白銀の牡鹿 2

「すげえ」

 まさに感嘆の声を漏らした怜はその聳える霊峰目掛け一歩一歩足を進めていった。既に道はアスファルトではなく砂利道に変わり、辺りの植生も東京の産業用森林とは違う様相を持ち始めていた。花粉症である怜が忌み嫌う杉は見えず、都会育ちの怜からすると見たこともない植物がそこここに生えそろい、五月の煌びやかな日差しに、新緑が揺れる。怜を祝福しているかのような植物たちに対し、怜の心持はいささか暗すぎるものだった。もしこれが観光などの冒険の側面が強い旅であったなら、この植物の歓迎を心から受け入れ、今までにないような笑顔で、自らの旅路を見据えられたのだろうが、生憎彼の旅は逃避行だった。

「きれ――」

 そんな好意的な言葉を発しようとした彼の口はまるで突然扉を閉められたかのように、その音を外へ放出することはなかった。自らの心に渦巻く黒いそれがいる限り、全てにおけるプラスの感情が消え失せていく。そんな症状が、前職を辞めたいと思った辺りから続いていた。それもただ消えていくだけならまだ良い。何かに触れて喜んでいる自分を客観視すると、その自分がとても気味の悪く、気持ちの悪いものに映るのだ。世界で一番好きで、世界の誰よりも好きだと言える映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が世に溢れたB級映画の様に、自分の感情を全く揺れ動かさなくなっていたことに気付き、彼は自分が肉体的にも精神的にもになっていることを悟った。だからこの景色を見て、綺麗と思えたのは環境を変えた結果であるということは確かだろう。

「おいおい、ガチの登山道になってきたけど大丈夫かこれ」

 砂利道を少し行くと、本格的に道幅は狭くなり、遠くに見えていた自然がすぐ近くに見え始めている。バスにどのくらい揺られていたかはわからないが、既に日は山の向こうへと消えていっていた。しかし日没というわけではないので、まだまだ辺りは明るい。しかも今の怜にとっての目的は霊峰を拝むことであり、生きることではない。

「スニーカーだし、辺りも暗くなり始めてるしなぁ」

 一度立ち止まり、何かを考えた素振りをした後、彼はもう一度歩き始める。

「れりびー、れりびー」

 ビートルズの「Let it be」を口ずさみながら。


「終わった……」

 空になったペットボトルを地面に落とし、そのペットボトルを追うように、怜も地面の上に膝をついた。夕方になり湿り気を帯び始めた地面の冷たさがじんわりと布越しに伝わって来る。辺りは既に深い山の中で、怜の隣に聳える樹木は、植物であるというのに、怜を呑み込もうと迫ってきているかのような錯覚を覚える。

「疲れた……」

 鞄を外して、地面に倒れ込むと、汗で冷えたインナーがぴたりと背中にくっつき、気味の悪い感触をもたらすが、もう立ち上がる気力すらなかった。ふぅと一息を付くと諦めがついたのか、一気に視界が開け、木々の隙間から除く夜空に広がる星に気付いた。もう既に綺麗なんてことを言うつもりはなかったが、その限られた枠から見える星の数が、実家の近くから見る星よりも多く、自然とその瞳から一筋の雫が流れていた。

 見えていなかった。いや見ていなかっただけか。世界は美しかった。

 そんな感傷に浸る暇もなく、その限られた星空は雲に遮られてしまう。その物悲しさに溜息をつくと、目の前に白い息がぼわっと広がった。気温がそこまで低いわけではないのだがと、辺りを見回すと視界が白い靄に侵されていることに気付く。

「霧だ」

 こんな山奥で濃霧に閉じ込められれば、衣服は湿り、低体温症になってしまう。せめて一目霊峰を目にしたいと思った彼はゆっくりと立ち上がり、鞄を捨て置き、歩き始めようとしたところで、木の根に躓き、転んでしまう。

 痛む体を庇いながら、もう一度立ち上がろうとすると、目の前には二本の動物の足があった。大学時代、猟師をやっている友人と共にジビエを捌いたりして遊んでいたからこそ、理解できる。この足は鹿だ。視線をもう少し奥へとやると後ろ脚が見え、この目の前に立っているであろう動物が四つ足であることがわかる。逆関節の足に、偶数の蹄。ほとんど鹿であると理解しながらも、その見たことのない毛並みに鹿と断定しかねていた。

 何より顔をあげて、それを確認しないのは、この動物が、動物たる動きをしないからであり、何か幻想か妖怪のようなものを見ているという恐怖に彼の心が包まれているからであった。

 ただの好奇心旺盛な鹿が倒れ込んでいる怜を気にしているだけならそれでいい。しかし本来草食動物である鹿ならば、怜の気配を感じた時点で、山の奥の奥へその四つ足をふんだんに使って逃げていくはずだった。だというのに、この目の前にいる鹿らしきものは全くと言っていいほど、びくともせず、数十秒いや数分かもしれない時間を怜の前で過ごしていた。怜の中の恐怖がだんだんと溶け始め、疑問が生まれ始めていた辺りで、耳の痛くなるような静寂が破られた。

【死んでないなら立て】

 明らかに言語だとわかる音に、怜の中で生まれていた疑問がまた恐怖に変えられていく。

――この目の前にいるこいつはなんだ? 

 そんな疑問は首を上げればすべて解決できるはずだったというのに、その声のおかげで、もう解決にはならない。明らかに目の前にいるのは今迄生きてきた中で出会ってこなかった、出会うはずのなかった存在で、奇怪で奇妙で者だった。

【立たないか!】

 怒声ともとれるその声に、驚いた怜はまるで中学時代部活の顧問に怒られた時の様に、てきぱきと立ち上がり、「はい!」と返事さえもしてしまう。

 そこで怜が見たのは想像した悪霊でも妖怪でもなく、ただの鹿であった。しかし怜の知っている鹿とは一つ違うところがあり、本来栗色のような毛をしている体毛が、汚れ一つない雪原のような白銀であった。その毛皮に負けず劣らずに備えられた巨大な大角はその真っ黒な瞳から、怜を狙っているかのように思えたために、怜は少し身構える。その様子に牡鹿は笑いながら、【ここでは冷える】と、怜を案内するかのように歩き始めた。

「いや、もう歩け――」

 弱音を吐こうとした怜に向き直ろうとはせず、牡鹿は黙々とその歩みを進めていく。

「くそっ――」

 怜は転がっている鞄を拾い上げ、牡鹿の後を追う。焦っているからか、喋る鹿の不思議な力かはわからないが、その鞄を軽々と持ち上げ、先程までうだる様に歩いていた坂をひょいひょいと上り始めた。

 そして牡鹿が案内したのは大きな岩が斜面からせり出して、屋根の様になっている洞窟とは言い難いものの、風や霧を除けることの出来る空間だった。そこにはその四つ足でどうつけたのかわからない焚き火が付けられており、腰を掛けるのにちょうどよい岩の上に怜は座り、牡鹿は焚き火を挟むように、怜の真正面に腰を下ろした。

【さて、旅人、話をしようか――】

 牡鹿は口を開かずに、そう話し始めた。

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