白銀の牡鹿 3

「いやいや旅人じゃないし、話って。いや話なんで出来るんだよ」

 全く以て現状を説明しようとしない牡鹿に対し、鹿でも怒りを悟れるような語気で返す。

【歳はいくつなんだ?】

 相変わらず全てをすっ飛ばして、関係のなさそうなことを尋ねてくる牡鹿に、痺れを切らした怜は渋々と「二十二歳」と告げた。

【二十二歳か、そうか。私は今年で五十になった】

「いや鹿ってそんなに長生きな動物だったか?」

 突然年齢を話した牡鹿に、鹿の寿命を思い出そうとした怜は、牡鹿が言おうとしていることはそういうことではないことに気付く。

「鹿の癖に礼儀を重んじるのか……」

【鹿の癖にか……】

 語気を強めた牡鹿の真っすぐな眼差しを食らった怜は、咄嗟に謝罪を述べることにした。もちろん既にタメ口を使うなんていう愚行は捨て置かれ、ちゃんとした敬語が口からは紡がれている。

「いや、すいません。助けてもらったのに無礼な態度を取って。年齢も下の様だし」

【日本は礼儀を重んじる国だ】

 鹿が日本を語るなという言葉が思いついた怜であったが、それは口に出さず「そうですね」と心にもないことを言った。

【君は嘘が下手だな】

「ぐっ」

――なんなんだこいつ、やりにく過ぎる――

「いやちょっと動物と話すのって初めてで、現状が理解できていないというか。いやもう俺がおかしくなってるのかもしれないけど、火は暖かいし、背中に張り付くシャツは気持ち悪いから夢じゃないのかって。いっそ夢の方が良かったって言うか」

 目の前でちらちらとその姿を変化させる炎は、今日一日疲れ切った怜の身体を確かに癒していたし、気持ちの悪いシャツも先程より心なしか乾いてきている気がしていた。

【名前は?】

「俺のは答えないのに、質問ばっかかよ」

【なんだ?】

「怜です」

 巧みに語気を変化させて、緊張と緩和を促してくる牡鹿の話術にやられ、怜は正直に自己紹介をした。もうこれ以上変に突っかかっても怒られるだけで、この現状も変化しないと思い、諦めて牡鹿の「話」に付き合うことにする。

【私は鹿だ】

 真面目な顔なのか、鹿の顔なので理解できないが、声音は明らかに真面目そのものでそう自己紹介された怜はぷっと吹き出しそうになる。

「いやそれはわかってますよ。名前とかは?」

【あるにはあるが、どうせお前には発音できない】

「どうせって言葉嫌いです」

【そうか。私の名前は――】

 先ほどまで人の声で話していた――いや口を開いていなかったから話していたというのが正しいかわからないが――牡鹿は突然口を開き、鹿特有の鳴き声で何かを発して見せた。猟師の友人と山に入って鹿を追っていた時に山向こうから聞こえてきた鹿の鳴き声と何ら遜色のない本来の鹿の鳴き声であった。

【わかったか?】

 その問いで、今牡鹿が自らの名前を告げたということに怜は気付く。

「……いや全然」

【だろう? だから鹿と呼べばいい】

「それはちょっと。流石に僕も人間と呼ばれるの嫌だし、何か良さそうな愛称とか考えましょうよ」

【愛称なんていらない。そんな個というものに拘るのは人間だけだ。私は種で生きている。だから鹿で良い】

「そんなこと言ったって」

【なんでこんなところを歩いていた?】

 また突拍子のない質問をしてきたと思いつつも、流石に慣れ始めていた怜はもう何を思うもなく、純粋にその質問に答える。

「仕事辞めたんですよ」

【仕事?】

「営業の。なんか自分の背中に寄りかかって来る禿げ頭のおっさんも、ぎちぎちだというのに頑なにゲームを辞めようとしないキモヲタも、朝一番に自分を迎え入れるのがこれほどまでに不快で不愉快な満員電車なのかって。そんな絶望を乗り越えた先にあるのは、アットホームな職場で、どれをどのように詰られるかわからないから、変に背筋を伸ばして、常に背中に緊張の糸が張り詰めていて。ちらほらとそこに辿り着く同僚たちの顔に浮かんでいる笑顔が狂気だと思ってしまう自分にもっと絶望を覚えて」

 牡鹿に何を言われたわけでもないのに、愚痴や弱音は堰を切ったように溢れ出す。誰かに聞いて、ただ慰めて欲しい。それだけのはずだったのに、深い友情も、信頼できる関係も持ち合わせていなかった彼の心は方程式通りの崩壊を始めていた。もし話し相手が人間だったら、怜は変わらずに、嘘で塗り固めた経歴を話し、もう上手く作れなくなった笑みを浮かべながらあることないことを告げたのだろう。

 しかし目の前で、火を挟んで座る白銀の牡鹿の深い瞳はまるで海の様に、底無しに怜の言葉を受け入れてくれるような気がした。

「これでも大学時代は体育会で主将を務めて、文化会で会計職をやって、他の人にはないような趣味を持って、普通なんて言葉からはかけ離れた存在だったはずなのに、結局就活は上手くいかないし、思入れのない会社に有象無象と一緒に働いて、でも石の上にも三年なんて言葉もあるから少しは頑張ってみようと思ったんです。でも結局たったの一か月だ」

 怜の一方的な言葉に牡鹿は未だ言葉を紡ごうとはせず、静かに怜のことを見守っている。その姿にまだ話していていいのかと、許可のようなものを感じた怜は続ける。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー。好きな映画なんですけど、本当に。それが全く面白く感じなくなってて。バック・トゥ・ザ・フューチャーを面白いと感じられない人生なんて生きていても仕方ないって。死んでもいっかって思ったんですけど、死ぬ勇気なんてものはなくて、だから大学時代、猟師の友達とよく遊んでいたこの山に来たんです」

 いくらなんでも話過ぎたかと、牡鹿の表情を見るが、人の表情ならまだしも鹿の表情を読み解くなんてことはできず、口を噤む牡鹿の表情を見守ることしかできない。

【辛かったな】

 優しい声音で告げられた言葉に、一瞬心に掛けられていた鍵のようなものが解き放たれたかのように思えたが、その言葉に間髪入れずに発された【と、言って欲しいのか?】という言葉に、その鍵はもう一度硬く錠を閉める。

「え」

 思ってもいなかった返事に、気の抜けた声が出る。

【それが怜、お前のここに来た理由か?】

「え、いやまあそんな感じですかね」

【つまらないな。わざわざ初対面の者に不幸話をして何が楽しい。違うだろ。お前がここに来たのは人生に絶望したからじゃない。ここに来る理由があったからだ】

「そんな運命論みたいな」

【運命論の話をしているわけじゃない。歩いていると言うのにわざわざ後ろを振り向くようなことを言うなと言っている】

「アスファルトとか巨大ビルとか、クラブとか居酒屋とか。そんなものより僕は森とか河とか海に惹かれた。自然の中で何か見つけられるかと思って、かつて霊峰と謳われたこの山を目指したんです。でもその理由は近かったからなんですけど」

 その言葉に牡鹿は嬉しそうな表情で鼻を鳴らした。

【確かめてみよう。ついてこい】

 その一言を最後に牡鹿は話すのを辞め、山の奥へと歩いていく。怜の歩が遅れるとゆっくりと後ろを振り返り、怜が追い付くのを待った。恐らくどこかへ案内しようとしているのだろう。それに気付いた怜は一度屈み、靴の紐を硬く結び直し、白い牡鹿の後を追った。既に体力は戻り、気持ちの悪いシャツも乾ききっていた。

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