廃れた山小屋 1
牡鹿に案内されるがままに、山を下った怜は牡鹿が話していた山小屋と対面した。
「え、結構あるな」
獣道のような細道を挟むようにいくつか立ち並ぶ建物は全部で五つほど存在している。
「一、二、三、四、五。全部で五棟ですか?」
【右側の斜面に、地面を削って作った階段があってそこを登ると二棟、今見えている建物より小さめの小屋が建っている】
「じゃあ全部で七棟か。え、それ一人で管理するんですか?」
【まあそこら辺の話はおいおいする。明日の朝、さっき言っていた神戸岩の渓谷に案内するから、今日はもう寝ろ。疲れているだろう】
牡鹿はそう言いながら、視界に入っていた建物の内、一番大きな建物に怜を案内した。
【かつてはバンガローと呼び、貸し出していた建物だ。床が全て座敷になっているからひと眠りするには丁度良いだろう。他の建物は板張りの床だからな】
ガラス張りの引き戸を開けて、建物の中に入ると、つんとカビ臭さが怜の鼻を突いた。長年使われていなかった建物はこうなるのかと、バンガローの年季を、怜は五感全てで感じていた。
【建物すぐそばを川が流れている。大きさからして川というより沢と言った方が正しいかもしれないが、そこから上がって来る湿気が建物を蝕むんだ。最初はカビとの戦いだぞ】
高い声音から牡鹿が少し昂っているのを感じた怜は、引き受けた仕事が思いの外、大変かもしれないということに気付く。
【では明日の朝また迎えに来る。それまでは好きにしていて構わない。バンガローの中にトイレはあるし、水道は外にある。飯はないが、明日の朝には用意しよう】
「なんか、色々すいません」
【ではな】
バンガローを出て行った牡鹿を見送った後、怜はゆっくりと座敷の上に腰を下ろした。少し湿っているような気もしたが、カビとは違う香り高い匂いが怜の鼻腔を刺激した。昔田舎の祖父母の家で嗅いだことのあるイグサの香りだった。
その香りをかいだ瞬間、急激に怜を睡魔が襲う。しかし今眠ってしまうことに、怜はある種の恐怖を覚えていた。見渡す限りの大自然に、目を奪われるほどの荘厳な岩山、そして喋る牡鹿との出会い。本当は現実だと思っているこの世界が夢であり、今ここで眠ってしまうと、この夢のような出来事から、もっと厳しく残酷な現実に引き戻されるのではないか。そんな根拠のない不安に駆られ、寝転びながらも天井の模様を眺めていた。しかしそんな状態で意識を保っていられるほど、怜の身体に体力は残っておらず、そんな不安を抱えながらも、自分の薄れゆく意識を手放した。
「さむっ」
辺りの冷え込みで目を覚ました怜は、白み始めている外を見て、むくりと起き上がる。
「五月でこの寒さかよ」
息が白くなるほどではないものの、冷え込んでいるのは靴下を履いている足先の感覚がないことで十分理解できた。飯を食べていないからというのもあるのだろうが、この寒さの原因を模索する前に、身体を動かそうと、怜は鞄の中から羽織れる上着を一枚取り出し、それを着てから外に出た。
空を見る限り、太陽は山の向こうで顔を出し始めているのだろう。まだ鮮やかな水色ではなく、夜の残り香を感じる濃紺が滲んでいた。昨晩見ることの出来た月や星は、木々に囲われた狭い空が故なのか、日の光の故なのか、その姿を隠している。
「こいつのせいか?」
砂利道に囲われた建物の周りを歩いていると、ちょうど裏側に静かな清流を見つけた怜は、その透明度に驚く。水底に沈む石、一つ一つの輪郭がはっきりとわかり、この様子だと、時期になれば川魚の魚影もはっきりと見えるかもしれない。怜にとって川と言うと、多摩川のように茶色く濁っている汚い物というイメージであったが故に、その清廉さに思わず手を伸ばしてみたくなった。しかし山から沁みだしている水は、思ったよりも冷たく、怜は手を入れた瞬間、噛みつくような温度に驚き、すぐさま手を引っ込めた。
【まだ入るには冷たいが、夏には有難く思うようになるぞ】
ふと後ろから声を掛けられた怜は身体をびくりと震わせてから、向き直る。そこには白銀の毛並みをそよ風で靡かせる牡鹿がいた。
「おはようございます」
【早起きだな】
「寒くて」
【布団はまだかび臭いだろうからな。布団で眠りたければ今日干すしかないな】
「寝床から自分で作るって感じですね」
【そうだ。開業は夏、七月を目標にする。避暑としてもそうだが、キャンプをしたいと来る客が多かったと聞く。七月までは山小屋の整備で、そこから本番のつもりだ】
淡々と一年の話を始める牡鹿に対して、怜はこれからの予定が積みあがっていく安心感にそっと胸を撫で下ろしていたが、それと同時に、何も言わずに出てきた家へいつ説明しに行こうかという漠然とした悩みが少しずつ膨れ上がっていくのも感じていた。
「今日は何からしますか?」
【腹が減っているだろう。まずは飯だ】
牡鹿は一つの包みを怜の前に置く。それを開けると中にはコンビニで買ったであろうおにぎりがいくつか入っていたが、その包装は今まで見てきたどのコンビニおにぎりとも違うもので、恐らくご当地コンビニのようなものが近くにあるのだろう。そんなことよりもどうやって牡鹿がこのおにぎりを買ってきたのか、それの方が気になって怜はそれを尋ねようとした。しかしなんだかそれは野暮のような気がして、開けてしまった口におにぎりを放り込む。
「え、うまっ」
よく食べるコンビニのおにぎりとは違い、根本から米やそれにまぶされていたであろう塩の奥深さが測り知れないほどに強烈に全身を駆け抜けていったのだ。怜が最初に手に取ったおにぎりは、塩むすびであったのだが、本来淡白でどうってことのないそれが、塩と米の味によって、程よい塩味と、深い甘みを醸し出している。千と千尋の神隠しのように、涙が溢れそうな塩むすびに、怜は感嘆の声を漏らす。
「これはどこで?」
【またの機会に店に案内しよう。今日は仕事だ】
早く食えと言わんばかりに、怜へ視線を向ける。その痛々しい視線に耐え切れなくなった怜は、目の前に置かれていた残りのおにぎりを二つ平らげた。鮭と昆布だった。
【明日、いや今日の夜のことを考えるとまずは布団か? 最初に布団を外に干し、出したところの建物を掃除する。恐らく一日で三棟が限界だろうから、まずは三棟分の布団を外に出せ。少し降りたところに開けた場所とBBQ用の机が置いてある。そこに並べる形でな】
牡鹿の言葉に合わせて、光が収束する形で、三つの鍵が現れる。魔法の様に現れた鍵を目の前にしながらも、喋る牡鹿を受け入れている時点で、もう驚くつもりはなかった。
「いやいやいや。さすがにそれはツッコミ入れないと」
【これからこんなのばかりだぞ】
「え」
いたずらっぽく言った牡鹿は既にバンガローの外に出ており、全く納得のいっていない怜は鍵を手に、走っていく。外に出ると山の向こうから朝日が見え始めていた。
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