第2話 カタリーナ
華やかな宴の、その片隅。
照明もろくに届かない壁際で、ユリウスは好敵手ラクレウスの妹カタリーナと向かい合っていた。
「二年前、ナーセリの武術大会で」
カタリーナはどこか忙しない口調で言った。
「貴方様と兄との試合を見ました」
「ああ」
ユリウスは頷く。
宴席での淑女との語らいに、このような表情をするものではないと、頭では分かっていた。
だが、その話をされると、どうしてもユリウスの顔は曇らざるを得ない。
「貴女の兄君は、本当にお強かった」
それでもユリウスはそう言った。
無論、ユリウスとて好敵手たるラクレウスの強さは認めていたし、彼に負けたことを恥じているわけでもない。
ユリウスが恥じているのは、己の不甲斐なさとこの二年間の来し方についてであった。
「豪剣、というのはまさしくラクレウス殿のためにあるような言葉でしょうな。受け流すことで精いっぱいだった」
ユリウスは言った。それは本音だった。
「あのように剣を振るえるのは、天賦の才のみならず不断の努力あってこそのことでしょう。兄君を誇りとなさいませ」
「それでも、あの日勝ったのはユリウスさまでございました」
カタリーナは言った。
「兄の剣を受けるユリウスさまの剣は、まるで水のようで……とてもきれいでした」
自分の剣を、きれい、などと言われたことは今までになかった。
ユリウスは戸惑ってカタリーナを見た。
「わたくし、初めてだったのです」
カタリーナは、頬を微かに染めて言った。
「剣の試合で、兄が敗れるのを見たのが」
「ああ……」
ユリウスは頷く。それはそうかもしれぬ、と思った。
「貴女の兄君はシエラ第一の騎士。剣においてはそうそう後れを取ることもございますまい」
「ええ、ええ、そうなのです」
カタリーナは我が意を得たり、とばかりに二度三度と頷く。
「兄があのように死力を尽くしても、それでもなお届かぬ方がいらっしゃるのかと、信じられぬ気持でした。わたくしには、ユリウスさまがまるで天上世界の方のように見えました」
「天上世界などと、おやめくだされ」
ユリウスは苦い顔で首を振った。
「あの試合、私はラクレウス殿の剣を何とかしてさばくことに必死でした。勝てたのも僥倖以外の何物でもありません」
現に、とユリウスは言った。
「今回は、やはりラクレウス殿に及ばなかった。私は二日目にはお役御免になってしまった」
自然に、自虐めいた口調になっていた。
それは、敢えてこの令嬢に言う必要もない言葉だった。
彼女は自分の剣を美しいと褒め、二年前の勝利を称賛してくれたのだ。素直に受け止めて、お返しに彼女の可憐さを称えてやれば、それでこの席でのユリウスの役目は果たせたはずだ。
だが、彼女はほかならぬラクレウスの妹だった。
知らず、勝者に抱いていた醜い劣等感が、ユリウスに剛毅な騎士らしからぬ言葉を口走らせた。
「今度の試合は兄君が勝ったのだ、貴女もさぞ喜ばれたことでしょう」
その言葉に、カタリーナが表情を硬くした。
「いいえ」
カタリーナは首を振った。
「わたくしは、そのような。ただ、二年前の試合に勝るとも劣らぬ美しい試合であったと存じます」
それから、困ったように付け加える。
「勝敗は神の定むるところ、時の運とも申しますゆえ」
そんなことは、実際に剣を交えた騎士たるユリウスの方がよく分かっていた。
だが、不用意な一言でこのいたいけな令嬢に無駄な気を使わせたことをユリウスは恥じた。
「つまらないことを言いました。忘れてください」
ユリウスはそう言うと、カタリーナから目を逸らした。
「ご覧の通り、私はつまらぬ男です。どうか、もっと有意義な、楽しき話の出来る相手をお探しくだされ」
それで、話を打ち切ったつもりだった。
カタリーナはそれでも何か言おうとしたが、ユリウスの表情を見ると、小さく頭を下げて、そっとその場を去った。
宴も終盤に差し掛かった頃、ユリウスのところに長身の男がやって来た。
今大会の優勝者であり、名実ともにシエラ第一の騎士となったラクレウスだった。
「ユリウス殿」
ラクレウスは気さくにそう呼びかけると、ユリウスの持っていた杯に勝手に自分の杯を合わせた。
「ようやく来ることができた」
ラクレウスは言った。
「いろいろと挨拶に回るところが多くて、こんな時間になってしまった」
「貴公は優勝者だ。いわば、この宴の主役」
ユリウスは答えた。
「忙しくて当然であろう。むしろ、私のところへなど来てもらえるとは思っていなかった」
「本当はここへ真っ先に来たかったのだ」
ラクレウスは砕けた口調で言った。
「大会の優勝は無論、名誉なことだが、最も誇らしいのは、貴公に勝てたことだ」
そう言うと、にい、と邪気のない笑みを浮かべる。
「この二年間、あのときの雪辱を果たすことばかり考えていた。再びまみえた貴公は、あの日よりもさらに強かった。それでも勝てた自分を誇りに思う」
「完敗だった」
素直に、ユリウスは認めた。
「ナーセリに帰ってまた二年間、研鑽を積むこととするよ」
「貴公ならばそう言うと思っていた」
ラクレウスは声を上げて笑った。
「これで我らは一勝一敗。二年後に本当の雌雄を決しようぞ」
「ああ。望むところ」
答えながら、ユリウスは自分の気持ちが少し楽になるのを感じていた。
飾り気のないラクレウスの言葉に、敗北を素直に受け入れる心の余裕が生まれていた。
「それはそうと」
不意にラクレウスは声を潜めた。
「我が妹が貴公のもとを訪ねなかったか」
「……ああ」
ユリウスは頷く。
「カタリーナ嬢のことか。確かにみえたが」
「可愛い妹であろう」
ラクレウスはそう言うと相好を崩した。
「兄に似ず、可憐に育った。少し身体が弱すぎるきらいはあるが」
「確かに貴公の言う通り」
ユリウスは頷く。
「麗しい女性だった」
「あれは、二年前から貴公にご執心なのだ」
ラクレウスは言った。
「二年前の我らの試合を見てから、ずっとだ。兄が敗れたというのに、あれは貴公の話ばかりしていた。まるで伝説の英雄でも見るかのような崇拝ぶりだった」
そう言って苦笑いする。
「今日は貴公と話をするのだと張り切っていた。嬉しそうだったであろう」
その言葉にユリウスは、声をかけてきたときのカタリーナの緊張した面持ちを思い出した。
「話は弾んだかな」
ラクレウスは探るようにユリウスを見た。
「あまり話のうまい妹ではないので、少し心配でな」
「弾んだ、とは言えぬ」
ユリウスは首を振った。顔を曇らせるラクレウスに、ユリウスは言う。
「妹君のせいではない。私の問題だ。私は貴公と違って、ご婦人を楽しませるということのできない男なのでな」
「貴公ほどのいい男であれば」
ラクレウスは言った。
「黙って微笑んでいるだけでご婦人方は喜んでくれると思うがな。とはいえ、まあ、そうか」
そう言って、頭を掻く。
「妹のことは気にせんでくれ。張り切っていた分、多少は落ち込むだろうが、まあ、ああ見えて意外としっかりしている。立ち直りも早かろう」
「すまぬ」
「だから、良いと」
その時、宴席の中心の方で、誰かがラクレウスの名を呼んだ。
「ああ、行かねばならぬ」
ラクレウスは舌打ちをすると、もう一度ユリウスに微笑んだ。
「それではユリウス殿。またいずれ」
「うむ」
ユリウスも頷く。
「次は瘴気の沼で肩を並べるか、それとも次の武術大会で相まみえるか」
「その時を楽しみに」
固い握手を交わした後でラクレウスがその場を離れると、ユリウスは持っていた杯を、ぐい、と空にした。
好敵手と話をしたことで、彼本来の剛毅な性格が戻ってきていた。
せっかく話に来てくれたカタリーナ嬢に、ずいぶんと冷たい態度をとってしまった。
遅ればせながらそのことに気付いて、後悔の気持ちが湧いていた。
女々しいことを言ったユリウスにもうすっかり幻滅してしまっているかもしれないが、それでも騎士としてきちんと謝っておくべきだろう。
そう決めてようやく壁から離れたユリウスは、カタリーナの姿を探した。
宴も進み、酒が入ったせいもあり、会場は開放的な雰囲気になってきていた。そこかしこの暗がりに、身を寄せ合う男女の姿があった。
ぐるりと会場を一回りしたが、カタリーナの姿はなかった。
もしかしたら、暗がりで身を寄せ合っていたうちの誰かがそうだったかもしれぬ。
それならば、邪魔をするのは野暮というものだ。
そう考えて、ユリウスはそれでも未練がましく会場をもう一回りしてから、やむなく、元の壁際に戻る気もなくなり、庭園に出た。
明りの灯された庭園でも、身を寄せ合う男女の姿がいくつもあった。
こうなっては、探すに探せぬ。諦めてユリウスは手近のベンチに腰を下ろす。
「お……」
思わずユリウスは声を上げて腰を浮かせた。
ちょうど、植え込みの陰になった向かいのベンチにただ一人、うつむいたカタリーナが座っていた。
「カタリーナ殿」
ユリウスの声に、カタリーナが顔を上げる。その目が、泣きはらしたように真っ赤だった。
「あっ」
声を上げて目を見張ったカタリーナは、すぐにまたうつむいた。
自分の顔を見られたことを恥じているようだった。
「先ほどは失礼をした」
ユリウスはそう言って、近付いた。
「いいえ」
カタリーナがうつむいたまま首を振る。
「わたくしがいけないのです。ユリウスさまのお気持ちも考えずに」
「私の気持ちなど、考えていただく必要はないのだ」
ユリウスはカタリーナの前にそっとひざまずいた。
「先ほど私が口にしたつまらぬ愚痴は、どうか全て忘れていただきたい。そのうえで、私ともう一度話してはくれぬだろうか」
そう言って、まだ顔を上げないカタリーナにそっと手を差し出す。
「ナーセリの騎士ユリウスと、もう一度」
その言葉に、ようやくカタリーナがおずおずとユリウスを見た。
「よろしいのですか」
カタリーナは言った。
「わたくしは、武術大会でのユリウスさましか存じないのです。ですから、試合のことしかお話しすることがございません」
それではまたユリウスの気持ちを傷つけてしまう。カタリーナはそう危惧しているようだった。
「元来、私とて戦いしか知らぬ男だ」
ユリウスは答えた。
「先ほどはどうかしていた。話をしよう、カタリーナ殿。二年前の試合も、先日の試合も、聞きたいことをすべて話して差し上げるゆえ」
その言い様に、カタリーナがくすり、と笑った。
ユリウスはほっとして、差し出していた手をもう一度伸ばす。
「さあ。私もあまりこの姿勢のままだと見た目が悪い」
「はい」
そっと頷いてカタリーナがユリウスの手を取った。
夜風に晒された冷たい手だった。
「さあ、何から話そうか」
ようやく立ち上がったユリウスが言うと、カタリーナは恥ずかしそうに言った。
「本当は、試合以外のことでもお聞きしたいことがたくさんあるのです。ユリウスさまのこと」
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