第16話 三体の魔人

「出たぞ、三人目だ!」

 リランが叫んだ。その顔の半分が、真っ赤に染まっていた。

「そっちに行ったぞ、ユリウス!」

 ユリウスは答えず、振り向きざまに一刀を浴びせる。

 だが、手応えはなかった。

 獰猛な獣のようなしなやかな四肢を持つ長身の男が、剣の届かないぎりぎりの位置で立ち止まってユリウスを見ていた。

 なるほど、こいつが。

 ユリウスはその魔人に向き直る。

 “虎”か。



 瘴気の沼から現れた、三体の魔人。

 その衝撃に、街は恐慌状態に陥った。

 一体の魔人が出るだけでも、大変なことなのだ。

 領主は、なぜよりによって我が街に、と頭を抱えるし、住民たちは昼から家の戸を固く閉ざすか、頼ることのできる親類のいる者は近隣の街に避難する。

 とにかく、早く魔人を討てる騎士に来てもらいたい。

 それだけが、彼らの望みだった。

 三体の魔人が同時に現れること。

 それは彼らにとっては、自分の家の裏山に地獄への扉が開くのと同じことだった。

 最初に騎士リランが到着した時には、すでに多くの住民が近隣の街へ避難を始めるところだった。

 領主はさすがにまだ館に残っていたが、家人の大半はすでに避難させた後だった。

 いかにリランがナーセリでも屈指の騎士とは言え、三体の魔人を同時に相手することは不可能だった。

 大至急の応援要請を受けた王都では、周辺にいる騎士たちに召集の手紙を送った。

 それにいち早く反応したのが、ユリウスだった。

「ほかにも騎士が来てくれるのか、それとも来ぬのか、それは俺にも分からん」

 リランは言った。

「だが、来たのが貴公ならば、二人でやってしまうのがよかろうと思う」

「同感だ」

 ユリウスは頷く。

「来るのか分からぬ応援を待って無為に過ごすことはできぬ。魔人がどこかへ姿をくらましてしまえば、それはそれで厄介だ」

「うむ。やはり貴公で良かった」

 リランは頷いて、館の中にユリウスを招き入れた。

 館の中は、ほとんど無人だった。

 ユリウスがここに来る途中の街も、すっかり閑散として廃墟のようだった。

「もうここにはほとんど誰も残っておらぬ」

 リランは言った。

「領主殿と、身の回りの世話をしてくれるばあや、それに下男が一人。それだけだ」

「そうか」

 ユリウスは頷く。

「領主殿が残られているだけでも、立派なものよ」

「俺は、残っていても仕方ないから逃げろ、と言ったんだがな」

 リランは苦笑する。

「どうしても自分は残る、と言ってきかぬ」

「騎士には騎士の矜持があるように」

 ユリウスは答える。

「領主殿にも領主殿の矜持がおありだろう」

「そういうものかな」

 リランが、ここだ、と言って扉を開ける。

 待ち構えていた領主が椅子から立ち上がった。

 それを見て、ユリウスは目を見張る。

 領主は、ユリウスの妹ルイサとさして変わらぬ年齢の女性だった。


「そうか。ハルベルト殿は先年に亡くなられていたか」

 領主の館の、あてがわれた部屋。

 剣を手入れしながら、ユリウスは言った。

「まさかそのご令嬢のラーシャ殿が跡を継がれているとは思わなかった」

「急な逝去だったからな」

 リランは椅子にもたれてユリウスの慣れた動きを見ながら、酒を一口、口に含む。

「それでもラーシャ殿はご自分の役割を果たされた。領民も皆が新しい領主を盛り立てたのだ。そうしてようやく落ち着いてきたところに、この魔人騒動だ」

 そう言って、この男らしくない湿った声を漏らす。

「気丈に振る舞ってはいるが、内心では不安しかあるまい。本来はもっと明るく朗らかな方なのだ」

「おかわいそうにな」

 先ほど挨拶をしたラーシャのことを思い出しながらユリウスは頷く。

 空っぽになってしまったこの館で、それでも真っ直ぐな目でユリウスを見つめ、長旅の労をねぎらってくれた。

「あの方のためにも、早く魔人を討たねばなるまい」

「うむ。そうしてまたかつての美しい笑顔を取り戻してほしいものよ」

 その言葉に少し引っかかりを感じて、ユリウスは剣から顔を上げた。

「リラン。貴公、ラーシャ殿とは以前から面識があったか」

「御父君健在の頃に何度か、な」

 その表情に、ユリウスは思わず頬を緩めた。

「なるほど、そういうことか。道理で、貴公ほどの男が逸るわけだ。大方、脇腹の傷も早くこの街に駆け付けたくて魔人との勝負を急いだせいで受けたのであろう」

「おい、ユリウス」

 リランが慌てて体を起こす。

「貴公、変な勘繰りはよせ」

「良いではないか。貴公もシエラでの晩餐会の折に言っていたではないか」

 ユリウスはまた剣に目を落としながら、涼しい声で答える。

「そろそろ身を固めるか、などと」

「むう」

 リランは熊のように唸ってまた椅子の背もたれに身体を預けた。

「そういう貴公の方こそ、どうなのだ」

 リランが反撃に転じる。

「シエラで仲良くしておった、ラクレウスの妹御とは」

「ああ」

 ユリウスは微笑む。

「あれ以来、一度も会ってはおらぬ」

「そうか」

 拍子抜けした顔をした後で、リランは、まあそうであろうな、と訳知り顔で頷く。

「シエラの令嬢となど簡単に会えるわけもない。外国の晩餐会で浮かれた目には魅力的に映るやもしれぬが、所詮は一時限りの恋だ。結局は、近くにいる女性が一番いいのだ」

「そうかもしれぬ」

 ユリウスは微笑んで答える。

「だが、遠くにいる女性を思うのも、そう悪いことではない」

「なに」

 目を剥くリランに、ユリウスは言った。

「手紙の書き方を覚えられるのでな」



 現れた三人の魔人の名は、それぞれ、“土壁”、“蟷螂”、そして“虎”。

 その名がどこまで体を表しているのか、それは分からない。

 だが、それは己の目で確かめれば済むこと。

 ユリウスとリランは翌朝早く領主の館を発った。

 心配そうに見送りに出たラーシャのリランを見る目にも、ただの騎士に向ける以上の感情が込められているように見えた。

 まあ、そういうことは私にはよく分からぬからな。

 そう考えて、ユリウスは余計な雑念を振り払う。

 戦いの後のことは、戦いの後に考えればよい。

 これより先、騎士ユリウスは人にあらず。魔人を討ち果たす一振りの剣と化す。



 戦いは突然に始まった。

 胸が焼けるほどの瘴気の中、突如二人の魔人が躍り出た。

 一人は天を衝くような大男、もう一人は小柄だが両腕が硬い刃と化した異形だった。

 “土壁”と“蟷螂”か。

 とっさにユリウスとリランは示し合わせたように間合いを取った。

「私は大きい方を斬る」

 ユリウスは叫んだ。

「リラン。貴公は」

「承知」

 皆まで言わせず、リランが“蟷螂”に躍りかかった。

 “土壁”も、何も言うつもりはないようだった。

 土気色をした巨大な拳を振り上げ、ユリウス目がけて振り下ろす。

 さっきまで自分のいた場所が抉れ、巨大な穴が開くのを見て、ユリウスは声をかけた。

「力は見事」

 “土壁”の虚ろな目がぎょろりと動き、ユリウスを見る。

「ほかにも何か技があるか。あるなら早めに出せ」

 そう言いながら、ユリウスは剣を構えた。

「さもないと、出せぬまま死ぬぞ」


 何太刀浴びたか分からぬほどの無数の斬撃を受けて、ようやく“土壁”はその旺盛な生命活動を停止して崩れ落ちた。

 ユリウスは肩で息をしながら、リランに目を向ける。

 リランも苦戦していたが、ちょうど“蟷螂”を仕留めたところだった。

 鋭い鎌のような腕に斬られたのだろう。顔の半分が真っ赤に染まっていた。

「無事か、リラン」

 そう声をかけた時、ユリウスに目を向けたリランが叫んだ。

「出たぞ、三人目だ!」

 それが、新たな戦いの始まりの合図だった。


 “虎”は他の二人よりも格上のように見えた。

 戦い方が理知的だった。

 “虎”の名にふさわしい、鋭い爪と敏捷性を備えていた。

 その速度に翻弄されたユリウスは、何度も身体を“虎”の爪に切り裂かれる。

「ユリウス」

 仲間の危機に駆け寄ろうとしたリランに、“虎”が目を向けた。

 次の瞬間、“虎”が流れるようなごく自然な動きで、リランの側面に回り込む。

 そちらは、リランの死角だった。血でふさがった眼で、リランが一瞬“虎”の姿を見失う。

「いかん」

 ユリウスは思わず声を上げた。

 “虎”の爪が一閃する。

 鮮血を上げてリランが倒れた。

「おのれ」

 ユリウスは“虎”に躍りかかった。

 その剣が空を切る。

 凄まじい速度で、“虎”が駆ける。

 ユリウスは剣を振るうが、当たらない。

 “虎”がにやりと口元を歪めた。

 狩りと同じだ。

 ユリウスは悟る。

 肉食獣の狩りと同じだ。こちらが抵抗する力を失うのを見極めている。

 そう分かっても、ユリウスは剣を振るい続けた。

 苦もなくかわしていた“虎”が、不意にがくん、と身体を揺らした。

 足もとにあいた穴に足を取られたのだ。

 それを狙っていた。

 ユリウスは全身の力を振り絞って飛びかかった。

 貴様の仲間があけた穴だ。

 ユリウスの剣が、“虎”に届いた。肩口から腰までを斜めに切り裂く。

 信じられぬ、という表情で“虎”が崩れ落ちた。

「走り回るなら、足元はよく見ておけ」

 ユリウスはとどめの剣を振り下ろした。



「置いていけ」

 リランが力なく微笑んだ。

「魔人になることなく死ねるなら本望よ」

「聞かぬ」

 ユリウスは強引に清浄水の袋をリランの口に当てて、飲ませた。

「貴公は私が連れて帰る」

「無茶を言うな」

 リランが首を振る。

「貴公も怪我をしているではないか」

「魔人と戦って怪我をするのは当然」

 そう言いながらユリウスは全身の力を振り絞ってリランを担いだ。

「戦いで傷ついた仲間を置いていかぬのも当然だ」

「ユリウス」

 リランが困惑した声を出す。

「最期に恥をかかせるな。置いていけ」

「恥など、あるものか」

 ユリウスは一歩踏み出す。

 重い。

 だが、これは生命の重さだ。

「ラーシャ殿と生きた貴公を会わせるのが、これよりは私の使命」

「ユリウス。無理だ。貴公も倒れるぞ」

「倒れぬ」

 ユリウスは答えた。

「カタリーナ殿の返事を読まねばならぬからな」

「なに」

 戦いは終わった。

 今は、ユリウスは無性にカタリーナの手紙を読みたくなっていた。

「その話が聞きたいか」

 ユリウスはまた一歩踏み出す。

「ならば、もう少し生きよ。リラン」




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