廃れた山小屋 2

 白い光が生い茂る木々の若葉を照らし、山全体を明るい緑に発光させている。これからここでの生活が始まる。生憎怜は天気と主人公の感情を一致させるという小説や映画で使われる技法が好きではなかったが、今日だけは確かに輝く朝だと言える。

【こっちだ】

 案内を始める牡鹿の後を追い、怜は並んでいる建物の内、一つの中に入った。

「うっ」

 入った瞬間にしたかび臭さと埃っぽさで怜は咄嗟に鼻を手で覆った。澱んだ空気が目に見えるかのように漂っており、口呼吸でこの空気が肺に入って来ることすら不快だった。

【数年人の手が入っていないからな。二階部分の押し入れに布団が入っている。使えるかどうかの確認も含めて外に出してきてくれ】

「わかりました」

 怜は作業用にと手に持っていたタオルを口周りに当ててから、牡鹿の指定した部屋へと足を運ぶ。カーテンは開いているために、日が差し込んできており、中の様子をある程度確認することが出来た。洋風を模した景観に、淡い茶色のフローリング、いくつかの机に、トイレと風呂、キッチンなどの居住設備、二階には扇風機と睡眠スペースのためか畳が敷き詰められている。その畳が敷かれているスペースの奥に押し入れらしきものを発見した怜は引き戸になっているそれを開ける。

 そこには数人分の敷布団と毛布、枕が仕舞われており、取り敢えず敷布団から外に出すことにした。触るとじっとりと湿っているような感触があるが、実際に手が濡れるわけではない。近くに川があるが故の湿度はここまで強烈であるのかと、ここでの生活への不安と言うのを薄らと感じた。

 何よりも水分を吸った布団は重い。昨日一日の疲れがまだ残っているのか、三つの敷布団を持つのが限界だった。

 階段から落ちないように慎重に布団を下ろし、先程入ってきた玄関に向かうと、建物の前にはハイエースが止められていた。

「え、あれ? ハイエース?」

【免許は持っているだろう? 一気に運んだほうが効率的だ】

 牡鹿はまた説明をして、何を思っているのかわからない表情で怜を見つめている。

「あ、いやそれはそうなんですけど、これどうやって持ってきたんですか?」

 明らかに舗装されている道はないものの、建物の前にはよく見れば車が走っていたのであろう轍が残っている。かつて人が賑わっていた時は多くの人間がここを車で訪れたのだろうというのがわかる様相だった。

【秘密だ】

 秘密ばっかりだな、と発言しそうになったのを抑え、バックドアから敷布団を入れていく。一度もに持てたのが三つで、仕舞われていた敷布団はキリが良く九つ。同じ数の毛布と、枕を出してきた怜は思いの外、体力が落ちていたことに気付く。

【そんなんで音を上げるのか?】

「滅茶苦茶歩き回って訪問営業してたはずなんですけどね。飯食えなくなってたからなぁ。大丈夫ですよ、あと二棟終わらせちゃいましょう」

【水道から水は出る】

 そこから水分補給をしろと言っていることに気付いた怜は静かに「はい」とだけ告げ、別の棟の布団も全て運び出した。それが終わる頃には冷えていた身体もしっかりと温まり、一番下に着ているTシャツがびしょびしょになるくらいだった。

 昨日買ったペットボトルの中に入れた水道水を口にしながら、怜は驚きの声を漏らす。

「え、なにこれ。うまっ」

 コンビニで水を買うような質の怜だからこそ、いや怜でなくともこの水道から出ている水がただの水道水ではないということは理解できるだろう。

【山から出ている湧水を引いている。下手に飲みすぎると腹を下すかもしれないから気を付けろ】

「え……。腹弱い方なんですけど」

【じゃあ明日は下痢だな】

「えぇ」

 突然この美味い水を飲むことを躊躇する羽目になった怜は少し牡鹿を恨みながら、意を決してもう一度ペットボトルに口を付けた。


【一区切りだな。意外ときつかったか?】

 駐車場のようになっている広場にキャンプ用の机などを使って綺麗に干されている布団たちを見ながら牡鹿はそう告げた。

「まだまだぁ!」

 そう言う怜の顔には明らかに疲労が出ている。しかし牡鹿はわざわざその嘘を指摘しようとはせず、彼の体調を気にしながらも尋ねた。

【まだ歩けるか?】

 まだ何かやることがあるのかと思った怜だが、ここで負けてられないと思い、元気を装って明るく答える。

「余裕です」

【息抜きだ。ついてこい】

 そうやって歩き始めた牡鹿の後を追って、怜は再度山道を登り始めた。

「ところでどこへ?」

【昨日言ったろ、渓谷を見られると】

 昨晩山の上から雄大な岩山を見たことを怜は思い出す。身体の疲労から、もう一度見たものは見ても仕方ないというような気持が生まれていたが、既に先を歩き始めている牡鹿にそれを言っても忍びないので、渋々後についていくことにした。

 舗装されていないものの、車の行き来があったことを思わせる砂利道は、昨晩登っていった山道よりかは明らかに登りやすい。だから疲れた体でも牡鹿に追いつくことが出来た。

 それから十分ほど歩いたところで、木々に挟まれていた道から広場に出て、一気に空と視界が開ける。その空の先には牡鹿の話通り、神が通るために穿たれた大岩が現れた。

 岩特有の鈍色に光る肌を朝日が照らすことで、白く輝かせており、その岩肌から伸びる木々や苔が新緑の温かな木漏れ日を地面へ降り注がせている。もちろん山の寒さはあるものの、それとは違う清々しい冷たい空気が怜の身体を包み込む。それが川によって生み出された渓谷を吹き抜ける風だと気付くのは容易い。

 いくつかの岩が階段のように並べられた小道を抜けると、その大岩の狭間へと辿り着く。見たこともないほどの大きさの岩が河原へと転がり、その合間を水底まで見通すことの出来る清流が流れていく。膨大な量の水が滝のように溢れ、しぶきを散らし、怜の頬をじんわりと濡らした。

「凄い」

【だろう】

 一瞬でも行くのが面倒だと思ってしまった自分に腹が立つ。怜は雄大な自然を目の前にして、息をつく暇もなく、その景色を目に焼き付けていた。

「ここって本当に東京ですか?」

【一応な】

「こんなところがあったなんて。東京と言えばコンクリートに囲まれた五月蠅いところだと思ってました。でも、ここも大きな音はするけど、こんなにも美しいなんて」

 怜はもう一度その景色へと目を配り、改めて自然の奥ゆかしさに心を委ねた。

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極東見聞録 九詰文登 @crunch

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