白銀の牡鹿 4

 牡鹿はその脚力で急な坂道をすいすいと登っていくが、人間の素人の足しか持っていない怜はつづら折りの要領で、じわじわと登っていく。そのペースの遅さに、さっきまでの問答からすると何か煽りや野次のようなものが飛んでくるかと思っていたが、牡鹿は全くそんな素振りを見せず、先に行っては追いつくのを待って、というのを繰り返していた。 

 怜にとって明確な目標を小さく設定してくれているからか、最初の果てない登山より、取り敢えずは牡鹿の所までと、メンタル的にも簡単に登っていくことが出来た。何より夜の山道だというのに、迷うことなく登っていけるのは牡鹿のその鮮やかな白銀の毛並みが目立つおかげだろう。しかしそれ以上に木々の間から道を照らし出す月光が、街の明かりがないからかひときわ輝いて見えた。仄暗い山道でありながら、木の陰影を作り出す月光の強さたるや、街で生きてきた怜が知る筈のない灯りだった。

 眠らない街と揶揄される東京中心部では月の有難みなんてものは微塵もないと言っても過言ではない。夜通し光が灯されているネオンに、酔っ払いたちが生み出す喧騒。そんな騒がしさに身を任せていると、夜が暗い何てことを忘れてしまい、眠りにつく前に新たな朝が迎えに来る。怜とて毎日と言わないまでも、朝帰りの遊び方はほどほどにした方だった。だからこそこの夜闇を照らす月星の儚さに気付くことはなかった。

【今日は満月だ。初夏だからそこまでではないが、月明かりは澄んでいる。だとしても油断するなよ。思いもよらない所に穴があったりするからな】

 牡鹿の声はまるで父の様に、優しく包み込むように注意を促した。

「はい、気を付けます」

 その忠告をしかと受け止めたということを、言葉だけでなく態度で示すように、しっかりと牡鹿の方を向いて、怜は告げる。しかし既に牡鹿はその歩を進めており、目が合うことはない。それでも怜は牡鹿にちゃんと伝わったということを、心で直感した。


【なぜここが神戸岩かのといわと呼ばれているか知っているか?】

「でかい岩山であるということは知っているんですけど」

【この岩山に対してぶつかる様に流れ続けていた川が、悠久の時を経て、少しずつ少しずつその大岩を削っていき、いつしかその岩山はまるで神がを開けたかのように、真っ二つに穿たれた。本来は別の道から行けばその割れ目を目前で見ることが出来るのだが、夜には危ない。だから今日は上から見せる】

 牡鹿は道を開けるように、今立っていたところから横に一歩退いた。怜は、牡鹿が同じ所に登って来いと言っているのだと気付き、残りの数歩を速足で登り切り、牡鹿の隣に立った。

 そこは山の中でありながら、木々が少し開けており、視界が広がっている。

 目の前に見えるのは巨大な山だった。しかしところどころの地面は禿げ、岩が剥き出しになっていることから、それが本当に岩山であるということが理解できる。

 そして牡鹿の言葉通り、その大岩はまるで神がこじ開けたかのように、大きく二つに割れており、遠目からもその間を川が流れているのがわかった。月光の白い光によってぼうと映し出される岩肌と、新緑を携えた木々は、怜が惹かれ求めていた自然をまざまざと見せつけてくる。

【今怜が立っているのも神戸岩の一部であるのだが、向こうの割れている方に目が惹かれるからか、こちらから神戸岩を臨むものは少ない。所謂穴場スポットというヤツだ】

 牡鹿は鹿という顔の形状から笑顔を見せることはなかったが、その声音から十分に笑っているということを理解できた。それも怜が神戸岩を目の前にして口をぽかんと開けているからだった。漠然と目前に広がる岩山の巨大さに圧倒されるだけでなく、その岩壁に張り付くように奇妙に生えた木や、それを照らす月と、ここでしか見ることの出来ない価値が、冷え切っていた怜の心を強く強く打ち付けていた。「すごい」とか「うわぁ」とか感嘆の音しか出ない中で、わざわざ初対面の自分を穴場へと連れてきてくれた牡鹿に疑問を抱き、神戸岩に奪われていた視線を何とか牡鹿へと移し、尋ねる。

「なんで教えてくれたんですか?」

【これからお前が案内するかもしれない。私が話した言葉も、いつかお前が話すかもしれない】

「どういうことですか?」

【生きるんだろう? ここで】

 牡鹿の言葉に怜は興奮が故の鳥肌を立てる。

「生きるって、僕は神戸岩を見に来ただけで」

【神戸岩のふもとにかつて一棟貸しという形で人を泊めていたロッジや山小屋が数軒立っている】

 鳥肌は収まることはなく、ぞくぞくと武者震いが熱く鼓動を打ち始めた心臓から怜の身体全身へ伝わっていく。

【もう既にボロ屋と言っても過言ではない代物ばかりだか、掃除すればまだまだ十分に使えるものばかりだ】

 牡鹿は怜の喜びが抑えきれない顔を見つめながら、続ける。

【この山は今力を失っている。訪れる人が減り、信仰が損なわれたからだ。だからお前がこの山の力を取り戻して見せろ。ノウハウもやり方も一から全て教えてやる。かつて霊峰と謳われた神戸岩を賑わせた山小屋を再興させる。どうだ? 新たなスタートラインとしてお前はどう思う】

 怜の中にはこの牡鹿に対する疑念が浮かんでいた。今日初めて会った自分になぜこれほどまでの信頼を置いてくれるのか。牡鹿が言っていた損なわれた信仰というのが、怜の想像を絶するほどに逼迫した状態なのかもしれない。未だ牡鹿に聞くべきことは両手では数えきれないほどにあったが、もう怜の中で覚悟は決まっていた。しかし粋な真似をして見せる牡鹿に対して、何か負けたくないような気持ちが先走り、元気よく返事をすればいいものの、皮肉めいた言葉を返す。

「ちゃんと金は稼げるんですか?」

 牡鹿はその言葉を鼻で笑い、恐らく件の山小屋があるであろう方向へ歩き始める。

【客が来なけりゃお前に払う金なんてない。全部お前次第だ。ただ一つ、これからお前が紡ぐ物語は誰よりも劇的であることは保障しよう】

 さらに上をいった牡鹿に、怜はしっかりと負けを認め、深く深く頭を下げた。

「お世話になります!」


 これが僕と牡鹿の最初の出会いで、僕が旅を始める切っ掛け――序章と言っていいだろう。もちろん楽しいことばかりではなかったけれど、この時の僕より数年先を生きる僕は声を大にして言える。僕の旅は劇的だ――。

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