりなことを聞いた。

「リランはどうだ」

「リランか」

 アーガは苦笑した。

「頑丈な男だ。目を覚ますのは貴公よりも早かった」

「なに」

 ユリウスは目を見張る。

「それでは無事であったか」

「まだベッドから下りられるほどではないがな」

 アーガは答える。

「貴公の心配ばかりしておったよ」

「そうか」

 ユリウスは、ほっと息を吐いた。

「それはよかった」

 それから、ふと声を落としてアーガに尋ねる。

「私はどれくらい眠っていたのだろう」

「ちょうど二日になるか」

 アーガは答える。

「その間に、使用人も街の住民も続々と戻ってきている。貴公らのおかげだ」

「二日か」

 ユリウスは頷く。

「ずいぶんと眠ってしまったが、人が戻ったのであればよかった」

「到着が遅れてすまなかった」

 アーガは言った。

「貴公らに厳しい戦いを強いてしまった」

「いいのだ」

 ユリウスは首を振る。

「仕掛けようと決めたのは私とリランだ。誰かが来てくれるとは思っていたが、状況からして待てぬと思った」

 結局は当日の夕方にはアーガが着いたのだ。ユリウスたちの判断は誤りだったのかもしれない。だが、それは終わってみなければ誰にも分からないことだった。

「ユリウスさま」

 使用人が伝えたのだろう。廊下の向こうから領主のラーシャが駆け寄ってきた。

「ああ、ラーシャ殿」

 ユリウスはそちらに向き直る。

「ずいぶんと眠ってしまった。お手間を取らせました」

「とんでもございません」

 ラーシャは首を振る。

「ユリウスさまとリランさまのおかげで、街に人が戻ってまいりました。瘴気は消えました。街はもう以前の姿を取り戻しつつあります」

 そう言って、膝を折る。

「お命を懸けての魔人討伐。まことにありがとうございました」

「呼ばれればいつでも参ります」

 ユリウスは微笑んだ。

「役目を果たすことができてよかった」

 その言葉に、ラーシャは小さく首を振る。

「騎士様というのは、本当に……」

 それだけ言うと言葉が続かなくなり、ラーシャはしばらく黙った後でユリウスを見上げた。

「リランさまも、ユリウスさまのご心配をしておいででした」

「ええ。リランこそ無事でよかった。後で顔を出します」

 ユリウスは頷いた。

「ところで、ラーシャ殿」

「はい」

「私宛の手紙が、来ておりませんでしょうか」

「ああ、それなら」

 ラーシャはユリウスの背後のアーガに顔を向ける。

「王都からの手紙なら、私が受けた」

 アーガがそう言って、青い蝋で封をされた封筒を振って見せた。

「明日には発つ。貴公らはもう少し養生しておけ」

「すまぬ、アーガ」

 確かにこの傷で次の戦いに向かうのは無謀だった。

 とはいえ、騎士が自分一人であったならユリウスは向かったであろう。

「来るのが遅れたのだ。それくらいの格好は付けさせてもらおう」

 そう言うとアーガは、からかうような目でユリウスを見た。

「だが貴公は、これではなく別の手紙を期待していたかな」

「なに」

「リランから聞いたぞ。シエラのご令嬢と手紙をやり取りしているとか」

 まだ触りしか話しておらぬのに、リランめ。もうアーガに話したのか。

「私もその手紙までは受けぬから安心しろ」

「もしそのようなお手紙が届きましたら」

 ラーシャも楽しそうに言葉を添える。

「すぐにお届けさせますわ」

「いや」

 ユリウスは照れくささに反射的に首を振ったが、思い直してわざとらしく咳払いをした。

「そうですな。その手紙であれ、王都からの手紙であれ、次はどうぞ、このユリウスに」




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